山上俊夫・日本と世界あちこち

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「立憲主義だけでよいのか」という大沼保昭氏 立憲主義を徹底して低める

2016年08月14日 22時31分02秒 | Weblog
 『毎日新聞』2016・8・12の「論点・憲法と民主主義」で東京大学・大沼保昭氏と同志社大学・阿川尚之が大型インタビューに応じている。阿川氏は駐米公使を務めた人だから、安保法制が実現してよかったという立場からさもありなんという論を展開している。
 びっくりしたのは、国際法の大御所大沼保昭教授だ。立憲主義を極限まで相対化し、これが理論家のいうことかと思った。
「立憲主義を守れという人たちは、9条を守れという護憲派とほぼ重なっている」「憲法を守ることを自己目的化するのは間違っています。憲法は国民の幸福のための道具と割り切って考えるべきで、宗教の聖典のように扱うべきではありません」「日本の憲法だけを物神化する議論は独善的で危険です」という。
 護憲派はもちろん立憲主義を守れという。護憲派でなくても立憲主義をくつがえすのは許せないと論を張った小林節教授のような人もいる。憲法学者で安保法制合憲という人は数人しかいなかったし、立憲主義の相対化を公言する人はいなかったのではないか。憲法を物神化するのは独善的だという。たしかに物神崇拝はよくない。多くの人が憲法に祈るような気持ちを持ってはいるが、それは平和主義にしろ生存権にしろ、自民党政権から激しい破壊攻撃にさらされているから。だが祈っているだけではこれは守られない。憲法の平和主義・生存権は世界最先端の内容を持っているがゆえに希望を託した。託すだけではなく、憲法を実質化するための国民運動が営々とつづけられた。1960年代の朝日裁判は生存権運動の金字塔だ。戦後一貫してつづけられた平和運動・原水禁運動は憲法9条を実質化するものだ。だから決して物神崇拝してはいない
 大沼氏は、「安保法制をめぐっては、メディアも政党もひたすら9条の厳格な解釈か、柔軟な解釈か、という議論に精力を注いで」60年安保の時代に逆戻りしたといい、そういう議論にもっていった政党とメディアの責任は大きいという。
 9条を厳格に解釈するのは当然だ。過去の自民党政府はガラス細工ような組み立てで9条を極限まで柔軟に解釈してきた。ところが昨年の安保法制ではこのガラス細工をぶち壊して、もはや解釈とはいえない反対物である集団的自衛権を多数の力で決定した。60年安保に次ぐ国民運動を無視して。9条の下での集団的自衛権が柔軟な解釈で許されるという大沼氏の憲法解釈をもう少し聞いてみたい。立憲主義の危機だと認識した良心的メディアに責任を問うという大沼氏のずぶずぶ、いい加減な憲法論にあきれる。
 「『立憲主義』の主張者たちは欧米中心主義で近代主義的な憲法観にとらわれ過ぎて、憲法とは国民がそれぞれの歴史、文化を踏まえて示す国のあり方なのだという憲法の原点を忘れているのではないか」ともいう。立憲主義の主張者は、日本国憲法の原理は普遍的なもので、21世紀にこそ花開くと考えている。欧米中心主義にとらわれているなどと考えていない。憲法、立憲主義をよりどころに、アメリカの要請による集団的自衛権に対し、これをくいとめようとするのを、欧米中心主義にとらわれているというのは理論というよりも揶揄である。
 大沼氏はさらに、「仮に立憲主義が憲法の重要な柱だとしても、現在の日本国民にとって、『立憲主義対非立憲主義』という問題がどれくらい切実で重要なことなのか」、それよりも将来世代に借金を背負わせている国家財政のことがはるかに重要な課題ではないかという。国家財政問題は重要だ。だが安倍政権はこれを政治課題にから外している。安倍にとって憲法改正がすべてで、そのためには政権の長期安定、そのために支持率の維持、財政規律を踏み外しても政権浮揚のために借金をつぎこむ、これが実態だ。政治目的のために国家財政を破綻させることもよしとする安倍政治。重大な問題だが、立憲主義破壊が憲法体制を土台からくつがえすものだからこそ、切実な問題だと野党やまじめなメディアは訴えた。立憲主義がそれほど切実で重要なことではないというが、切実な問題になりにくい立憲主義を国民的な議論にまで押し上げたのは去年から今年の良識の現れだ。切実な問題だと多くの国民が認めた結果だ。
 大沼氏は、「社会を成り立たせているのは、立憲と民主の原理だけではない」、フランス人権宣言さえ友愛をうたい、日本文化には謙譲の美徳、寛容があり、これを必須のものとして国のかたちを考えなければならないともいう。謙譲や、寛容がどうしたといいたい。復古主義的憲法観にまでとらわれているのか。
 大沼氏は最後に「『立憲』であれ何であれ、一つの価値だけを奉じて突き進んでいくと、対立が先鋭化して、成熟した賢慮が働かない。その意味で安保法制以来の言論空間のあり方について、メディアは深く自制すべきではないか」といった。「奉じて」=うやうやしく捧げ持ってという言葉を使うのが法学者の用語法なのか。立憲主義が抜き差しならない問題として浮上したのは、安倍内閣が憲法解釈の範囲を超えて、9条破壊に乗りだしたからだ。
 安保法制以来の言論空間に大沼氏は不満のようだ。つまり、憲法9条は集団的自衛権を認めるのかをめぐって、憲法学者が多く登場してことが不満なのだ。湾岸戦争やイラク戦争の時のように、憲法論議はさせずに、パワーポリティックスで戦争を論じる国際政治学者に言論空間を独占させたかったのだろう。だが、憲法審査会の公聴会で自民党推薦の参考人までが安保法制は憲法違反といったことから、真正面から憲法論議をしようという空気がマスメディアに広がり、国会論戦でもきびしい憲法論議が展開された。何十年にわたって無視され続けてきた憲法学者がつぎつぎとメディアに登場した。憲法に関わる問題なのに、憲法学者はこれまでないがしろにされてきた。それが本来の姿に戻ったのだ。それが気に入らないのが大沼氏だ。
 憲法にしたがって統治がおこなわれる、憲法は国家権力をしばるものだという原理を立憲主義という。以前は当たり前のこととして、とりたてて問題にされなかったのが立憲主義だ。だが安倍政治の下で、一般国民にも抜き差しならない問題として意識されるようになってきた。大沼氏がいうような、立憲主義をささげ奉ってではなく、多くの国民が近代民主政治の根幹を自らのものにしたがゆえに、たたかいが燃え上がったのだ。
 著名な国際法学者が、このような陳腐な議論をするとは思わなかった。立憲主義だけでよいのかと、近代民主政治の根本原理を低める議論にはまったく同意できない。
 
コメント (1)
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