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柴犬日記と犬の児童小説

初めて飼った犬の記録と犬が出てくる児童小説+共感した記事

死者は汚いものか

2021-11-26 14:58:17 | 珍写真
もし、自分の家の隣に「遺体ホテル」が作られると聞いたらどうしますか? 各地で起きる反対運動の根底には何があるのか。評論家で著述家の真鍋厚さんは、死体を嫌がることは「究極の自己否定」だと説きます。日常から見えなくなった死体の存在。そんな中で進むいびつな多様性の実態について、真鍋さんに論じてもらった。
地元民への〝至極まっとうな反論〟
死体、遺体、亡骸(なきがら)……様々な言葉によって表される「亡くなった人」たち。わたしたちと同様、身体はあるが、生きてはいない。具体的には、呼吸がなく、心臓が動いておらず、瞳孔が光に反応しない状態を指す。 医師が判定するまでは「死亡」とはならないが、便宜上はそれが「亡くなった」ことを物語る。言うまでもなくわたしたちも遅かれ早かれそこへ仲間入りを果たすことが確実なわけだが、その事実から極力目を背けてあたかも死のない世界を築こうとするかに見える人々もいる。 つまり死体を積極的に差別することによってである。日常生活から死体そのものを排除して、死を想起させる物的な証拠を消し去るのだ。 近年、遺体安置施設の建設をめぐって各地で反対運動が起こっている。 例えば、神奈川県川崎市のある遺体ホテルでは、建設前に開いた地元民への説明会で、「こういう施設が近所に存在すること自体、気持ち悪い」などという意見が飛び出した。 皮肉な話ではあるが、それに対する経営者の反論は至極まっとうであった。「法的には何の問題もありません。よく考えてください。人はみんな死ぬんですよ。みなさんもこういう施設を必要とする時が来るかもしれない」(「死者のホテル」が繁盛する時代/2016年11月2日/日経ビジネス)。
少ない火葬場の待機期間を支える役割
遺体ホテルとは、遺体安置を専用とする施設のことで、葬式や火葬までの間預けておくことが主な目的だ。 日本における年間の死亡者数は現在約137万人(人口動態統計/厚生労働省)ほどだが、今後右肩上がりとなり2030年には年間160万人を超える「多死社会」が訪れるとされる。 そのような状況下で遺体ホテルは、ただでさえ少ない火葬場の待機期間や簡便な葬送を支える役割を担いつつあるが、少なくない人々は〝NIMBY〟(ニンビー、Not In My Back Yardの略語で「施設の必要性は理解できるが、家の近くでは止めてくれ」)という立場を隠さない。 けれども、そもそもの根本的な問題は、ニンビーという感覚以前に、死体がグロテスクな存在として観念されていることにある。そう、死体を「人」だとは思っていないのだ。 <死体はこの国では、もっとも差別された存在である。それを救っていたのは、宗教儀礼である。だから、ホトケなのである。聖と賤とは、まさに裏腹である。だから、時代が変われば、死体ほど差別されるものはない。(略)死者が変に重要視されるのは、それを特殊なものとして、タブーを置くからである。いまや必要なのは、ほかでもない、死体の「人間」宣言である。それを、ふつうの人として、扱ってあげればいいではないか。(略)死者に必要なことは、ふつうの人としての単純な取り扱いである。>――養老孟司『日本人の身体観の歴史』法藏館 これは解剖学者の養老孟司がかつて述べた日本における死体の取り扱いに対する異議申し立てである(以上『日本人の身体観の歴史』法藏館)。 養老は「死体は歴然とした身体である。しかし、多くの人は、それを身体とは見なさない」と指摘する。 「それは死体であって、『生きている身体』とははっきり別物なのである。『生きている身体』が、死という瞬間を境にして、突然異次元に移動する。そんな馬鹿な話はないが、世の中がしばしば、その種の馬鹿な話でできていることは、よくご存じのとおりである」(同上)……。
亡くなった途端、よそよそしくなる家族
葬儀会社の人からよく聞く話だが、身内の遺体に触れたがらない人々が増えている。衛生観念云々ではなく、単純にどう扱ってよいかが分からないのだそうだ。 臨終までは手を握って嗚咽していたのに、亡くなった途端、妙によそよそしくなることも多いという。ある葬儀会社の重役は、「生きている人が動かなくなった時点で『ご遺体』という別のものになる、と感じているようだ」と推察した。 それもこれも死を生活空間から遠ざけ過ぎた結果といえる。この場合、消費者意識は、市場に「汚れ仕事」と称されるものを請け負わせる性格上、進んで死にまつわる物事を素早くクレンジングする行為に加担する。 近代化に伴う産業化は、良くも悪くもわたしたちが「ただの生物」であることを目撃する機会を限りなくゼロにする方向に仕向けるのだ。これは先進各国で顕著な傾向といえる。
葬送のアウトソーシング
アメリカで話題書となった『ある葬儀屋の告白』(鈴木晶訳、飛鳥新社)を著した祖父の代から続く葬儀屋の後継ぎであるキャレブ・ワイルドは、日本と同じく地域社会が行っていた葬送が市場にすべてアウトソーシングされるとともに、人々ができれば関わりたくない他者の死(それは自分にとっても死が人生の終着点であることを突き付けるからだが)から距離を置く傾向に拍車を掛けたとした。 だが、以前は「亡くなった人」の世話を通じて自分自身の死を受容する気構えが形作られていったとする。 「死者の世話をすればするほど、死そのものが怖くなくなる。死者に近づけば近づくほど、自分が死ぬという運命を受け入れやすくなる。ごく最近まで、人々はいまよりもずっと死に近いところにいた。現在、死のネガティブな物語があまりに強くなっているために、私たちはそれを克服することはできない」(同書)と述べた。 その上でワイルドは、ごく稀ではあるがと前置きしつつ、葬儀のプロセスに積極的に関わった家族の例を挙げ、多少なりとも克服できる可能性に含みを残した。
「自分たちが死ぬとは夢にも思っていない」
しかしながら、ワイルドの事例は死者とその周囲の人々の絆、要するにどのような関係性であったかに大きく依存している面がある。 今や専門家以外が他者の死の現場に立ち会うことは親密性の指標であるともいえ、それらの経験による実存的な危機を経た人格の陶冶はさらなる高みにある。 言い換えれば、社会を構成する人々の多くが他者の死に接する機会がほとんどない場合、当然ながら死者のための空間の重要性は軽んじられ、死者は実質的にその居場所を与えられることはない。死者は単に余所者となる。 一般論としての死は知識として屈託なく語られ、相続や医療費などお金の問題としても耳目を集めるが、「自分たちが死ぬとは夢にも思っていない」からだ。 先の遺体安置施設の反対運動に戻れば、自分は死なないと思っているからこそ遺体ホテルが「気持ち悪い」ものに映るのであり、養老的に言えば、死体が「別物」に見えるからこそホラー映画に出てくるグロテスクな物体のようにしか思えないのだ。
「あってはならないもの」になる死体
美術評論家の布施英利は、1990年代に『死体を探せ! バーチャル・リアリティ時代の死体』(法蔵館)という挑発的なタイトルの本を書いたが、それは「自然の産物」であるはずの人間の死が見えなくなることへの焦燥感からであった。 当時も現在も誤解されやすいのだが、布施の主張は、死体を「公衆の面前にさらせ」という意味ではない。死んだ人間を「異常なものとして取り扱うな」ということだ。 死んだ人間は「グロ」でも「猟奇」でもない。さっきまで生きていた普通の人間である。しかし、わたしたちの社会は、往々にして死ぬと同時に「人間ではないもの」にカテゴライズしてしまうのである。 しかも、そのような認識上の操作について無自覚であることが事態を余計にややこしくする。今や「亡くなった人」は誰かの目に触れることが過剰に忌避される以上に、ますますわたしたちの生活空間において「あってはならないもの」になっている。
「亡くなった人」を歓迎しない世界
多様性やダイバーシティが叫ばれて久しいが、わたしたちが承認している多様性の実態とは、不吉な兆候として忌避される対象をあらかじめ消し去った上での多様性であるのが実態だ。共存することへの嫌悪感などといった感情の絶対化に基づき環境を美化した上での多様性に過ぎない。 ホームレスが休憩しにくいよう設計されたベンチのようなものを「敵対的アーキテクチャ」と呼ぶが、経済学者のノリーナ・ハーツは、「それは、コミュニティーが生まれることを妨げ、誰が歓迎され、誰が歓迎されていないかを明確に物語る都市計画を反映している」(『THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか』藤原朝子訳、ダイヤモンド社)とする。 誰もが死を迎えるにもかかわらず「亡くなった人」を歓迎しない世界というわけであり、この場合、多様性という概念は、すでにそこから除外されたものが何であるかを意識させない、制限された枠組みであることに気付かせない目隠しとして機能するのだ。 だが、わたしたちが死者となったとき、気味悪がられ、追い出される側になるのはわたしたち自身なのである。これは生物としての自分自身を徹底的に冒涜して安堵する究極の自己否定といえるかもしれない。

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総裁候補者よ遺族の悲嘆を知れ! 森友事件

2021-09-18 17:51:55 | 珍写真
森友遺族・夫の死を巡る法廷闘争記】

自民党総裁選が告示された17日、4人の候補の記者会見で質問に出た森友再調査。森友学園への国有地巨額値引きと、取引を巡る公文書改ざん。真相解明の再調査をするのかという問いに、野田聖子氏以外の3人は全員「再調査はしない」と、見事なほど一致した。

再調査を求めているのは赤木雅子さん。現場で改ざんをやらされて命を絶った財務省近畿財務局の職員、赤木俊夫さんの妻だ。雅子さんがどんな思いで真相を求め行動しているのか、「再調査しない」と言い放つ彼らは知りもしないだろう。その一端をここに記す。

8月11日。真夏の日差しが照りつける財務省前の路上に報道陣が大勢集まっていた。雅子さんが情報開示請求のため財務省を訪れる。その様子を取材するためだ。

財務省はピリピリしていた。本人が来るというので最大級の警戒態勢。報道陣は内部の取材に入れないと宣告した。

これに雅子さんがおさまらなかった。真相につながる情報を何とか引き出すには、開示請求したことを多くのマスコミに報じてもらい、大勢の方に知ってもらうことが重要なのだ。

■財務省でのひと悶着にも「私を向いて対応してくれました」

雅子さんは弁護士とともに財務省内に入るや、報道陣を入れてほしいと交渉を始めた。かたくなに拒否する担当者。理由を尋ねても庁舎管理上の問題としか答えない。では弁護士自らがスマホで様子を撮影するのはどうか? それもダメだという。納得できない雅子さんは担当者に食い下がること1時間、思わず叫んだ。

「私の夫は財務省に改ざんをさせられて亡くなったんですよ!」

その瞬間、室内の空気が凍った。その場にいた全員が身じろぎもしなかった。皆わかっているのだ。結局、弁護団が撮影して報道陣に提供するのはOKとなった。

そんなバトルをしているとは、外で待っている私や報道陣にはわからない。ことが終わって出てきた雅子さんに顛末を聞いた私は、さぞ怒り心頭だろうと思って尋ねた。すると意外にも「本省の方の対応はよかったですよ」と言う。

「納得できない答えは多かったけど、きちんと私を向いて対応してくれました。夫のことをわかってくれている感じがしました」

遺族はこんな思いを重ねて真相に迫ろうと闘っているのだ。自民党新総裁は、少なくとも雅子さん本人に、なぜ再調査をしないのか納得できる説明をすべきだろう。

(相澤冬樹/ジャーナリスト・元NHK記者)
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一流出版社が未だに部落差別ーー卑しいライターと編集者

2021-09-04 03:34:23 | 珍写真
解放同盟(以下、解放同盟)といえば、被差別を中心として、あらゆる差別の撤廃を目指して活動している団体だ。「差別」と聞くと、今年の出来事で思い出すのが「週刊朝日」(朝日新聞出版)が10月に掲載した、橋下徹大阪市長の出自に迫った連載「ハシシタ 奴の本性」をめぐる騒動だろう。
 橋下市長が被差別出身であることに言及した佐野眞一執筆による同記事は、出自を根拠に人格を否定するという手法が、差別や偏見を助長するものだという激しい批判を浴びた。それを受け、すぐに朝日新聞出版は連載打ち切りを決定し、橋下市長に謝罪。編集長の更迭、社長の辞任など、厳しい社内処分も行った。

 しかし、解放同盟中央本部委員長の組坂繁之委員長は「騒動はいまだ幕引きしていない」と主張する。

「ハシシタ」騒動から見えてくる、さらなる論点とは何なのか? 

 解放同盟が考える、マスコミ、そして橋下市長の問題とは? 

 組坂委員長に聞いた。

ーー「週刊朝日」の記事に関しては、解放同盟としても抗議文を出されていましたが、それに対する反応はあったのでしょうか?


実は、かなり気さくなキャラ
である組坂委員長。
組坂委員長(以下、組坂) 我々には特にありません。朝日新聞出版は重い処分をしたと考えているかもしれませんが、我々にはなにもない。橋下市長に対しては謝罪をしたけれど、それだけで済ませるのではなく、これを教訓として、差別をなくすためにどういう取り組みをするのかを我々は知りたいんです。そういう点では、週刊朝日や朝日新聞出版とで学習会をやって、そこで問題点をあらためて明らかにしていきたいと思っています。今のままで終わっては、単に「世間からの風当たりが強いから」とか「橋下市長に取材拒否され続けると困るから」という理由で彼にだけ謝罪にいき、終わりとなってしまう。被差別地区として記事中に名前を出された八尾市の市長も抗議文を出していますが、そこにも謝罪にいっていないんです。それに、そもそも謝罪することより大事なことがあります。
 かつて司馬遼太郎先生は『龍馬がゆく』(文藝春秋)で「ちょうりんぼう」というに対する差別用語を無自覚に使い、それを解放同盟が糾弾するということがありました。司馬先生はそれを強く反省され、「自分は作家なので、単に反省文を書くだけでなく、作品で表したい」と言い、自身の小説『胡蝶の夢』の中にあるエピソードを入れられた。

 江戸後期の将軍侍医だった松本良順が、の頭だった弾左衛門の脈を取るというシーンがあるんです。当時、将軍の脈を取った同じ手で、頭の脈を取るなどということは考えられなかった。それを松本良順は「医術に貴賎なし」と言い切る。司馬先生がこうした作品を通して、自分や社会の差別意識を乗り越えようとしたように、佐野さんや週刊朝日も、そういうかたちで真摯に取り組むべきだと思います。

ーーただ、長期連載が予定されていた中、1回目の記事だけで、佐野さんや週刊朝日が持っている問題に対する認識の甘さや偏見は理解できるものなのでしょうか。「連載打ち切りの判断は早すぎた」という声もありました。
組坂 佐野さんの連載の一番の問題は、問題の土台を理解していないことだったんです。問題と、橋下市長の父親が暴力団員だったことや、従兄弟が金属バット殺人を起こしたことなどを結びつけて、そこには出身のDNAが存在するかのような表現を平然とする。被差別出身者が差別と迫害と貧困という中で十分な教育を受けられずに、まともな仕事に就けないという状況下で、彼らは反社会的な集団に身を寄せるしかなかったという歴史的事実があるのです。それを戦前からの全国の運動、戦後の解放運動を通して、多くの先人がまさに命を掛けて、状況を改善してきた。そんな歴史を無視して、佐野さんの連載では橋下市長のルーツを被差別に求めようとしていた。

 では、橋下市長のお父さんが暴力団に入ったことについて、なぜそうなったか、誰がそのように追い込んだのかという被差別の歴史性・社会性について深く掘り下げているかといえば、まったくしていない。前提として、差別的な認識があるからです。抗議文には具体的に書きましたが、そうした差別的な認識は、記事中の表現の端々から伝わってきました。例えば、被差別の具体的地名まで出して、現在そこに住んでいる人たちはどうなるんだ、と。もし、その土地出身の人間と、自分の子どもが結婚しようとしているという親なら、あの記事を見せますよ。「週刊朝日と佐野眞一という、それなりに名の通った媒体とルポライターが書いている通り、地区の連中はこんなに恐ろしいんだぞ」と。彼らが意図していなくても、そういう差別を助長する参考資料として使われる恐れがあります。

 佐野さんや週刊朝日編集部がそういった想像力が働かない中で、あの連載が継続されていたかと思うと、とても恐ろしい。「連載中止の判断は早すぎたのではないか?」という指摘もあるようですが、間違った土台の上で展開していては、何回続けても同じです。即時連載中止は妥当な判断でした。

ーー我々も自戒を込めて考えなければいけませんが、被差別問題をしっかり勉強し、そこまで想像力を働かせられるメディア人は多くないと思います。

組坂 今回のような問題が起こると、問題自体をマスコミで扱うことがさらにタブー化してしまうという懸念が強まります。しかし、しっかり学んだ上で、問題を論じたり、報じたりすることは結構なこと。ところが、それができないマスコミが多いので、我々は彼らに糾弾や学習会を通して、しっかり学んでほしいと厳しく訴えてきた。すると、「解放同盟は怖い」と、まるで圧力団体かのような扱いを受ける(苦笑)。それもあるので、最近は少し柔軟な姿勢をとってきましが、そうした期間が続くと、今回のような記事が出てくる。痛し痒しですが、これはマスコミ自身の問題として、どうあるべきかをもう一度しっかり考えてほしいですね。第三者として週刊朝日を批判するだけなら簡単なんです。同じマスコミとして、当事者意識を持って、自分たちはどうするのかを考えてほしい。私から言えることは、まずは「差別の現実に学ぶ」ことが重要ということです

ーー「現実に学ぶ」とは?

組坂 差別があるという実態を、まずは客観的に知らないといけない。マスコミが集中する東京では「差別なんてもうないですよ」という人が少なからずいます。ただ、そういう先入観で世の中を見れば、差別は目に入ってこないものなんです。

 例えば、長野などにいけば、依然として「差別戒名」や「差別墓石」があります。結婚差別も存在します。つい3年ほど前には、四国で結婚差別を受けた出身の青年が自殺をするという事件も起きている。全国に足を運ばなくても、インターネットを見ていれば、いまだ差別が氾濫していることはわかるのに、そもそも差別を見ようとしないから、見えないんです。同和教育などのおかげでずいぶんよくはなってきたが、まだまだ問題があるということをマスコミは積極的に知って、取り上げてほしいですね。

●出身者の誇りとは?
ーー一方で解放同盟は、橋下市長の政治手法についても異議ありという姿勢を取られています。少々意外に思えたのですが。

組坂 週刊朝日の記事によって、彼は問題における被差別者の代表のようなかたちになりましたが、私は彼の人権意識はおかしいと思っています。独裁的で、憲法改正を簡単に口にする。大阪市長としても、大阪人権博物館(リバティおおさか)や解放・人権研究所への補助金を打ち切ると決定した。大阪国際平和センター(ピースおおさか)に対してもそう。人権意識を磨き、差別や戦争をなくすための研究・啓発機関をつぶそうとは、とんでもないこと。こんなことができるということは、彼は本当の意味で差別を受けたことがない身分なのでしょうが、そうなれたのは、先人たちの闘いと努力の賜物です。私もそうですが、戦後、民主憲法と民主教育の中で順調に勉強でき、社会的活動ができるようになったのも、水平運動や解放運動があったからです。橋下市長は、自身のルーツがにあることに対するアイデンティティを、いまだ持てない状況にあるんでしょうね。だから、水平運動や解放運動も理解していない。

私もかつてそうでした。民であることを知った時には親を恨んだ。こんなところに生まれたくなかった、と。ところが、差別の実態を学び、解放運動をする中で、親たちが差別の中で苦しみながら、よくぞ育ててくれたという感謝の気持ちがあふれ出てくるんです。そうなると、自分の使命は、その故郷をよりよい故郷にしていかなければならない、より差別をなくしていくために尽力していかなければならないとなる。それが出身者のアイデンティティであり、誇りなんです。本来、いわゆるエリートである橋下市長にはその誇りを持って、差別を含む、さまざまな差別をなくした、人権の確立した社会をつくってほしかったのですが、実際には逆の方向にいっています。新自由主義的な考え方のもと、効率重視で人権・同和行政を後退させいます。マイノリティを叩くことで、マジョリティの賛同を得る。これは、日本共産党が「迷惑論」を振りまいて、それで票を取ってなんとか党勢拡大しようとしたという戦略と似ています。

ーーそれなのに橋下市長は、過去の選挙などでは、自分は出身で弱者の気持ちがわかるという面もアピールしていたともいわれています。彼の二面性は理解できますか?

組坂 パフォーマンスでしょう。私は直接、橋下市長と話したことはありませんが、本当に弱者の気持ちを理解しているなら、先ほど言った解放・人権研究所への補助金カットなど考えられません。同研究所は単に問題をやっているだけではなく、性差別、障害者差別、在日差別、アイヌ民族差別、ハンセン病・エイズ問題など、幅広くやっている。予算の使われ方に異議を唱えるなら「予算を出す代わりに、この点をしっかりやれよ」と指導したり、「予算はここまでしか出せないから、対応策をしっかり考えろよ」と提案したり、リーダーとしてやりようがあるはずです。それをゼロにするのは、彼の問題などに対する考え方が非常に偏っている証拠でしょう。

 橋下市長は出身だから弱者の痛みがわかる、だから市政でも国政でも彼を支持すると国民が思ったとしたら、それはかつての小泉政権と似たような結果を招く可能性がある。小泉(純一郎)さんは総理就任早々の2001年、ハンセン病国家賠償請求訴訟判決に対して、控訴を断念し、国として正式に謝罪した。また、ハンセン病患者への補償も進めた。あれで、弱者の味方というイメージが一気に上がった。しかし、実際にやったのは、当時の福田康夫官房長官と坂口力厚生労働大臣、上野公成官房副長官です。福田さんは、地元の群馬県草津にハンセン病患者療養所があり、その中に福田後援会の支部もあったから、早くから正しい認識を持っていた。同じく群馬が地元の上野さんはお父さんが医者で、坂口さんは自身が医者。3人はハンセン病をよく勉強していたし、差別撤廃を信条としていたんです。つまり、小泉さんがこの3人に丸投げしたからこそ、実現したものだったんです。ところが、小泉さんは弱者の痛みがわかる総理だと国民は錯覚した。その支持を背景に小泉さんは「痛みを分かち合おう」などといって、強者がますます力を持つエセ改革をした。

 橋下さんも似たようなところがある。ある意味では、「の鬼っ子」みたいな感じでしょうね。ただでさえ、安倍政権は相当右傾化する可能性があるわけですから、橋下市長率いる日本維新の会が、その流れにどういう影響を与えていくのか、私はそれを心配しています。
(構成=編集部、写真=山本
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ラーメンも依存性食品の一つーー血糖値急上昇

2021-08-22 02:16:30 | おもしろい
一度食べだすと歯止めがきかなくなり、気がつけばスナック菓子を1袋ぺろりと食べてしまう。そんな経験はないだろうか。お腹がいっぱいのはずなのに、「もっと食べたい」と食べ物に手が出てしまう。これが依存の怖いところだとアメリカ在住の内科医・大西睦子さんは警告する。

【写真】米研究で明らかになった食物依存症になりやすい食べ物第1位とは?

「食べることがコントロールできなくなることを『食物依存症』といいます。単なる食べすぎとは違って、ここでいう危険で注意が必要な食べ物とは、習慣的に食べすぎてしまい、さまざまな健康被害を引き起こすものを指します」(大西さん・以下同)

 大西さんによると、食物依存症はアメリカで深刻な問題になっており、“中毒”になりやすい危険な食べ物の研究調査も積極的に行われているという。

「2015年に科学雑誌『PLOS ONE』で、米ミシガン大学による研究が発表されました。18才から23才までの男女120人を対象に食物依存症の調査を行ったところ、全体の7%はなんらかの食品に対して依存しており、残りの約92%は『食べたい』という願望が必要以上に強く、やめたくてもやめられない食べ物があることがわかりました」

 同大学は、さらに18才から64才の参加者を対象に、さまざまな栄養成分を持つ35種類の食品リストから、食物依存症になりやすい食品を調査した。ランキングを見ると、1位はピザ、2位はチョコレート、3位はポテトチップス、4位はクッキー、5位はアイスクリームと続く。一方で、きゅうり、にんじん、豆、りんご、玄米といった食品は依存度が低かった。自然の状態の食べ物ほど依存度が低く、加工度の高い食品ほど依存の問題があることは、誰が見ても一目瞭然だ。

「自然の状態で依存性のある物質というのは滅多に存在しません。たとえば、果物であるぶどうはアルコールであるワインに加工されることで、植物であるケシは麻薬であるアヘンに加工されることで依存度が高くなるのです。同様のプロセスが、加工食品には発生していると考えていい」

 危険な食べ物や、それに対する依存性の問題は、海外に限った話ではない。日本人になじみ深い食品にも多く存在する。今回、5人の専門家に話を聞いたところ、全員が「危険」と声をそろえた中毒性の高い食べ物が「ラーメン」だ。

 塩分も高く、そもそも体にいいイメージを持っている人は少ないだろうが、それでもやめられないのはなぜか。薬食フードライフ研究家の沢木みずほさんは、スープにその秘密があると解説する。「特にインスタントラーメンのスープには、昆布、かつおぶし、帆立など、さまざまな食材のエキスが含まれています。これらのエキスは人工的に作られた調味料(アミノ酸など)と同様の『旨み成分』です。人の味覚は、この刺激の強い旨みに慣れてしまうと、天然のかつおぶしや煮干しで取っただしでは満足できなくなり、人工的に作られたエキスの味を“もっと食べたい”と求めるようになります」

 インスタントでなければ構わないかというと、そうではない。店で食べるラーメンの中毒性について、糖尿病専門医の市原由美江さんが指摘する。

「しょうゆや塩など、いろいろな味がありますが、なかでもリスクが高いのは『とんこつラーメン』です。とんこつは豚の背脂を煮込んだスープが特徴ですが、動物性脂肪と麺に含まれる糖質を一緒に摂ると、血糖値が急激に上がります。すると、血糖値を下げるためにすい臓からインスリンが分泌される。

 しかし、今度は血糖値が下がりすぎて、脳がすぐに空腹を感じ、本当にお腹が空いているわけではないのに食べたい欲求が抑えられなくなります」

 動物性脂肪と糖質の摂りすぎは肥満の原因となり、あらゆる生活習慣病を引き起こす恐れがある。ラーメンが日本の「国民食」と呼ばれるゆえんは、その中毒性の高さゆえかもしれない。

 とはいえ、依存性の高いものだからといって、一度食べただけでは食物依存症にはならない。大切なのは、習慣化しないことだ。大西さんはいう。

「カップラーメンを毎日食べていたら依存リスクは高まりますが、逆に言えば、回数が少なければ依存リスクは減少します。嗜好品として週1回程度なら食べても問題ありません」(大西さん)

 危険な食べ物を食べる頻度を減らし、果物や野菜など原形が見えるものを多く食べることが中毒から逃れるコツだ。管理栄養士の麻生れいみさんが言う。

「加工食品の中毒になっている人は、自然の状態の食材をなるべく手を加えずに調理し、よく噛んで味を理解できるようになるトレーニングが必要です。

 また、加工食品は栄養が極端に偏っているため、加工食品を好んで食べる人は栄養不足のことが多い。体に足りない栄養を求めて食欲が働きますが、さらに加工食品を食べても栄養不足は改善されません。そういう人は、サプリメントなどで不足した栄養を補給すると、中毒状態から抜け出せることもある」

※女性セブン2021年9月2日号
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河村たかし、という男ー政治信条は優秀

2021-08-19 12:37:53 | おもしろい
「メダルかじり」で、国民からフルボッコ中の河村たかし名古屋市長が記者会見で謝罪し、3カ月間の給与、計150万を全額カットすると発表したことを受け、人口約230万人を抱える政令指定都市の市長のわりにはちょっと安すぎるのではないか、と大きな話題となったのである。

 そんなトレンドの中では、この非常識に安い給与が、あの非常識な行動につながったのではないか、という声も方も多く聞かれた。要点をまとめるとざっとこんな感じだ。

●名古屋市長という職務の責任の重さに見合わない。こんな安くしたから市長としての自覚が足りなくなったのでは?
●政治家はそれなりに高い給料にしないと、優秀な人材が集まらなくなってしまう。

●「庶民の味方」というパフォーマンスに力を注ぎすぎて、何をしても許されるという甘えが出たのは。

 実際、お笑いコンピ「キングコング」の西野亮廣さんも、音声プラットフォーム「Voicy」で、多くの人の生活を背負うリーダーの給料が「月50万」というのはかなり危険で、「市長のパフォーマンスが下がる」としてこう分析をした。

「ご本人および、まわりのスタッフは庶民の味方という捉え方されていたのかもしれませんが、市長の給料が50万円というのは“言い訳が多分にできる状況”であるので、やっぱり金メダルもかじっちゃうんです」(スポニチ8月17日)

 さまざまな意見があって当然だが、個人的には「月50万」と「メダルかじり」はあまり関係ないのではないかと思っている。

 筆者は日本の賃金をどんどん上げていくべきだという考えがあるので、高いパフォーマンスを上げるリーダーが高い報酬をもらうという西田さんの考え方に異論はない。が、民間のリーダーと「選挙で選ばれる政治家」は果たす役割も責任も根本的に違うと思っている。実際、経営者のように高い報酬をもらっているので高いパフォーマンスを発揮するというものでもない現実があるのだ。

高報酬・低パフォーマンスの政治家が溢れる日本

自ら「月50万」にしている河村市長

 例えば、ほとんど使用しない公用車に、高級車を採用して自分の移動に使って批判を浴びた知事や、市長室に360万のシャワー室を取り付けたり高級家具を買い揃えたりしていたと追及された市長は、みな河村氏よりも「高給取り」だ。また、年間給与約2000万と、非課税の文書通信交通滞在費1200万を懐におさめる国会議員も、中国企業からカネをもらったり、選挙でカネをバラまいたりしている。国民に自粛を要請しておきながら裏で銀座通いもする。

 つまり、河村氏の倍の給与をもらっていても、政治リーダーとしてパフォーマンスの低い政治家もいれば、「メダルかじり」よりモラルを欠いた行動をしている政治家もゴマンといる。

 さらに言えば、「月50万」によって市長としてのパフォーマンスが落ちるというのなら、とっくの昔に名古屋市行政はハチャメチャになって、河村氏は市民から「クビ」を宣告されているはずではないか。

 なぜなら、「月50万」という給与は、もうかれこれ12年以上も続けているからだ。

 ご存じのように、名古屋市は中京経済圏の中心で、世界的企業トヨタのお膝元ということもあり財政的にかなり潤っている。そのため、もともと市長の給与も全国トップレベルの年収2400万と条例で定められていた。

 これを河村氏が3分の1にした。2009年の選挙で自身の年収を額面で800万にすると公約を掲げて当選したからだ。ちなみに、800万というのは当時の厚生労働省の調査で「大卒男性60歳」を基準とした年収である。

 それから12年で5回の選挙を経て、この「月50万」は今日まで続いている。市長の任期が終わるたびに支給される退職金も受け取っておらず、その額は約3億5000万となっている。

「石の上にも3年」ではないが、仮にこれが「政治パフォーマンス」だとしても、ここまで続ければ、「政策」として評価していいのではないだろうか。

守られない公約ばかりの中、「月50万」は達成できている
 言うまでもないが、政治家の「公約」というのはほとんど達成されない。古くは民主党のマニフェストもそうだが、安倍・菅政権も細かく検証をすれば公約破りは山ほどある。それは政治家側もよくわかっているので、「子育てや医療・福祉を頑張ります」とか「誰もが笑顔になれる社会を目指します」という「ふわっ」としたスローガンを押し出して、「公約違反」にならないようにしている。

 もちろん、河村氏も実現できていない公約はある。が、自身の給与削減とともに、職員や市議会議員の給与も減らして、「市民税の減税5%」を平成24年から続けている。

「マスコミ受けのパフォーマスだけ」「市長のせいで職員は機能不全だ」などなど辛辣な批判も多いし、早く消えてくれと願う市議会議員や政党も多い。それでも2009年の初当選以来、12年で5回の選挙で圧倒的な勝利をおさめているのは、名古屋市民が河村氏の「パフォーマンス」をそれなりに評価をしているからだ。

人間・河村たかしの言動と「政治家の給与削減」は切り離すべき
 では、「月50万」によって政治家としてのパフォーマンスが低下したことで、「メダルかじり」という非常識な行為が引き起こされたのではないとしたら、どういった理由で河村氏はあんなことをしたのか。

 16日にあらためて謝罪をした際に、「周りを盛り上げようと言ってきたがハラスメントに該当すると分かった」とご本人が述べているように、報道陣の前であれをやれば「ウケる」と勘違いしていたのではないか、と個人的には思う。

 河村たかしという政治家は、「騒ぎ」を起こすことで存在感を示してきた。国会議員時代、文化財としての価値のあった愛知県立旭丘高校の校舎取り壊しに反対し、自分自身を鎖で巻いて校門で座り込みをした。新しく議員宿舎を建て直すことに反対していた時も、入居せずに家賃7万5000円のマンションから国会に来た。

 その「思いたったら即行動」というのが今回は裏目に出た。名古屋城の金のシャチホコもかじっていたと蒸し返されたが、河村氏の中ではそれと同じ意識でやってしまったのではないか。

 だから、メダルにかじりついたというニュースを聞いた時、正直それほど驚かなかった。むしろ「いかにもやりそうだ」と思った。

「ずいぶんわかったようなことを言うじゃないか」という声が聞こえそうだが、多少なりとも河村氏の人間性は知っているつもりだ。2005年、雑誌の編集者だった頃に河村氏の連載を担当したことが縁で、その後もいくつかの著書を手伝っているからだ。

 当時は衆議院議員だったが、その頃から破天荒だった。ある時、議員会館の事務所でインタビュー中、若い頃に履いていたジーンズが見つかったという話題になった。すると、「どれ、ちょっと履いてみるか」といきなりズボンを下ろしてパンツ一丁になったので、びっくりしたことがある。そういう人なのだ。

 擁護をしているわけではない。ただ、「人間・河村たかしの非常識さ」に向けられる批判と、河村氏が実行してきた「政治家の給与削減」や「減税」は切り離して考えるべきだ、と言いたいだけである。

河村市長が、政治家の給料は少なくていいと考える理由
 なぜ河村氏が全国の市長で最低の「月50万」にしているかというと、政治家はパブリックサーバント(全体の奉仕者)と考えているからだ。

 年収がトータル3200万円の国会議員も選挙演説などで同じことを言うが、実は世界でもこんなにガッツリと税金で食わせてもらっている議員はレアケースだ。税金による負担は最小限にして、寄付で活動をするスタイルが多く、利権を貪らないように期限を設けて、議員を長く続けられなくしていることもある。また、地方議会などは昼間に本業があって、休日や夜の議会に参加する「兼業議員」という国もある。

 しかし、日本では国会議員も地方議員も一度当選すればやめたくない、高給取りの美味しい職業となっている。だから、なるべく長く続けて、しまいには息子や孫にも後を継がせて、「ファミリービジネス」にしたいという人たちが続出する。かくして、日本の議会には3代続く世襲議員や、80歳オーバーの高齢議員が溢れかえっているというわけだ。

 こういうビジネス政治家に思いきった改革はできない。だから、給与を下げて「ボランティア」にすれば、高給取りの上級国民ではなく、社会に奉仕するパブリックサーバントが増えていく。河村氏はそう考えているのだ。

 もちろん、賛同できない人も多いだろう。筆者もこの件でよく議員や政治記者と意見を交換するが、ほとんどの人が否定的だ。

「それでは貧しい人が政治家になれない」「安定した収入がないと不正をするのでは」「優秀な人材がこない」と、議員には企業経営者くらいの金を税金で出さないと、日本がおかしくなってしまうという。

 しかし、今の状況を見ていただきたい。年収3200万の国会議員に、貧しい人の代表や、優秀な人ばかりが集まって、国民目線の政治が実現できているのか。税金でこれだけ食わせているのに、「政治とカネ」の問題も一向になくならない。

「政治家=特権階級」という明治時代から脈々と引き継がれてきた「政治家にたくさんお金をあげれば、そのお金に見合う仕事をしてくれるはずだ」という考え方自体が間違っているという可能性もあるのではないか。

 河村氏が掲げる「減税」もそうだ。

 一般的には、減税や行政改革というのは、政治家がリーダーシップを発揮して、税金のムダをカットしたり、行政をスリム化したりして達成される、と考えられている。

 しかし、現実はどうだろう。行政改革も政治改革もほとんど進んでいない。減税どころか増税が進んで、社会保障の負担もどんどん重くなっている。つまり、「優秀な政治家を応援さえしていれば、改革が進んで国民の生活がラクになる」という考え方も間違っている可能性があるのだ。

 だから河村氏は「逆」を続けている。まず「減税」をするのだ。税収が減れば、追いつめられた行政は自らムダを削減していくしかない。そうなると税金でメシを食う政治家も我が身を削るしかない。いくらムダを減らせと言っても自浄作用のない組織は必ず抜け穴をつくる。そこで、収入を意図的に減らすことで、自ら改革をするように促すのだ。

政治信条まで潰してはならない
 これが正しいかどうかはさてき、実はこの構造は「生産性向上」にも当てはまる。

 これまで日本商工会議所や日本の経済評論家などの常識では、中小企業に税金をじゃんじゃん投入して、設備投資などを応援すれば、生産性が向上して、従業員の賃金も上がるとしてきた。

 しかし、この方向性を50年続けてきた結果が、今の日本の生産性の低さと、先進国の中でダントツに低い賃金だ。

「首相のブレーン」として知られる小西美術工藝社のデービッド・アトキンソン氏は、海外の最新の分析などをもとに、これを「逆」だと主張している。つまり、生産性を上げてから賃金を上げるのではなくて、賃金を上げていくことによって、中小企業経営者が生産性向上に動き、そこからまた賃金が上がっていくという好循環につながるというのだ。

 こちらが正しいとしたら、「政治家の給与削減」や「減税」も同じなのではないか。我々は少しでも豊かな生活をしたいと、「こんな安月給じゃあ改革してくれないぞ」「お金に困ってヘソを曲げて不正でもしたらどうするんだ」と必死になって自分たちの血税を“政治家様”に献上してきたが、実は事態を悪化させているのではないか。

 今回の騒動で一つだけ筆者が心配しているのは、メダルかじりバッシングの巻き添えになる形で、河村氏が続けてきた「政治信条」まで潰されてしまうのではないかということだ。

「やはり政治家にはバーンと2000万くらい出さないとレベルが低くなっちゃうな」

「減税なんてパフォーマンス政治をしているから、あんな非常識な人間になるんだ」

 こんなことになれば喜ぶのは政治家と、そこにぶら下がる上級国民の皆さんだけだ。河村氏を叩いている人も、ぜひそこだけは切り分けてお願いしたい。

(ノンフィクションライター 窪田順生)
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