山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

松野由子さんの『言葉という絆』を読む(3)

2012年08月09日 14時46分35秒 | Weblog
 前の(2)文章を書いているとき、小指がどこかに触れて、かってに載ってしまいました。やむなく(3)として続きを書きます。また十分見直しすことなく載ってしまいましたので、不十分で松野さんには失礼な表現があったかもしれません。

 (つづき)
 今、学力の商品化、道具化がすすんでいる。昔は、学力がつけば、人間や社会への洞察もでき、弱い子をひきあげ、クラスをまとめる役割をおのずと担うようになった。だが、今の新自由主義的な学力観のもとでは、小学校の学級崩壊は、進学塾へ通う子が学校を遊びの場にすることによって進行し、いじめに加担する事態さえ生まれてい
る。21世紀の教育の最大の課題は、学力と人間性の復活だ。高い学力はあるけど、いじわるな人間が育つのでは、これは教育とはいえない。
 東大出版会のこの本は「言葉という絆」とテーマをかかげているので、松野さんもそれほど明示的には書いていないが、松野さんの教育の柱は、自身の戦争体験からくるメッセージ「戦争の子のバトンを渡します」にある。小学校入学が中国への全面侵略の年、授業はなくなり勤労動員にあけくれる、女学校3年の1945年。皇国民をそだてる教育のなかで育った”戦争の子”だった。「天皇陛下ノタメ、オ国ノタメ、命ヲ捨テテオ仕ヘスルリッパナ人」になるための教育を二度とくりかえさないことが誓いとなった。松野さんの授業計画には、12月8日に「戦争の子のバトンを渡します」が入っている。生徒は、あらためて松野さんの授業が、いかに生きるのかを問う授業であったことをかみしめるのだ。
 松野さんが退職した年、「松野由子先生のバトンを受ける会」が5つの学校の卒業生によって盛大に行われ、しっかりとバトンは受けつがれた。松野さんの授業は授業方法の問題を提起しているのではない。方法をも規定する内容を問うているのであり、授業をする教師の生きざまを問うているのだ。
 小森陽一がいうように、「授業を展開する技法はかなりソフィスティケイト(洗練)された形でいろんな手だてができていて、選り取り見取りですね。教師にとって便利にはなっているわけでしょう。そうすると問題なのは、教師がどういう自分として教室にいくのか」ということになる。このことを通してしか、学力と人格の分裂という、今の教育の本当の危機は救えない。教育の危機は、けっして学力ランキングで順位が下だというところにあるのではない。
 わたしのこの文章が、本の編者の「教室の言語空間」(佐藤学)という関心事からややそれたかもしれない。しかし松野さんの教師としての生き方には添うことができたのではなかろうか。

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