山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

政治家の政治責任、橋下氏の責任論は謬論

2013年05月28日 06時07分14秒 | Weblog
 橋下大阪市長・維新の会共同代表の妄言によって女性と元慰安婦を傷つけたこと、国際社会での日本政治の信用を失墜させたことの責任を問う声があがっている。外国特派員協会の質問でも責任をどう考えるかとの質問があった。
 これに対し、橋下氏は、次のように答えた。
 「民主主義の国では、政治家の政治責任は選挙で審判を受けることだ。私の今回の発言に国民がノーといえば、参院選で維新は大きく敗北するだろう。選挙の結果を受け、共同代表のままでいられるかどうか、党内で議論が生じると思う。」
 橋下氏は、これまでさまざまな問題で見識が問われたり、責任が問題になったとき、かならず、選挙で判断してもらったらいい、選挙で責任の決着がつくといってきた。今度もそうだ。文句があるなら選挙で私を落としたらどうだと、居直りと挑戦的態度をとりつづけた。
 だが、橋下氏の責任論は根本的に誤っている。
 責任のとり方はいろいろある。謝罪をする、過ちや失敗を以後の実践で正す、役職を降りる、公職を降りるなど。
 橋下氏は、自らの発言について、風俗活用発言についてだけ、誤報だといいわけをしながら表現は撤回するとし、米軍・アメリカ国民にだけ謝罪した。沖縄県民や女性に対しては責任を感じていない。もう一方の慰安婦は必要発言については誤報だと責任を転嫁し、他国を引き合いに出して問題のすり替えと責任回避をはかった。
 橋下氏のいう責任論は、選挙の審判をうけるということだが、これは通常4年に一度の選挙民の権利行使であり、最終的な責任の取らせ方だ。政治家が責任を取る機会が選挙の時だとなると、それまでは責任をとらなくていいということになる。つまり橋下氏の責任論では、政治家が自ら責任を取るということがない。選挙で落選という形で強力的に責任を自覚させられなければ、ずっと責任は取らないことになる。
 普通の市民が何らかのことで責任を取る場合は、選挙などの強制によることなく、人間のあり方として責任をとる。政治家の場合、普通の市民より責任は重い。選挙制度がない時代でも、政治家は自らの意思で辞任などの形で責任をとってきた。ところが橋下氏の論は、市民の責任のとり方よりも、選挙制度がない時代の責任のとり方よりも、ずっと甘い。これでは権力者の天国だ。次の選挙まで2年も3年もあって、その間に懐柔すれば選挙民は忘れる。責任は問わないという選挙結果になる可能最大だ。
 ただ、橋下氏は維新の会代表として発言したので、次の選挙は50日後の参院選だ。懐柔や忘却戦術は通用しない期間だ。すすんで責任をとらなくても、とらされることにはなるだろう。 
 とはいえ、政治家が政治責任を取る機会は選挙だけだという橋下氏の論は、民主主義の政治を化石化させるものだ。

コメント
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