575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「韓国船水難救護の記録」⑧ー萬世不忘之恩ー竹中敬一

2017年04月26日 | Weblog
韓国船水難救護に当たった内外海 (うちとみ) 村の村長、倉谷善右衛門の家は
私の生家と同じ阿納尻(あのじり)地区にあります。
私の同級生で、善右衛門のひ孫に当たる倉谷幹二君(故人)の話では、善右衛門は
庄屋の八代目に当たり、人望もあり、温厚な人柄だったといいます。

明治33年1月19日、韓国人との別れに際して、倉谷村長が贈った送別の辞が
当時の泊区長宅から見つかりました。

村長 送別の辞
「 告白
大韓国吉州明川にお住まいの皆様は海上で暴風に遭いこの地に流れ着きました。
我が村民はあなたがた全員の命を救うことができたことを誠に光栄に思います。
この地に七日間、滞在中、辺鄙の地ゆえ、待遇も思いのままになりませず、
遺憾とするところであります。
今日、我が国の官符令により皆様方に帰国して頂くことになりますが、お別れする
のは悲しゅうございます。
どうか行路ご無事で貴国へお帰りになられますようお祈り申し上げます。

    大日本明治三十三年一月十九日
    大日本福井縣若狭国遠敷郡
    内外海村長 倉谷善右衛門
大韓国咸鏡吉州学洞社
船長 許 希一
船主 鄭 在官
行客 崔 舜五 (「泊の歴史 資料集」参照 意訳) 」

「泊区長文書」には、韓国人との離別のときの模様を次のように記しています。

「舟小屋に区民一同、老若男女子供に至るまで全て集まり、韓人達に別れを告げたが、
その様子は実に親子の別れと同じであった。
韓人らが眼に涙すると、区民も共に涙を流し、袖を絞る程に泣きながら別れを告げた。
                        (「泊の歴史 資料集」参照 意訳) 」

泊地区の大谷藤蔵宅の蔵からは、別れに際して、内外海村長、倉谷善右衛門へ
差し出した韓国人からの礼状も見つかっています。

「……貴国の恩は山の如く、海の如くであります。私たちは国に帰り、それぞれの
故郷に戻ります。この忘れることの出来ない恩を萬世の世まで、お互いに語り伝えて
いくつもりです。河海の恩をこのように忘れずに、心より御礼 申し上げます。
                         (「泊の歴史 資料集」参照 意訳)」

この倉谷村長宛の礼状の最後には、韓国人を代表して、崔郷汝ら四人の署名が入っており、
「大韓光武12月19日」と別れの日を記し、「萬世不忘恩献書」とあります。(続く)


   写真は倉谷内外海村(うちとみむら)村長と自筆の「送別の辞」
                          (「倉谷善右衛門回顧録」より)






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