柴犬日記と犬の児童小説

初めて飼った犬の記録と犬が出てくる児童小説+共感した記事

カズとおじいちゃん<6>最終回

2019-01-13 19:22:37 | 小説
土曜日の午前。大山神社から始まる登山道沿いの緩い斜面に立つ二本の杉のうち、上の方にある大木の前にタンを連れた和彦たち七人が集まっていた。大山からの帰りには正午までに竜崎老人宅に寄ることになっていた。老人のたっての頼みだった。
今度こそはと誰もが大木の空洞を見つめていた。その大木は幹回りが三㍍を超え周囲の雑木を圧倒していた。根元には和彦が少しかがめば入れるぐらいの空洞があった。空洞を縁取っている茶褐色の樹皮が彫刻の飾りのようにも見えた。軍手をはめた雪男が両ひざをついてシャベルで地面を掘り始めると、全員が中腰になって雪男の手先を見つめた。
「おっ、何だこの赤いのは」
 雪男が声を上げた。
「おーっ」
背後がどよめいた。土は意外にも柔らかく雪男の二かきで二つの牛乳びんの膨らんだ部分とさらに透明なビニール袋に入った赤い陶器が現れた。雪男は両手を突っ込み、左手で二つのびんの細くなったところを、右手で赤い陶器の入った袋をつかみ引き上げた。二本の牛乳びんを斜面に置いた雪男は、顔の前で泥のついた袋を右手で掲げた。赤い陶器は手のひら大で長方形をしていた。
カタッ。袋の中で斜めになった陶器の上ぶたが外れて袋の底に落ちた。雪男は慌てて袋の上から左手を上ぶたに添え本体と合わせようとしたが、その前に二つ折りの白い封筒と四つ折りになった一枚の便せんも底に落ちてきた。封筒の裏側に書かれた名前の中に「仙」の一文字があるのを誰もが見逃さなかった。
「わーあ、仙吉さんからの手紙だ。仙吉さん、ここに来たんだ」
「カズッ、良かったな」
和彦が歓声を上げながら弘人たち四人とハイタッチを繰り返した。
「竜崎さん、待ったかいがあったわね。ほんとに良かったわ」
 公子の声も弾んだ。
「これ渡したら竜崎さん喜ぶぞ」
 雪男がビニール袋の外から封筒と便せんを陶器の本体に入れて上ぶたを閉めた。そうこうしているうち和彦たち五人がひそひそ話を始めた。
「どうして封筒のほかに便せんも入ってるのかなあ」
 弘人に背中をつつかれた和彦が雪男と公子の顔を見比べながら首をひねった。
「う、うん。まあ、そりゃあ竜崎さんに見せてからの話だな」
「そうよ、和ちゃん」
 雪男の意見に公子が同調した。
「それにしても仙吉さん、竜崎さんが連絡を取ろうとして入れたびんの手紙に気づかなかったのかしら。連絡用のびんを開けた気配もないし……」
 公子がぽつりと言った。
「確かに、言われてみればお母さんの言うとおりだな。仙吉さん本人ならびんが二本埋まってたら一本は竜崎さんが入れたものと気づくはずだよな。そしたら竜崎さんの連絡先も分かるんだから、こんなことしなくてもいいはずだが」
「あー、やっぱり仙吉さん以外の人が来たんだよ……。お父さん、そのびんはどうしたらいい」
 一呼吸置いて和彦が斜面に置かれた二本の牛乳びんを指さした。
「そりゃあ、二人の手紙が入った方は埋め戻すべきだな。二人の約束は守られないとな」
「そうだね」
雪男は一本のびんをもとの位置に埋め戻した。赤い陶器はビニール袋から取り出され、泥を払った袋と、もう一つのびんとともに腰につけたバッグに入れられた。
「じゃあ、下山するぞ」
 雪男の軽やかな声を合図に七人は雪男を先頭に登山道から境内に出て石段を下りていった。
「手紙渡したらおじいちゃん、どんな顔するだろう」
「今日はほんとにドキドキしたよ」
「すごいロマンがあったなあ」
タンを連れた和彦たちは口々に言い合い駐車場を目指した。
                ◇
朝八時に白石家を出た七人が竜崎家の近くにある公民館の駐車場に着いたのは正午前だった。そこには一台の救急車が停まっていた。
「おっ、救急車だ。中をのぞいてみようぜ」
弘人の誘いに和彦をはじめ子供たちがすりガラスのウインドーの前でぴょんぴょん飛び跳ねた。
「何してるの! いけませんよ」
救急車を前に物珍しそうにしている子供たちに公子が雷を落とした。
「ちぇっ」
弘人が公子に聞こえないように舌打ちした。タンを連れた和彦を先頭に七人は灘道を一列になって歩いた。竜崎家に入っていく進入路近くに来たとき人だかりがしているのが目に入った。
「お父さん、何かあったのかなあ」
 和彦はそう言うとタンのリードを引っ張り五、六人が群れている所まで二、三十㍍走った。
「何かあったんですか」
 和彦はやじ馬の大人たちに声をかけた。
「あら、僕」
声をかけてきたのは竜崎家の玄関から進入路を走って来た篠田民生委員だった。エプロンをつけサンダルをはいて慌てた様子だ。
「大変なのよ。竜崎さんが今、救急車で運ばれるところよ」
「えっ、そんな」
 和彦がとっさに玄関の方に目をやると、少し開いた引き戸の隙間からストレッチャーの端が見え、その脚が小刻みに揺れていた。寝かされた竜崎老人の顔は見えなかったが、白衣を着た救急隊員のほかに黒のセーターを着た白髪の男性がストレッチャーに向かって何か呼び掛けているようにも見えた。
「どうしたんだ、和彦」
「和ちゃん、何があったの」
 異変を感じて走って来た雪男と公子が和彦の顔をのぞき込んだ。
「カズッ、何があったんだ」
弘人たちも駆けて来て和彦の背中に声をかけた。
「おじいちゃんが……」
 和彦はそれ以上言葉が出なかった。
「あの、この僕のご家族の方ですか。わたしは民生委員をしている篠田といいます」
「はい、和彦の母ですが」
 公子が早口で答えた。
「あっ和彦くんだったわね。竜崎さん今、救急車で病院に運ばれるところなんです」
「えっ」
公子をはじめ誰もの表情が硬くなった。公子が意を決し口を切った。
「ご容体はどうなんでしょう」
「気分が悪いから来てくれって電話があったんで行ってみたら、居間の電話台の所で竜崎さんがお腹を押さえて苦しんでたんですよ。ごめんなさい、わたし慌てて出てきたもんで鍋の火を消したかどうか心配で。中に主人がいますので」
 篠田民生委員はそう言うと進入口の真ん前にある家へ駆けて行った。
「おじいちゃん大丈夫かなあ」
 和彦はしゃがんでタンの頭に額をくっつけた。タンは嫌がって頭を振りながら鼻息を荒くした。やじ馬も徐々に増えてきて顔見知り同士で雑談しながら竜崎家の玄関を見守った。
「さっきはごめんなさいね。齢をとるといけませんわ。ところであなたたちは今日は何か用でも?」
 自宅から出てきた民生委員は照れ笑いから落ち着いた顔になって尋ねた。
「竜崎さんに子供たちから届けるものがあっておじゃましたところです」
 公子が答えた。
「届け物?」
「この手紙です」
 今度は雪男が腰につけたバッグから赤い陶器を取り出した。
「そこ、道あけてくださーい」
 雪男が陶器を差し出すと同時にストレッチャーの先頭にいた救急隊員が玄関先から大声を上げた。進入路の入り口をふさいでいた和彦たちや近所の人合わせて二十人ほどがぞろぞろと動いて道をあけ、運ばれてくるストレッチャーに注目した。雪男は陶器を素早くバッグに入れタンを抱きかかえた。
「おじいちゃん、和彦だよ。分かりますか」
 和彦は二、三歩前に出て大声で呼び掛けた。竜崎老人は毛布の中で向こうむきで横になり、両手でお腹を押さえながらエビのように体を曲げていた。和彦の呼び掛けには少しだけ頭を動かした。顔は青ざめ目は閉じられ、歯を食いしばった口からは「うっ、はっー」という我慢の息遣いが聞こえた。和彦は老人の苦しみが自分にも伝わってくるような気がして息苦しさを感じ立ちすくむしかなかった。
「あんた」
篠田民生委員はストレッチャーの後に付き添っていた夫に声をかけた。夫は地区の自治会長をしており、妻とともに駆けつけていた。
「あー、おまえか。わしは救急車に乗って病院まで行くから竜崎さんとこの留守番は頼んだぞ」
「分かったわ」
ストレッチャーが老人宅を出て一分ほどして公民館の駐車場からピーポーサイレンが鳴り響いた。耳をつんざくような音が小さくなるにつれ、集まっていた近所の人たちの数は減っていった。最後まで残っていたのは和彦たち七人と篠田民生委員だけだった。
「家の中に和風料理が何種類も作ってあったんだけど、もしかして来客するのはあなた方だったのかしら」
 民生委員がはっと気づいたような顔になって雪男と公子を交互に見た。
「そうかもしれません」
 雪男がしんみり言った。
「それにわたしたちが駆け付けたとき、玄関にタンの肉がいっぱい入ったレジ袋が転がってたんですよ。調理で火を使った後、買い物に出たんで体が急に冷えたのが悪かったんじゃないかってうちの人が言ってましたよ」
「ウワーン」
 それまで押し黙っていた和彦がいきなり大声を上げて泣きだした。
「どうしたの和彦くん」
 民生委員が和彦の顔をのぞき込んだ。雪男と公子は和彦が泣いている分けを察して和彦をはさむように両脇から肩を抱いた。
「みなさん。竜崎さんの料理、食べてあげてくださいよ。せっかく皆さんのために作った料理なんですから。竜崎さんきっと元気で帰って来られますよ」
 篠田民生委員は一人一人に笑顔を見せた。
「まあ確かにその方が竜崎さん、喜んではくれるんだろうけど」
 雪男は民生委員の勧めにもためらっていた。
「どうしましょうか、あなた。それにしても、これまで全く知らない者同士がタンちゃんを通して知り合いになったんだから人の縁って不思議なものね。ねえ、和ちゃん」
 公子は和彦の肩を軽く揺すぶった。
「おじいちゃんに早くこの手紙読んでもらいたいな。なんて書いてあるのかなあ」
 和彦はようやく元気を取り戻した。
「ああ、それそれ。その手紙って何のことですか」
民生委員は思い出したような顔つきで尋ねた。
「はい、その手紙というのは竜崎さんが五十年以上も待ちわびた手紙なんですよ」
 雪男が再びバッグから取り出した赤い陶器を軽く上下させながら答えた。
「はあ? まあとにかく中で話しましょうよ。わたしは留守番係だからいい話し相手ができたわ」
 篠田民生委員は視線を宙に浮かせた後、急に笑顔になって雪男たちに老人宅に入るよう促した。
 雪男に肩を抱かれた和彦を先頭に全員が玄関に向かった。玄関に入るとタンはまた下駄箱の脚にリードをくくりつけられた。
 竜崎老人が過ごしている六畳の居間には座卓が二つくっつけてあり、その周囲に座布団が八枚敷かれていた。篠田民生委員も入れて八人が座れば座卓はちょうどよい大きさだ。雪男は電話が置かれた収納ボックスを見つけると、中棚に赤い陶器と竜崎老人が和彦に託した封筒、老人が一人で埋めた連絡用の牛乳びんを置いた。
チーン、チーン。誰も声を発しない部屋で仏壇に置いてあるお鈴(りん)の音が響き渡った。
「弘人くん!」
 公子が声を上げると同時に今度はドスンと音がし差卓が揺れた。ふざけてお鈴を鳴らした弘人は近くの座布団に両ひざを曲げて飛び乗ったのだ。
「まねしないでよ!」
公子の先を制した注意に腰をかがめて前かがみになっていた子供たちはしゅんとなった。卓の中央には、たけのこご飯が盛られた大皿が二つ、その周辺に日本料理が盛り付けられた大皿が五つ並んでいた。鯛の昆布締め、ほうれん草の胡麻和え、ふろふき大根のそぼろあんかけ、ごま豆腐、アジのたたき。取り皿用の小皿は十枚ずつ重ねて三十枚が隅に置かれている。和紙の袋に入った割りばしも十数本用意されていた。公子が吸い物茶碗があるのに気づき台所まで行ってみると、ハマグリの吸い物が大鍋にかけてあった。隣のガスコンロには焼き肉用の鉄板も置かれていた。
「竜崎さん……」
 公子は和彦の来訪を心待ちにしていた老人の気持ちを推し量り熱いものが込み上げてきた。
「お母さん、どうしたの」
 なかなか戻って来ない公子を心配した和彦が台所までやって来て声をかけた。
「竜崎さん、和ちゃんのこと好きなんだね。こんなに立派な料理を作ってくださるなんて。それに和ちゃんの好物まで準備してあるわ」
 公子は冷蔵庫を開けタンの入った包みを和彦に見せた。
「おじいちゃん、仙吉さんと会えたらいいね」
 和彦はタンの包みを見ながら言った。
「うん、そうね。人間ってなかなか自分の思い通りにはいかないものね。五十年以上も待ってやっと連絡が取れそうになったのに今度は竜崎さんが倒れてしまうなんて」

 公子はいつになくしんみりしていた。和彦は腕を組み大人びた態度で聞いていた。
「あーあ、人は思い通りにいかないか。おじいちゃん……」 
「何? 和ちゃん」
「おじいちゃんね、奥さんが亡くなってから気力を失ってずっと台所に立ってなかったんだよ。それなのにおじいちゃん、僕たちのために一生懸命料理を作ってくれたんだ。僕も体育頑張らなきゃ」
 和彦は最後に一言言い残して仲間のいる居間に戻って行った。
「和ちゃん……」
公子は思わぬ和彦の言葉に胸が熱くなった。公子も居間に戻り、全員が座卓にそろったところで篠田民生委員が口を開いた。
「皆さん、今日は驚かれたでしょうね。でも竜崎さん、きっと元気で帰って来られますよ。この料理は親しくしてくれた和彦くんへのお礼の気持ちだと思います。竜崎さん、きっと元気になられますよ。さあ、みなさん」
 民生委員は気落ちした表情の七人を気遣い、竜崎老人が無事に帰って来る、と何度も繰り返した。しかし、誰もがはしをつけるのをためらっていた。
「ウーッ、ウーッ。ウワッン、ワンワワーン」
 タンがいきなり狂ったように吠え始めた。ガラーッ。玄関の引き戸が勢いよく開けられる音がした。タンは静かになった。
「あら、うちの人かしら。それにしても早いわね。よっこらしょっと」
 篠田民生委員は勢いをつけるようにして立ち上がり居間の障子を開けた。
「竜崎さん!」
「えっ、ほんと」
 民生委員の素っ頓狂な声に続き居間の七人が腰を浮かせて声を上げた。全員が一斉に立ち上がり我先に居間を出ていった。玄関には頭をかきながら照れ笑いを浮かべる竜崎老人が立っていた。タンは老人の足に両前足をかけてじゃれついた。雪男と公子はすぐ上がり口にかしこまったが、民生委員と子供たちは驚きと喜びが混在したような顔で突っ立ていた。
「おじいちゃん、治ったの! もう何ともないんだね。ほんとに治ったんだね。心配したんだから」
 和彦が喜々として声をかけた。
「あっ」
 思い出したような顔をした和彦は居間に駆けていき、収納ボックスの中棚にある赤い陶器を両手でつかむと開け放たれた居間の障子にぶつかりながら戻って来た。
「おじいちゃん、これ見て! 穴の中に埋まってたよ」
 和彦の膨らんだほおは赤く染まっていた。
「おーっ、おーっ。仙ちゃん……」
 竜崎老人は言葉にもならない声を発し、思わず仙吉の愛称を呼んだ。そして和彦の手から受け取った陶器を押し頂くように頭の上に掲げた。篠田民生委員以外は、くしゃくしゃになった老人の顔を見て満足感に浸っていた。
「竜崎さん一体どうされたんですか。うちの人は?」
 民生委員は問い詰めるような口調になった。
「いやー、心配かけて申し訳なかった。救急車に乗るまでは死ぬほど痛かったんだが、救急車が動き出したとたん、ぴたっと痛みが治まったんだよ。それで先生の言うには詰まっていた結石が尿管から膀胱に落ちたんで痛みがなくなったんじゃないかって言うんだ。だからレントゲンもとらずにタクシーで戻って来たんだ。会長さんは公民館の駐車場で館長につかまって話し込んでるよ」
 竜崎老人は居並ぶ八人に何度も軽く頭を下げた。
「まあ、ほんとにそんなことで済んで良かったですよ。最初はびっくりしてもう……」
 最後の言葉が出なかった篠田民生委員はエプロンの端で目頭をぬぐった。そしてぐすっと鼻を鳴らして後ろを振り返った。
「今日は和彦くんのお友達とお父さん、お母さんも来られてますよ。皆さん、わたしが勧めても料理を口にできないほど心配されたんですよ」
 民生委員は泣いたり笑顔になったりと表情を小刻みに変えた。
「お留守におじゃまして申し訳ありません」
「治られてほんとに良かったですね」
 雪男と公子はそれぞれ両ひざに手を置き、続けて挨拶した。
「いやあ、この日のためにささやかな料理を作らせてもらいましたよ。それより今日はご両親にご足労かけて申し訳ない」
 竜崎老人はそう言うと上り口に腰かけて、脱いだ赤いサンダルのかかとをそろえた。
「あら、竜崎さん、そのサンダルは?」
 民生委員が、陶器を手に居間に向かおうとする老人に声をかけた。
「ああ、それね。病院を出るとき履物がなかったんで売店のおばちゃんに借りたんだよ」
 老人は何事もなかったような顔で言い、和彦たちを居間に入るよう促した。八人は竜崎老人のために奥の仏壇下の席を空け適当な配置で座った。和彦は老人の左隣の席に着いた。
「おっと」
一声上げた老人は奥の席に着くと思い出したように後ろを向いて押入れを開け、下の段からもう一枚座布団を出した。そして居間の入り口の席で畳の上に座っている公子に渡すよう和彦に促した。
「ホイ、ホイ、ホイ」
子供たちは座布団のリレーが楽しくて掛け声を上げた。
「わたし、お吸い物、温めてきますから」
 受け取った座布団を畳に置くと公子は立ち上がった。
「ウーッワン、ウーッ」
公子が台所の板の間を歩く音に驚いたタンが横になったまま小さく吠えた。
「竜崎さん、さっき和彦くんがあなたに赤い陶器を渡してましたね。あれは一体何ですか」
「ああ、仙吉くんの手紙……」
 竜崎老人は目を大きく見開き、差卓の下に置いていた陶器を両手で取り上げた。右手でふたの中央についているぽっちをつまみ上げると底の浅い陶器から二つ折りの封筒がはね上がり、上に乗っていた一枚の便せんが畳に落ちた。老人は便せんを拾い上げ膝の上に置き、陶器を座卓の下に戻した。そして竜崎老人は咳ばらいをした。
「う、うーん。じゃあ皆さん、わたしが腕を振るった料理、どうぞ召し上がってください」
「おじいちゃん、それ読まないの?」
 隣の和彦が老人の膝の上を見つめた。
「おー、礼を言うのを忘れておったな。いやっ、皆さん、ほんとにありがとう。何だかドキドキするな」
 竜崎老人は胸ポケットから出した老眼鏡をかけると便せんをゆっくりと広げた。
「まあまあ、とりあえずいただきましょうよ」
 民生委員の一言で老人を除く全員が手を合わせた。老人は両手で持った便せんを顔に近づけた。
「いっただきまーす」
 子供たちの元気な声が部屋中に響いた。割りばしを右手に皿を左手にした子供たちは中腰になったり席を移動したりして好きな料理を取って食べ始めた。和彦は席を立たずに老人の横顔をうかがっていた。皿と皿が触れ合う音やにぎやかに談笑する声が、便せんの文章を読む竜崎老人には心地よく聞こえた。この部屋に活気がみなぎるのは妻を亡くして以来一年ぶりだった。
 竜崎老人が右手で老眼鏡を外した。うつむいた竜崎老人の左ほおに一筋の光ったものが流れるのを和彦は見逃さなかった。
「おじいちゃん……」
「和くん。仙ちゃん亡くなったよ」
「そんなー。せっかく二人が会えると思って僕たち喜んでたのに」
老人は便せんを読み終えると四つ折りにして陶器の中に戻した。がっくりと肩を落とし背中が丸まっている。
「カズッ、どうしたんだ。不景気な顔して」
 食事をしながら便せんを読む老人に注意を払っていた誰もの気持ちを代弁するように弘人が声をかけた。
「仙吉さん亡くなったんだって」
 和彦の言葉に部屋は静まり返った。
「いやっ、みんな、元気だして食べておくれ。仙吉くんの供養だと思ってね」
 老人は慌てて場の雰囲気を変えようとした。
「あっ、その便せん、誰が書いたの」
 和彦があぐらをかいた老人の足元に置かれた赤い陶器をのぞき込んだ。
「仙ちゃんのお孫さんだよ。この日付を見るとひと月ほど前に来てくれたんだなあ。仙ちゃん、昨年末に病気で亡くなったそうだよ。死ぬ直前に心残りのことがあるって、この封筒の手紙を書いたんだ。それを大山に埋めるようお孫さんに託したんだそうだ」
「じゃあ、仙吉さんも大木の穴に手紙を埋めれば、おじいちゃんが掘り返してくれると思ってたんだ。二人とも考えることは同じだったんだね」
 和彦が老人を慰めるように言った。
「二人の心はつながってたんだよ」
 食べるのに夢中だった弘人がいきなり口をはさんだ。
「おーっ、弘人もたまには良いこと言うじゃないか」
 高貴が茶化すと司、卓也がそれぞれにはやし立てた。大人たちもどっと笑い声を上げた。
部屋中に笑いの余韻が残る中、雪男だけは何か考え事をしているようだった。
「おじさん、どうしたの」
 高貴が隣の雪男に不審そうな顔を向けた。
「あっ、いや……。大山で確か関西弁で私に話しかけてきた若い女性がいたんだが……」
「誰か、障子開けてちょうだーい」
 雪男が言い終わらないうちに公子の柔らかな声が響き、雪男が障子を開けると公子が温まった吸い物の大鍋を持って居間に入って来た。結局、間が悪く雪男の話は、そこで立ち消えになった。
「おじいちゃん、封筒の方は読まないの?」
 和彦が老人を見上げた。
「うん、後でじっくり読ませてもらうよ」
「そうよ。仙吉さんの思いが込められた手紙ですもの」
 畳に置かれた鍋敷きの上に大鍋をのせた公子が、和彦をたしなめながら椀に吸い物をよそい始めた。竜崎老人はまだ何も料理を取っていなかった和彦のために中腰になって、たけのこご飯を小皿に入れて取ってやった。
「うまーい」
 和彦は一口食べただけで声を上げた。
「和くん、ほら。鯛のこぶ締めだよ」
 今度はつやの良いあめ色の切り身を載せた小皿が和彦の前に置かれた。
「ありがとう。今度から自分で取るからいいよ、おじいちゃん」
「はははは、そうかい」
 老人の優しいまなざしを受けながら和彦はタイを一切れ口に入れた。
「ひゃー、味がしみてるー。これ昆布のうまみかなあ」
 和彦は公子が作る家庭料理とは違う味の世界にのめり込んでいった。ごま豆腐、ふろふき大根、アジのたたき……。次々と料理の味を確かめるように和彦は口に入れていった。今度は吸い物の入った椀を手に取った。
「あー、うまーい。おじいちゃんの腕前、すごいね」
和彦は感嘆の声を上げた。
「そうかい。ふふふふ」
老人の軽く笑った顔には自信があふれていた。和彦の顔も輝いていた。
「おじいちゃん、ここの電話番号教えてよ」
「ああいいとも」
 老人は腰を上げ後ろをむいて押入れを開けた。折り込みチラシの束を手にした老人は右手の人差し指をなめると五、六枚めくり裏側が白い小さめのチラシを抜き出した。
「はいよ」
老人は缶のふたからペンを取り出し電話番号を書いて和彦に手渡した。
「あっ、すっかり忘れてたよ。和くんの好きなタンをいっぱい買って来てあるんだ。どこにやってあるのかな」
 竜崎老人は民生委員に顔を向けた。
「あら、わたしも忘れてましたわ。冷蔵庫に入れてありますよ」
 老人は腰を上げ居間を出て台所に立った。冷蔵庫からタンの包みを取り出して鉄板でタンを焼き始めると、焼きあがった肉から次々と居間に運んだ。
一時間ほどの昼食を終えた和彦たちは、二台の車に分乗して家路についた。車を停めていた公民館まで見送ってくれた竜崎老人の笑顔が、和彦のまぶたに焼き付いていた。
                ◇
「ねー。僕、休みの日に竜崎のおじいちゃんとこへ通って料理を習いたいんだ。お母さん車で送り迎えしてくれないかなあ」
 竜崎家から帰った和彦は晩ごはんを食べながらテーブルの真向かいにいる公子と左隣の雪男に相談を持ち掛けた。
「和ちゃん、勝手に決めたって竜崎さんにご迷惑よ」
「そりゃそうだ。話が逆じゃないか」
 公子の言葉に雪男もうなずいた。
「分かってます。ごはん食べたら、おじいちゃんに電話するんです!」
 何事にも引っ込み思案だった和彦が自分から何かをしたいと言ったのは犬を飼いたいと訴えて以来二度目だった。公子と雪男は和彦の変わりように驚いて思わず顔を見合わせた。
「あっ、おじいちゃん。僕、和彦です。昼間はごちそうさまでした」
 公子は電話を代わるタイミングを見計らうように受話器を握った和彦のそばに立っていた。
「えっ、ほんと。ほんとにいいんだね。じゃ、今度の土曜におじゃまします。何時ごろがいい? うん、分かりました。十一時ね」
 話がまとまったところで公子が和彦の背中をつついて代わるようせかした。
「竜崎さん、ご迷惑じゃないですか。はい、そうですか。ではうかがわせていただきますので。よろしくお願いします」
 公子は壁に向かって何度も頭を下げながら受話器を下ろした。
「カズ。お前、料理習ってどうするつもりなんだ」
 缶ビールを手にした雪男が半分笑って半分は真顔で尋ねた。
「僕、大きくなったら料理人になるんだ!」
「へー、ホテルのコックさんにでもなるのか」
「違うよ。おじいちゃんみたいに和食の料理人だよ」
「ほー、板さんかあ」
 缶ビールをテーブルに置いた雪男は座ったまま椅子を後ろに動かして大きな音をさせながら立ち上がった。テーブルにあったタオルの布きんを右手で拾い上げ左肩にかけると、はしを右手に握った。
「♫ 包丁一本ー、さらしに巻いてー。旅へ出るのも板場の修行ー。待っててーこーいさん……」
 ほろ酔いの雪男ははしをマイク代わりにして会社の宴会そのままに首を振りながら歌い始めた。
「なにーそれっ。はははっ」
 和彦は聞いたこともない歌だったが、雪男の節回しと首ふりの動きがぴったり合っているのがおかしくて笑い転げた。
「お父さん、汚いでしょ! 布きん、取りなさい」
 公子の命令で短いショーはすぐに終わった。
               ◇
 カーン、カーン、カーン。待ちに待った土曜日が来て和彦と公子が公民館の駐車場に車を停め竜崎家へ歩いていくと、金づちで釘をたたく音が響いてきた。二人が老人宅へ入る進入路に来て目にしたのは、手ぬぐいでねじり鉢巻きして金づちを振るう竜崎老人とレジ袋を手にした篠田民生委員の姿だった。
「おじいちゃーん」
 和彦はエプロンンと三角巾が入った小袋を左手に提げ、右手はタンのリードに引っ張られていた。
「おー、和くん。何とか間に合ったなあ。朝ごはん食べててふと気づいたんだよ」
 竜崎老人は背の低い和彦のためにキッチンの前に置くお立ち台を作っていたのだ。庭は草が刈られたばかりで草汁の生臭いにおいがした。老人は高さ二十㌢、幅六十㌢、長さ一㍍の台を二つL字に並べると、台に上がるよう和彦に促した。板は買ってきたばかりらしく木の香りがした。
「どうだね」
「うん。歩きやすいよ。ぜんぜんがたつかないね。おじいちゃん、大工仕事も上手なんだね」
「いや、それほどでも」
 老人は言葉と裏腹に満面の笑みを浮かべた。
「ほんとに竜崎さん、和彦くんとお友達になって明るくなられましたのよ」
篠田民生委員は公子に笑いかけた。
「はい、竜崎さん。これロールケーキ。この間のお礼です。頂いたキュウリのからし漬け、おいしかったわ」
 民生委員は老人の方へ向き直ってレジ袋を手渡した。
「いやっ、すまないねえ」
 受け取ったレジ袋を頭の上に掲げて恐縮する老人に公子が声をかけた。
「竜崎さん、和彦がお世話になります」
「いいや。わたしこそ和くんに救われた思いです。もう包丁を手にすることはないと思ってたのが、こんなかわいい弟子ができたんですから」
 竜崎老人は和彦の肩に手を置いた。大きな温かい手だった。
「おじいちゃんは今日から僕の師匠なんだね」
「そうだとも。和くんが一人前の板さんになるまで長生きして教えなきゃな。生きる張り合いができてうれしいよ」
「ウーッ」
 タンが低い声でうなった。
「あー、分かった、分かった。クロも仲間だぞ」
 老人は腰を落としてタンの頭をなでてやった。
「おじいちゃん、クロじゃないよ。タンだよ」
「ああー、そうだったな」
 老人は笑いながら胡麻塩頭に手をやった。公子と篠田民生委員は、からし漬けの話で盛り上がっていた。和彦は目の前にある老人の耳元でささやいた。
「おじいちゃん、仙吉さんは何でおじいちゃんとの約束、守らなかったの」
「うん、それはな……。和くんが、いつか言った通りだったよ」
 老人もささやき返した。
「あら、何をひそひそ話してるの」
 民生委員が二人の顔を見比べながら言った。
「いやっ……」
 和彦と竜崎老人が同時に同じ言葉を発した。
「はっはっはっ」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「まあ、おかしなお二人さん」
「じゃあ、五時に迎えに来るからね」
 篠田民生委員と公子は連れ立って竜崎家を後にした。
「おじいちゃん、ビシビシ鍛えてね。僕、日本一の板さんになってみせるよ」
「よーし覚悟はいいな。はははっ」
 タンに右手を引っ張られた和彦はロールケーキの入ったレジ袋を老人から受け取り、お立ち台を両肩にした老人とともに竜崎家の中に入っていった。

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