はくはつフクロウの独り言

白髪混じりの薄髪。初老フクロウのひとりごと。

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薬師寺-2

2006年11月10日 | 旅行記
薬師寺は玄奘三蔵(三蔵法師)を始祖とする法相宗の大本山の一つであり(他の一つは興福寺)、岩槻市の慈恩寺にあった玄奘三蔵の頂骨(喉仏のようである)の分骨を受け、それを祀るために玄奘三蔵伽藍を造営した(1991年)。

この伽藍建設の話を聞いた平山郁夫は「モニュメントとして何か考えましょう」と申し出、30年(20年との説もある)かけて、「大唐西域壁画」を作成し、同寺に奉献(寄贈)し、大唐西域壁画殿に納められた。
平山画伯はまた、75センチ角の天井板が248枚ならぶ大唐西域壁画殿の格子天井にも群青色の夜空に輝く星を散りばめ、東西に太陽と月を配置した。




壁画は、高さ2.2m、玄奘三蔵の足跡をたどる以下の絵から構成され、それらをつなぐと全長49mになる。なお、「大唐西域壁画殿」は画伯の揮毫である。

 ・明け行く長安 大雁塔・中国
 ・嘉峪関を行く・中国
 ・高昌故城・中国
 ・西方浄土 須弥山(右)
 ・西方浄土 須弥山(中)-写真の中央に写っている
 ・西方浄土 須弥山(左)
 ・バーミアン石窟・アフガニスタン
 ・デカン高原の夕べ・インド
 ・ナーランダ(*)の月・インド

玄奘三蔵伽藍を計画した高田光胤管主はこの壁画を見ることなく遷化し、画伯は最後の壁画に遠景で彼の姿を描いた。

ところで、前回述べたように、薬師寺の金堂(本堂)は兵火によって焼失し、その再建が代々の管主に申し継がれた。
この再建(1976年)を実現したのが、故高田光胤管主(1924~1998年、管主在任:1967~1998年)である。
彼は、その財源を「百万巻写経勧進」で達成しようとした。つまり、般若心経の写経一巻を千円で納めてもらい、10億円を調達しようとしたのである。
彼は、前管主以下寺全体の反対を押し切り、就任の翌年から活動を開始し、1976年に百万巻を達成した(その経緯はここに書かれている)。

同寺のホームページによると、その後も写経勧進は続けられ、2000年には七百万巻を達成したという。

*「ナーランダ」
5世紀初頭に建てられた仏教大学の跡。5~12世紀に栄え、往時は数千人の僧侶が学んでいた。
インドだけではなく諸外国からも留学僧が集まり、中国の玄奘三蔵もここで学んだ。

<[薬師寺]の稿終り>

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2 コメント

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熱意 (アル中のトスカ兄さん)
2006-11-10 21:33:58
私は、率直に言って宗教心をまったく持ち合わせていないものですから、経典には無関心ですし、ましてや写経しようと思ったことは一度もありません。そのため、2000年までに700万巻も集まったと知って、ビックリしました。

自らの計画を強力に推し進めた故高田光胤管主の熱意は特筆に値しますね。その熱意に感動して、多くの人が筆を執ったのでしょう。
私も (はくはつフクロウ)
2006-11-11 00:11:44
宗教心があるとは思いませんが、写経はしたことがあります。

般若心経は全276文字で、仏教のほとんどの宗派で唱えますし、半紙1枚に入ります。

そして、写経は、手本を下に敷きその上に半紙を置いて書くので難しくはありません。

ただ、普通は筆で書くように言われます。ところが、薬師寺の写経は鉛筆でも良いそうですから、これも多くの写経が奉納された理由の一つだと思います。

また、故高田光胤管主は、テレビなどのマスコミに度々登場し、「タレントか?」と思っていましたが、今から思えば、「百万巻写経勧進」を実現するために必死だったのでしょう。

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