山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

中国植樹ツアー報告(3)

2016年09月04日 07時06分13秒 | Weblog
 緑の地球ネットワークの黄土高原スタデイツアーでは、もう大同市で確保した土地は植え尽くし、他に適当な場所もなくなり、今度、河北省に活動の舞台を移す段階に来ている下での活動だった。そのため、実際の植樹活動は少しだった。この点、物足りなさが残ったのは事実だ。でも過渡期でしょうがない。
 20年以上前、黄河が大きく湾曲している内側のクブチ砂漠で植林をしたときは、労働そのものだった。長ぐつ持参。まさに月の沙漠の風景だった。そんなところに植樹するのは、砂漠緑化そのものだった。砂漠なので活着率はそう高くない。ちなみに黄土高原は砂漠ではない。でも環境破壊とたたかう最前線だ。
 こんどのツアーの最後に北京の中国人民対外友好協会で緑の地球ネットワーク25周年の記念シンポジウムがあった。中国の要人も出席し意見交換が行われた。そのあと会場を移し、「中日友好使者称号授与儀式」がおこなわれた。高見邦雄・緑の地球ネットワーク事務局長が「中日友好使者」の称号をもらうことになった。日本公使も出席し挨拶した。25年の活動を総括する高見さんの講演も行われた。現地で迎えてくれ、案内してくれた高見さんは、日焼けした中国人の農民に近い風貌だ。質素は服装で植林地を歩き回る人だ。年間90から100日現地に滞在して中国人と協力して仕事をすすめている。表彰式で高見さんは、背広を着て現れたが、どこか借り物の服を着ているという風情だった。そしてずっと恥ずかしげだった。よくあるような得意満面の政治家の風情とは対極だった。人生をかけた、このようなひとの努力で中国の緑化がすすんできた。中国との関係が悪くなっている下だからこそ、地道な活動が重みを増している。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国植樹ツアー報告(2)

2016年09月03日 21時56分53秒 | Weblog
 この度、緑の地球ネットワークの黄土高原スタデイツアーで、山西省の大同での植林に参加した。緑の地球ネットワークは山西省北部の大同市で活動している。中国の市は日本でいえば県だ。中国の県は日本の市だ。 
 ➀霊丘県の南天門自然植物園での活動。海抜1316mの南天門という山の麓から頂上近くまでが植林地だ。ここが木の成長が最もよく、樹種も多い。見事な自然林として育っている。植林は海抜900mの自然園の事務所近くでおこなった。土はやわらかい。スコップでやすやすと掘れる。ここも黄土高原だとわかる。一人一本ほどのアブラマツと柳を植えた。もっとたくさん植えるのかと思っていたが、大同市で得られる植林活動の場がもうなくなり、あらたに河北省で活動する転換期にあるということだった。昼食で中国のカップラーメンを食べた。そのあと1100mくらいまで登って、ふもとまで見下ろして、25年に及ぶ植林活動の成果を実感した。松は直径10センチ、高さ10mを越すほどに成長している。木の種類は600種、科は80に達する自然林となっている。登るときも、下草と枝をかき分け、ずり傷を気にしながら息を切らせての行動だった。山の北斜面は活着率がよく、南斜面はよくない。常識を覆すことを教わった。冬、南斜面は夜凍ったのが昼溶けるをくりかえすことで植物の細胞を破壊するのでダメになるそうだ。北は凍ったままなので生きていける。実際あちこちの山でも北斜面が木の育ちがいい。
大同市の山は基本的にはげ山だ。それは中国での文明の発達とともに黄土高原は荒廃してきた。草を食べつくす山羊や羊の放牧。豊かになるためには山羊や羊をふやす。環境破壊との悪循環が止まらない歴史だった。耕作もそうだ。黄土高原では「耕して天に至る」という言葉がその特徴を表していた。だがむきだしの黄土は、雨が降ると表土を流し、浸食谷をつくる。実際行ってみると、テーブル状の高原が、あるところで垂直に近い崖になっている。それが折り重なって深い浸食谷をつくっている。今立っているところもいつかは崩れるときがくる。そもそも黄土高原は、西のタクラマカン砂漠からの偏西風に乗った黄砂が太行山脈にぶつかり、数十mの厚さの黄土高原を形成した。黄土高原は、山西省、その西の陝西省、さらに寧夏回族自治区や甘粛省まで広がっている。ここが中国文明のゆりかごであり、舞台だった。だから環境破壊もすすんだ。
②アンズ果樹園。渾源県呉城郷のアンズ果樹園へ。この果樹園こそ、もう1m前に出たら断崖絶壁という典型的黄土高原の姿をとどめている。そこに30万本ものアンズを植えている。立派に実っている。アンズの実は乾燥アンズに、種はヒマワリの種のように菓子に加工している。村人にとっては粟やキビをつくっていたころに比べたら格段の収入になった。収益の一部は教育費にあてられ、すべての子どもが学校に行けるようになった。商品化したアンズの種を割って中の実を食べるとアーモンドのような味だった。だが買い物時間に大同城区のウオールマートで必死に探したが、このアンズの種は売ってなかった。
③大同県王千戸庄の緑の地球環境センター。大同市政府から提供された23ヘクタールの土地で苗をつくったり、多様な植物を育てて、展示管理している。2011年に土地を確保して15年にプロジェクトは完成した。ここで8月29日、「中日緑色地球環境中心(センター)緑化基地建設項目竣工儀式」がわれわれも参加しておこなわれた。日本の北京大使館の前川一等書記官や大同市総工会(労働組合)副会長があいさつして式がおこなわれた。前川書記官は一日中われわれと行動を共にした。ここでわずかに残った土地にアブラマツを植えた。一人当たり1本だ。相当大きく育った松を植えた。アブラマツは日本にはない中国の松だ。でも区別はつかない。このあと全体を見て回った。多様な木と野菜が植えられていた。野菜はここの現地職員の食用だ。ここには日本政府の資金援助も入っている。昼食はここのセンターのおばさんたちがつくってくれた料理をたべた。おいしい。スッポンの炒め煮まであったのにはびっくり。人生2度目のスッポンだった。
④大同県聚楽郷の采涼山地球環境林とカササギの森。采涼山はなだらかな丘だった。采涼山プロジェクトは2000年から始まり、モンゴリマツを3m×1m間隔でうえた。斜面に垂直に畝をつくり、うねの陰に苗を植えた。畝をつくることにより雨が降っても土が流れず水がたまる。
これと地続きの実験林場カササギの森。黒と白のカラスに似た鳥・カササギがいる森だ。2001年から、谷をはさんで向かい合う600ヘクタールにモンゴリマツを中心に植えている。モンゴリマツ1本1本に番号をつけて観察を続けている一角もある。少数の枯れたもの、生育の悪いもの、直径10センチにまで太ったもの。全体に成長はいい。ここにはイオンやサントリーなどの会社や労働組合の植樹記念碑がたくさんある。中には画家の平山郁夫さんや政治家・武村正義さんらの碑もあった。安倍首相の流れの右翼政治家のはなかった。
大同市での日中協力の植樹活動は大いに成功している。苦労の連続だったと思うが、正しい道だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国植樹ツアー報告

2016年09月02日 19時39分39秒 | Weblog
 中国・大同の植樹ツアーから帰ってすぐに報告をと考えていたが、パソコンが立ち上がるけど途中から動かなくなる状態でとん挫していた。ところが夕刻からちゃんと動きだしたのでようやく発信できた。
 今日は9月1日に大同から北京に来て帰国準備に入った最終日の体験から。

1)朝6時15分、一人でホテルを出て街角探索をした。ホテル近くの公園の入り口には多くの人が吸い込まれているので、わたしも付いていった。公園だから中国名物の、いろんなグループによる各種体操、太極拳、舞踏が大音響の下でやられていると思ったが、ない。公園の向こう側まで達した。この公園は小高い山があり、故宮=紫禁城を見下すことができる景山公園だった。丘の途中まで行ったら看板があった。大きな音を出したり、踊って騒いではいけないという法律が示されていた。各地の公園で朝の恒例行事だった大舞踏会がうそのようだ。
 公園を出て灰色の壁の街に入った。路地を歩いていると、胡同(フートン)の文字が目についた。北京の庶民の集合住宅、胡同だ。平屋のレンガ建てだが表面は灰色のモルタル塗りとなっている。赤色の両開きの扉の右上に三眼井胡同30号、73号などと書かれている。幅3mくらいの路地を歩いていると、ある胡同が修理工事中だったので入った。数mの通路を進むと真ん中に7m四方の中庭があり、これをかこんで9つの家があった。家というより部屋という方がぴったりだ。アルミサッシの窓とドア。各戸の広さはたった8畳くらいの一間だ。日本の玄関というものはない。靴の生活だ。一角に9戸共用シャワー室のようなものがあった。路地のあちこちに共同便所(共同厠所)があった。変だなあと思っていたのだが、修理中の胡同を見て理解できた。胡同の各戸にはトイレがないのだ。向かい合わせの9戸前後がひとつの胡同となる。江戸時代の庶民の長屋が通路をはさんで共同体を形成していたように、胡同も共同体の細胞を構成している。扉だけで外部と接する閉じた小宇宙だ。
 生活の場なので、入り口から通路を少し入って様子をうかがう程度にとどめたが、中庭にも家をつくって貸出して広場が消滅した、せせこましい胡同が多いように感じた。
 胡同については、謝晋だったか張芸謀だったかの映画に、生活の舞台として印象的に描かれていた。映画では、現実の北京の胡同より広い中庭が共同体のゆりかごとなり、四方の家もけっこう広く描かれていた。映画の印象からすると、とても小さく感じた。
 胡同は、いま、地方政府による取り壊し、再開発の危機にさらされている。貴重な文化遺産でもあるだけに、慎重な対応を期待したい。

2)この日の午前、雍和宮に行った。雍正帝が皇帝になる前に住んでいた宮殿だ。入場料は25元。学生、60歳以上は半額だ。つぎの乾隆帝がラマ教=チベット仏教の寺院に整備し寄進した。各建物には清朝の出身の満州語、漢語、チベット語、モンゴル語の四つの文字で雍和宮、雍和門などが書かれた額が掲げられていた。
 故宮とまではいかないが、大変な数の人がつめかけていた。模造の仏花を持っている人も目につく。門で長い線香36本が入った箸箱のようなものをもらった。
元宮殿だからたくさんの建物がある。それぞれに仏像が祀られている。建物の前で、若者を含めた多くの人が、火をつけた数本の線香を頭の上にささげ持って、東西南北に礼拝する。さらに石畳にひざまずき、恵みをいただくべく手のひらを上にむけて、頭をこすりつけんばかりにして礼拝する。さすがに五体投地をする人はなかったが。
 あまりに多くの若者、中には入れ墨の男までが熱心に祈るのにわたしはびっくりした。わたしは信仰をもたないので、神社仏閣を訪れても祈らない。今の中国では、他の仏教やキリスト教もそうかのかはわからないが、少なくともラマ教は一定の信仰を集めているようだ。ラマ教の教えはわからないが、不安をかかえる若い人が多く拝んでいる姿を見ると、御利益を求めているのだと思う。故宮と違い団体観光客が少ないのは、宗教的理由で集まる人が多いことの裏返しだ。中国の宗教事情の一端を見た。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする