波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

二匹の魚

2018-10-15 09:27:10 | 超短編



 父と娘はS川の土手に座って、釣糸を垂れていた。釣りをしているのは父親で、娘はついて来ただけである。
 家から電車で一時間、支線に乗り換えて、釣場に近い駅まで二十分。
 娘が父に同行することはめったにないが、今日はどうしたことだろう。父は何かあるなと警戒した。
 休日のS川河口の土手は、釣り人で賑わっていた。昼過ぎに着いたので、良い場所は占領されていた。あとは運に任せるしかない。
 父の浮きが持って行かれて、
「パパの浮きが沈んだよ」
 と娘が教えた。竿を上げると、白い花が開くように魚が揚がってきた。
「水から揚がってくるときって、お日様を浴びてキラキラ。白いお花が開いたみたいね」
「白い魚だからね。次はどんな魚かな」
 と父は言った。
「私は赤いお花がいいな」
「赤いとなると、メバルか金目鯛か、それとも小鯛か。滅多にかからないと、思うけどな。まあ、小鯛くらいで我慢しておくんだな。それでもめったにかからない」
 父は娘の希望を叶えるのは難しいと思い、顔をしかめた。タイとなると、何でもメデタいのだ。ますます娘の狙いが見えてきたぞ。それを告白するために、父親について来たのだろう。
 父親は、いつかそのうちと、覚悟はしていたのである。それがいよいよ今日か。彼はタバコを出して火をつけた。風はあるが、火がつかないほどではない。
「私にも一本、ちょ」
 娘はねだったが、父親は厳しく叱った。
 娘はしょんぼりとなって、川面に見入った。先ほど釣ったボラが、ビクの中で底を叩いた。
 浮きがかすかに水流とはちがう動きをしたが、魚の気配はなかった。
「私パパとは、ずいぶん赤か白かで議論したよね。私は赤だといい、パパはいつも白だった。紅白の夜なんか、特にひどかったよ。ママが亡くなって、今年で九年目だけど、亡くなってからは毎年のように、ギロンしたよね」
「ああ」
 と言って、父の顔は沈んだままだった。娘がそれだけ赤い魚を待っていると思うと、その娘が不憫でならなかった。赤い魚が釣れて、その喜びを口にする娘を想像すると、覚悟してはいるものの、いよいよ独り暮らしをすることになる自分の境涯が惨めであり、それを考えることが厭わしかった。
 つき合っている相手の実家が九州であるとは、前から聞いていた。行きつけのバーで、一度出会ったこともある。やや子供っぽいが、礼儀正しい男だった。結婚するとか、しないとか、そういう話は、いっさい娘からも聞いていなかった。それが本格化する日が迫っていると、本能的に感じた。そんな勘しか働かなくなっている自分が哀れでならなかった。
 はっきりするものなら、早く決めて、九州でもどこでも片付いてくれ、そう思っていた。今日がその日であるなら、もって瞑すべしだ。父親が強く心に念じてそう思った。そのとき、浮きが本格的に持って行かれた。大物ではないが、本気だな、コイツ、と父親は思って、竿を揚げにかかった。娘は青ざめているが、父の心は閉じたままだった。
 父は娘をちらっと横目に見て、白だったらどうするんだよ、と言ってやりたくなっていた。
 ところが、上がって来たのは、赤い魚だったのだ。娘は魚の反射を浴びたように輝いている。
「お前の願いがかなったようだぞ、小鯛だな、これは。しかも、想像していたよりも大きい」
「願いがかなったわ,バンザイ!」
 と娘は跳び上がった。喜ぶのはいいが、父親の気持ちをいくらかでも考えているのか。父親は娘の仕草に、妻が他界するずっと前の、幼女の頃の娘を目に浮かべていた。その頃から両手を挙げて跳び上がる癖があったが、その頃は、跳び上がる度に、臍が出ていたのである。妻はその娘に対して、
「ほらほら、そんなに跳ぶとおヘソが出ているわよ。少しはお嬢さんらしくなさい」
 そう言って、持ち上がった娘のシャツを下ろしていたのである。
 父親はそんな光景を目に浮かべながら、娘の着衣に注目したのである。娘は薄着ではあるが、腹部に肌の色はなかった。この娘も成長したものだ。そう思って水面に輝く赤い花を、手元に引き寄せていった。
 とにかく娘の希望する色の魚が手に入ったのだ。その娘のために、乾杯をしてやりたかったがいつもは欠かさないポケットウイスキーを忘れてしまった。
「おめでとう。おまえのためにささやかながら乾杯したかったが、今日に限ってウイスキーの小瓶持ってくるの忘れたよ。
「私のために乾杯ですって? いったい、なんの乾杯よ。もしかして、パパ私の心わかっていたの」
「跳びあがるほど、喜んだじゃないか。式はいつに決まったんだ。九州でやるんだろう」
「嫌だあ。パパ何を考えてたの」
「だって、赤い魚が釣れれば、お前の勝ちじゃないか」
「ようやく分かったわよ。ずっとどこかちぐはぐなものがあったのよ。パパは私の気持ちを無視して、そんなこと考えていたの」
「赤か白か、真剣に賭けたじゃないか」
「賭けたわよ。私が賭けたのは、そんなことじゃないの。パパにとっては、こっちのほうが大変かも知れない」
「大変って、妻子ある男か?」
「私が賭けたのは、男じゃないわ、お店の話。それを持ち出すか、どうか、お魚の色に賭けたの。だって赤いお魚が釣れたんだモノ、その話を持ち出していいってことでしょう」
「いいさ、いいさ。退職金に預金の残りを足せば、お前の小店くらい手に入るだろう」
「嬉しいわ」
 娘はそこで立ち上がると、土手の草の上で跳びあがった。「ママも言っていたけど、パパはいい人だわ」
 娘は叫んで、四五回跳ね上がった。降りるとき、父が小さく十字を切るのが見えた、信仰はママからのようだ。生前ママとパパは、喧嘩ばかりしていた。信じたとすれば、ママとママの信じる神に、パパが逆らいすぎたからだろう。その罪の意識。罪の意識が深く沈んだのだろう。
 娘は自分ひとり置いて行かれたと思った.。そうかと言って、父と母が神の特別な訓練を受けているとも感じなかった。今度はパパが私をしこむ番だ。けれどもその前に、自分は小店を出してもらい、赤い花を売ろうと思った。
「パパ今日帰りに、居酒屋安西に寄ろうね」
 はすっかり打ち解けた顔になって言った。居酒屋安西は、酔った父が最後に引っかかている店だった。娘の家にも近かった。眠らずに一人で父を待っていると、父からともそこの女将さんからともなく電話が来て、飛び出て行ったものだった。そこで取り合わせの夕食をご馳走になり、酔った父を連れて帰っていた。
今日このお魚を、焼くか煮るかしてもらうの。白いパパのお魚を私が食べ、赤いお魚はパパ。とりかえっこするのよ。もうカケゴトはおしまい。きりがついたんだもの。さっきのお店の話、本当よね、パパ」
「100パーセント、確かだ。とりかえっこした魚を食べて、そこで本式の乾杯だ。酒じゃなく、赤ワインがいい」
 と父が言って、釣具をしまいにかかった。魚の入ったビクは娘が持った。
「小さいお魚、逃がしてあげてよかったね」
 と娘が言った。ビクの中には、白い魚と赤い魚が二匹いるだけだった。

 おわり

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