575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

杉本美術館で思い出したこと ⑺ 〜會津八一と杉本健吉の出会い〜竹中敬一

2017年12月15日 | Weblog
會津八一と杉本健吉の出会いをそれぞれの履歴から推測してみます。
まず、杉本健吉評伝 (木本文平著)によりますと、杉本は昭和15 年、名古屋の料亭
「得月」(岸田劉生も訪れている)の主人、寺田栄一と奈良旅行をした頃から
奈良への関心が高まってきています。
この旅行で東大寺観音院の住職だった上司海雲(かみつかさかいうん) と出会い、
これが縁で、のちに志賀直哉や會津八一と交流しています。

白樺派の小説家 志賀直哉は大正14年、奈良に移り住み、約14年間、家族と暮らし
ました。奈良市高畑にある志賀直哉旧居は公開されているそうです。
この邸宅には、志賀直哉を慕って、武者小路実篤や小林秀雄ら多くの文化人が訪れ、
「高畑サロン」と呼ばれていました。
ここに、出入りするようになった上司海雲は昭和13年、志賀が鎌倉に移ると、この
サロンを引き継ぐ形となり、今度は東大寺観音院に文化人が集まるようになります。
「観音院サロン」と呼ばれ、會津八一、杉本健吉らが出入りしています。

會津八一と東大寺観音院の上司海雲との関係について、書簡集 (會津八一全集第8卷)
で辿ると、昭和17年11月3日、上司宛封書に「拝啓 今回も一方ならぬお世話に相成り、
一同感謝致し候。…」とあり、昭和17年より、かなり前から交流があったようです。
會津は昭和20年の終戦直前、東京から郷里の新潟に移りましたが、日記 (會津八一
全集7卷)によれば、終戦後、昭和25年2月14日から5日間、奈良を訪れた際、16日に
「観音院小集 一泊」、17日「杉本健吉の畫室。」とあります。

杉本健吉は昭和24年、上司海雲の知遇を受け、観音院の土蔵をアトリエにして、
盛んに奈良の風物を描くようになります。
會津と杉本は、昭和21年、會津が奈良での講演の際、観音院で杉本と出会ったのが
初めてとされています。(画文集「余生らくがき」)
ところが、杉本が観音院を住居兼アトリエとして、どのくらい滞在していたのか、
については、杉本健吉評伝(木本文平著) などでも触れていません。

會津の書簡集から辿ると、昭和28年4月5日、友人宛の封書に「いつも東大寺観音院に
籠ってゐる杉本健吉といふ洋畫家が、三四日中に来ます。私の歌二十何首に繪つけを
して持って来るので、それをまとめて出版します。…」とあります。
これで、わかるょうに、杉本は昭和24年から少なくとも4年以上は観音院に滞在して
いることになります。昭和31年、終の住処となる名古屋市瑞穂区佐渡町に移るまで、
滞在していたのでしょうか。
會津の友人宛の封書に出てくる出版の話は、二人の共同制作による歌書画集「春日野」
(昭和29年 文芸春秋新社)のことでしよう。
昭和21年、上司海雲が中心になって発行した季刊雑誌「天平」で、題字を會津が、
表紙絵とカットを杉本が担当しています。
「天平」は僅か第三号で休刊となりますが、この仕事で會津は杉本を評価したようです。

會津の日記 (會津八一全集第7卷) 昭和29年1月5日
" 午後六時半、杉本健吉「春日野」の畫稿を携へて 、東京より来る。(中略)
杉本一泊。杉本の繪は數年を隔つるのみにて目立ちて進展を示せり。"

杉本健吉は当代、一流の文化人に恵まれ、完成度を高めながら、絵三昧の生涯でした。
杉本美術館には、昭和31年 會津八一が76歳で亡くなった時、いち早く新潟に駆けつけ、
描いた會津のデスマスクと手を合わせる杉本の写真が大きく載った新潟日報の
切り抜きが掲げられています。


写真は陶芸家、齋藤三郎の作品集
「泥裏珠光」(編者、齋藤筍堂 撮影、田淵 暁 毎日新聞社 1998刊)

齋藤三郎 (1913~1981)は私の母方のオジ。越後高田(新潟県上越市)に登り窯を築き、
佐藤春夫、会津八一、棟方志功らが訪れています。

掛け軸の書は会津八一(秋艸道人)。「泥裏珠光」は会津八一の命名による齋藤家の屋号です。
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