山上俊夫・日本と世界あちこち

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エイミー・ツジモト「満州天理村『生琉里(ふるさと)』の記憶」を読む

2018年08月16日 22時27分16秒 | Weblog
 エイミー・ツジモト「満州天理村『生琉里(ふるさと)』の記憶 天理教と731部隊」(2018年、えにし書房)を読んだ。退職教職員の会の福谷美智子さんに盆の帰省の行き帰りに読みますといっていただいた本だ。
 25年ほど前に天理教やその他の宗教に関心があって天理教、天理ほんみちについて勉強したことがあった。天理教は言わずと知れた中山みき(1798~1887)が幕末に神がかりとなって起こした新興宗教だ。特徴は「ひとは いちれつ みなきょうだい」という徹底した平等主義、底辺の人々を助ける「たすけ一条」の教えにある。だから信者をつぎつぎ獲得していった。
 国家神道を掲げる明治政府は天理教への取り締まりを系統的に続けた。中山みき自身の逮捕・拘留は18回に及んだ。みき亡き後の天理教団は、弾圧に屈し、国家への服従を教義上も金銭的にも様々おこなった。国家への服従はみきの教えへの裏切りだとして、大西愛治郎ら天理ほんみちの分派も生まれた。この本では、弾圧と苦難の歴史のなかでの国家へのすり寄りをくわしく書いていく。とくに主なテーマである満州の天理村の歴史について、その筆は厳しい。
 天理教団は国家の要請を受け、1934年春に満州天理村の起工に入り、11月には第1次43家族204名がハルビン駅の東に入植した。満蒙開拓団の最も早い部類だった。天理村の周辺は常に関東軍が警備した。土地は満州人の土地を安くむりやり買い上げたもので、入植した男たちは軍の演習に従事し、満州人は天理村の土地を耕し、収穫は折半した。開拓者は地主になった。満州天理村は、自らは布教移民の位置づけだったが、実態は土地を取り上げる武装移民だった。天理村は第12次移民まで2000人近くが入植した。満蒙開拓団の総数は27万だから、数としてはごく一部ではある。天理教団だけでなく、日本基督教団はじめ各宗教団体も満蒙開拓の侵略的国家事業に積極的に協力していた。
 天理教団が関東軍から与えられた土地は、のちに建設された「悪魔の飽食」の731部隊と隣接するような場所だった。1938年731部隊の建設が始まると村の男性はレンガ積みの作業に従事した。村の小学校ではペスト菌を感染させるハツカネズミの飼育をおこなった。村の青年が軍に召集され、731部隊に配属された。
 天理教が戦争協力について真摯な総括をせず、何の反省も表明していないことに厳しい批判の目を向ける。浄土真宗大谷派が「親鸞聖人の教えになきことを教えと称して門徒を侵略戦争に駆り立てていった」と厳しく教団の戦争犯罪の罪責告白をしたのを筆頭に、キリスト教も含め伝統教団の多くが自己批判をしている。しかし天理教は教祖中山みきの「人は一列みな兄弟」という教えに背いて戦争に加担したことに向き合おうとしていない。
 著者エイミー・ツジモトは、風間博、相野田健治という二人の協力者を得て、天理教の奥まで切り込む。風間博は教団内部で戦争責任を提起するが相手にされず、排除された。
 新興宗教といわれる各教団は天皇を崇拝しないとして弾圧された。戦争への加担についてどう総括しているのか。この本は、天理教内部からの戦争責任の追及を柱として編まれている。その意味で貴重な作品だ。
 宗教が権力に屈服し、権力と一体となり、さらに権力を行使するようになると、歴史に重大な禍根を残す。戦前の天理教は権力に屈服したが、それを大きく超えるものではなかった。ひるがえって、21世紀の日本で、権力と一体になり、権力を行使するような教団はないだろうか。権力への政治的忠誠が、信心、信仰心の度合いを測るものとしてまかり通る時、それは戦争への道にほかならない。
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