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映写室インタビュー23 「終わりよければすべてよし」の監督を囲んで

2008-06-16 07:46:21 | 映写室インタビュー記事
映写室インタビュー23 「終わりよければすべてよし」の監督を囲んで
     ―羽田澄子監督の提言する理想の終末期医療―

 生を謳歌した私たちに、最後に訪れるのは死。なのに、誰でも必ず迎えるその時を、何処でどうやってと考える事はない。意気地のない私なんて、その時はその時なんて嘯いている。このドキュメンタリーはそんな人生の終わりを、羽田澄子監督が果敢に真正面から見据えたものです。

 現在日本では80%以上の人が病院で死を迎えます。その結果、過剰な延命治療でその時を延ばし、気が付くと人としての尊厳もない管だらけの体、ベッドに釘付けで死んでいく人の何と多い事でしょう。でも少し前は、多くの人が自宅で家族に見守られて、死を迎えていました。望む誰もがそんな死を迎えられたらと言うのが、監督の願いです。
 監督のお母様は90近くで病気になった時、ご自身が娘(監督の妹さん)と夫を病院で看取った時の辛い経験から、たいそう病院を嫌がるので、治療が終わった後は監督が自宅に引き取り最期を看取った。幸い安らかな死だったけれど、色々な事を自分が判断する不安な日々を振り返り、今の日本で自宅で亡くなる事がどんなに大変かと、改めて気付かれたそうです。監督は不安になった。母は私がいたからそれが出来たけれど、私はどうなるのかと。でもそんな厳しい現実を見てもしょうがない。理想的なケースを見つけて、それが全国に広がる方法を考えようと、前向き思考で作られたのがこの作品です。スウェーデン、オーストラリアの例と共に、日本でも画期的な在宅介護システムを作り上げた団体を、医師と患者の側から紹介しています。

―長く映画を撮っておられますが、このところテーマが一貫されていますね。それはどうしてでしょう。
羽田監督:一貫したテーマに拘るようになったのは、岩波映画を定年退職して、自分の作品を自分で取り出してからです。それまでは色々撮ってましたが、1986年に「痴呆性老人の世界」を撮った後から、年を取るとどうなるんだろう。どんな風に年をとっていくんだろうと気になり始めたんです。
―それは岩波映画制作で、キネマ旬報ベストテンの1位になったり、色々な賞を受賞された作品ですね。
監督:ええそうです。他に芸能分野の片岡仁左衛門や、アキコ・カンダ等も撮ってますが、社会的テーマとしては老人問題に関わるようになりました。
―これは急速な高齢化社会を迎える日本の、正に今の問題ですね。
監督:そうなんです。「安心して老いるために」を撮った時、老人の行く末とは、生の終わりとはと、色々話していたら、そこに丁度富山の市立病院の事件が起こって、プロデューサーがこれは急いで作らないといけないと言い出したんです。5ケ月位で撮りました。

―終末と言う大変プライベートなデリケートな所に立ち入る訳ですが、撮影の許可はすぐに下りましたか。
監督:私たちが直接お願いしたら難しかったでしょうが、総て施設や先生が承諾を取って下さいました。私たちの代わりに、そちらが責任を負ってと言う事ですね。其方の信頼関係がきちんと取れている結果です。だから逆に、撮影したけど使わないというのは出来なくて、厳選しての撮影です。ただ撮影には神経を使いました。撮影後すぐに亡くなった方も多くて、辛いです。
―映画を拝見しながら、確かに自宅で死を迎える事は良いけれど、総ての意味で恵まれた方だなあと思いました。日本ではまだ介護とかは女性の労働に委ねられています。
監督:そうですね。それを可能にするのは、具体的にはお金以上に人手のゆとりです。それと在宅医療をやるには、ちゃんとした福祉のサービスがないとやっていけない。それはこの映画を作って始めて気付いたんです。実際映画を撮っている間も、憂鬱でしたよ。この人はともかく、自分はこんな風に上手く行くだろうかと不安で。辛くなりました。でも暗い所を見ていても仕方がない。そんな話は皆が知っています。明るい話を披露して、それを皆で目指そうと。オーストラリアやスウェーデンの方、どちらも90以上なのに赤やピンクの服を着て、若々しいでしょう。撮影の半月後に亡くなられたんですが。

―え、とてもそんな風には見えません。どうしてお若いのでしょうか。
監督:それは私も知りたい。ただ言える事は、彼らはキョロキョロしないでしっかり生きています。相手の思惑で自分の生き方を左右される事がない。しっかり生きる事ですね。
―こんな映画を撮られて、監督はご自身の終末をどう迎えたいですか。
監督:まず過剰な延命はいらない。ちゃんとしたペインクリニックを受け、痛みのない最期でありたい。それと告知は受けたいのです。ああ死ぬんだなあと思って、それを受け入れ幸せを感じて死にたいですね。最後の時が幸せだったら、それまではどうであれ、総てが消えて幸せだと思うんです。だから「終わりよければすべてよし」
―なるほど。私たちも81歳という監督が、こんなにお若く美しく、次回作に意欲的に取り組まれているのを拝見しまして、年を重ねるのも悪くないと、なんだか元気になりました。有難うございます。

<インタビュー後記:犬塚>
 実は監督とのお話は、ここに書いていない事のほうがずっと多いのです。最初はインタビューだったのに、「これを観た皆が話し合うきっかけになって欲しいと思って作った」という監督の言葉どおりに、私たちは誰もが自分に引き寄せ経験や思いを話し始めていました。老いや死を見つめる事は、実は私の年齢が一番辛いかもしれません。まだ観念するには早すぎ、人事と思うには近過ぎるから。監督のように毅然と向き合うには本当言うとまだ時間が要りますが、何時かもっと切実にこの映画を感じることでしょう。


映写室 インタビュー22「祇園祭」井川徳道美術監督(後編)

2008-06-12 07:58:55 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー22「祇園祭」井川徳道美術監督(後編)
    ―この作品への心残りと達成感―

(昨日の続き)
―凄いですね。他にも大変そうな火事のシーンがありますが。
井川:あれは実際は祭りの前の話ですが、撮影は巡行シーンで使った家並みを後で燃やしているんです。

―でも京都の町中で火事のシーンが撮れるのですか。
井川:もちろん充分気をつけてですが、その頃は本当にあの辺りは何にも無かったんです。それに一度に町全部が燃える訳じゃないですから。あちこちでちょろちょろでしょ、何とかなります。映画のセットはどんなに苦労して建てても終わったら壊すものですから、まあ火事で壊したといったところですね。

―うーん、凄いお話です。その作品を今回復元されたわけですが。
井川:僕は実はこれに関心が無かった。と言うのも心残りが多く作品的に満足してないんで嫌なんです。でも祇園祭に合わせた京都文化博物館での上映に、毎年結構な人が集まるんですね。それを観ると何とか我慢できるが、赤っぽく退化してフィルムが情けない状態になっていました。今回復元したものを観て欲しいと言うんで、監督と僕とでチェックしたんです。色がびっくりするほど綺麗になってました。イマジカの再生技術が良かったですね。
―今御覧になったお気持ちは。
井川:三船さんも迫力があるし、錦之助さんが良いですね。この作品に限らず、錦之助さんは役者としてすばらしく、僕はものすごく魅力を感じる方なんです。祇園祭にかける若者の思いが滲み出てますね。心の中から演じている。それが一致団結してこれを作った当時の映画人の思いに重なります。その頃は時代劇は必ず京都で撮っていて、馬屋と言う馬を貸す仕事も成り立っていましたから、そこからたくさん馬を調達出来ました。衣装も本格的で凝っていますし、染物職人という設定の錦之助さんの指先はどのシーンでも汚れているでしょう。洗っても取れないらしいんですよ。そのあたりをリアルに作っています。

―この作品一番の思い出は何でしょうか。
井川:やっぱり巡行シーンですね。これが撮れた時はほっとしました。それと揉めながらのスタートだったので、無事に完成した時は嬉しかったですね。同時にやりたかった事を積み残した作品でもありました。
―さっきのお話以外で、特に何処が心残りなんでしょう。
井川:町衆の家々の屋根を、上から移動しながら写すシーンがあるんです。あの屏風絵のようにもっと屋根に凝りたかったですね。石を置いた板屋根にしたり、古びさせたり、入り組ませたりと、複雑に変化をつけたかった。もっとリアリティを出したかったと言う事です。
―でも、話自体がハレの日の事ですから。
井川:僕は最初の出発が独立プロで、その後東映に移りました。で東映に入った時は、セットを見て驚きましてね。
―え、軽いとか?
井川:そうなんです。悩みましてね。30を越えた頃に一度嫌になって辞めようとしたんです。そしたら当時の所長の岡田さんが、「東映が作るのは娯楽作品だ。色々な人が観て楽しい作品を作りたい。前で役者がそんな演技をしてるのに後ろの美術が重かったら、噛み合わない。軽くていいんだ。一考してくれ]との事。そう言われてみると学生時代にフランス映画が好きで、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督に心酔していました。「望郷」、「舞踏会の手帳」、「商船チナシテー」等の代表作のある、フランス映画の中では娯楽作品監督です。私は岡田さんの言葉に原点に返りました。そしてこの道50年娯楽映画一筋、東映にお世話になっています。

―お気持ちは解かるようにも思いますが。ところで先日ある所で木村威夫さんのお話を伺ったのですが、木村さんは美術監督でありながら、89歳で初監督作品を作られました。井川さんは演出には興味はありませんか。
井川:木村さんは本当にお元気ですね。しかも昔からアバンギャルド志向でしょう、凄いですね。実は僕は映画界に最初演出部、助監督で入ったんです。ところがそこは美術スタッフが足りなくて、僕がそっちの出身なもので(京都芸大)、お前手伝えと美術助手に回されました。そこに優秀な美術監督がいたんですよ。色々教えてもらって、すっかり映画美術の面白さに取り付かれました。と言うのも、シナリオが来るでしょう。イメージは美術監督が先取りします。その後を監督がついてくる。まあ黒澤さんのような、絵コンテが描ける監督は別ですが、たいていの監督は演技に重きを置いて、ビジュアルは苦手です。そっち方面は頼られますから映像的にリード出来る。それが面白いんですね。「これは良いな」と思いました。

―そんな風にされて今や映画界の重鎮ですが、これからの人に何か伝えるとしたら。
井川:これだけの情報化社会、簡単な資料はネットからも手に入ります。映画美術もC.Gとか入ってきた。でもマニュアルに拘りたい。今こそ、映画作りにロマンを求めた、映画の原点に返らないとまずいと思います。物事の本質、本格的と言う事を忘れてはいけない。この作品を作った頃は、カメラもそんなに簡単に手に入らず、今ならぱちりと写して終わるロケハンも、美術がスケッチしていた。でもスケッチする事で、現場のここを生かしここを隠してと頭を整理してたんですね。それに図面をコピーするのが美術助手の大事な仕事ですが、以前はコピー機が無いから、大道具さんまでと大勢に図面を渡すのに、何枚もカーボンと紙を重ねて、先輩の書いた図面を硬い鉛筆で手が痛くなるほどなぞった。でもそれが良かったんです。(この人はここをこんな風にする、あの人はこうする)と、それぞれの人の技が盗めた。それに図面が頭にしっかり入りましたね。まあコピー機がある今、そんなことは出来ませんが、そういう大事な勉強の機会を無くした事に気付いて、自分で描く事です。デッサンからヒントは来ますから。便利なのはいいけれど、不便をどうやって乗り切るかと考える事でアイデアが湧いて来る。美術監督はその閃きや発想が大事なのです。

<インタビュー後記:犬塚>
 忙しい撮影の合間をぬってのインタビューを、ありがとう御座います。裏話や映画への思いを伺い、興味の尽きない時間でした。ところで「祇園祭」は大変豪華な作品です。まずそれに驚きました。お金だけで無く、プロの心意気と技術力に溢れた、もう今の時代には作れない作品かもしれません。それに今も燦然と輝くスターの皆さんのお顔が若く、タイムトリップした気分。邦画ファンの方なら、その他大勢に隠れた名優を探して、興味が尽きないでしょう。

 修復版特別上映会&フォーラム「京都の力」   
   日時   11月11日(日)11:00~19:00
   会場   祇園会館(全席自由)   (075-561-0160)
   入場料  当日   大人1500円  学生1200円
            前売り  大人1200円  学生800円
   プログラム     
     1.映画「祇園祭」上映&90年前の実写フィルム上映   11:00~14:00
     2.フォーラム(映画「祇園祭」と京都の力)    14:15~15:45
        基調講演 中島貞夫(映画監督)
        パネラー 山内鉄也(映画監督)、井川徳道(映画美術監督)、
        太田光男(大阪芸大教授)、丘真奈美(京都市観光大使、放送作家)
        深見茂(祇園祭山鉾連合会理事長)
     3.映画「祇園祭」上映&90年前の実写フィルム上映   16:00~19:00



映写室 インタビュー21「祇園祭」井川徳道美術監督(前編)

2008-06-12 07:56:21 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー21「祇園祭」井川徳道美術監督(前編)
       ―40年前の高揚感と苦労―

 今から約40年前に作られた大型時代劇「祇園祭」は、毎年夏に上映されています。でもさすがに赤っぽく退色し、このままだと駄目になると危惧されていました。大阪芸大の太田研究室が、今回それをイマジカ現像所の技術協力を得て復元したのです。記念の上映会に先立ち、この作品の美術監督の井川徳道さんに、当時のお話と映画美術について、今日明日の連続2回で伺いましょう。

<その前に祇園祭とはこんな映画>
 今から約550年前、足利将軍の世継ぎに端を発した応仁の乱は、50年にもわたって京の都の内外を戦禍の渦に巻き込んだ。食うに困った百姓は土一揆で町を襲い、侍達は町衆を置き去りにして逃げていく。気が付くと、百姓町衆と弱い者同士が争っていた。染め職人の新吉(中村錦之助)は、そんな現実に愕然とする。荒廃した京の町を建て直す為、弓矢でない町衆の団結力を示そうと「祇園祭」の再興を提案。お囃子の笛を教えたのはの娘(岩下志麻)だった。そんな事より御所の再建費を出せと迫害を受けながら、つるめそ、馬借、と差別を受ける者も加わり、町衆の祭りが始まる。

<井川徳道さんインタビュー>
―もの凄い豪華な作品ですね。
井川徳道さん(以下敬称略):中村錦之助さんが独立プロを作って制作した第1回の作品です。錦之助さんを助けようと、出演者にはスター達が大挙馳せ参じてますし、資金、情報と京都府や祇園祭の関係の方々が積極的に製作に関わり、技術は京都映画人が結集して作りました。当時は蜷川府政でそんな事にもお金が使えたのでしょう。原作は伏見にいらした西口克己さんで、共産党系の方です。日本映画界が衰退を始めた頃で、東映も活路を求めて任侠物等に移っていました。錦之助さんの行動はそんな路線へのアンチテーゼもあったのでしょうね。と言っても、本人もやくざ物を色々されてはいましたが。この作品は揉めまして、伊藤大輔監督は最初の1日だけ来て止めてしまい、後は山本鉄也監督がやりました。揉め事の後ではやり難かったでしょうが、温厚な方で調整されましたね。

―美術的に苦労された所は。
井川:大作ですからね。僕は東映にいましたが、配給は松竹なんですよ。あちこち打ち合わせに走り回って、しかもセット数が多いのに準備期間が短かい。それが辛かったです。中でも大変なのが、鉾が巡行するシーンの為の京都の町並みを作る場所探しでした。応仁の乱等で焼けた後、かなり復興した頃と言う設定です。四条通に当たる真ん中の道路は、鉾を引くので幅も必要だし長さもいる。セットを立てる場所を探して京都、滋賀と探し回るがいい所が無いんですよ。困っていたら、京都府の方から新丸太町通りを使ってはどうかと話が来ました。丁度ここの拡張工事をしていて、今で言えば丸田町から北嵯峨位までの間の広い道が、土木工事も終わってきちんと出来ていたんです。我々が欲しかったのは400m位ですが、1km位もあったでしょうか。これは良いと借りました。自分達では知り得ない情報で、府が協力する作品だからこそ出来た事です。あの道がなかったら、この映画はそのへんのチャチな物になっていたでしょう。

―でもセットを建てるのですから、周りの家が邪魔になりませんか。
井川:当時はあの当たりに家なんて無かったんです。新興住宅がやっと建ち始めた頃ですからね。竹薮やそんなもんでした。
―えーっ、そうなんですか。今の街を見ると信じられませんが。
井川:まだ寂しいもんでした。其処に町並みを建てるんですが、鉾が通る所を写すんだから、家は両側に要るんですよ。しかも古い町並みで、参考にしたのが有名な「洛中洛外」の屏風絵です。当時の建築物の研究者の意見も仰ぎました。これは大変な作業で、助手が2,3人いましたが、僕らだけでそれだけの図面が短期間に描ける訳がない。松竹の倉橋さんにも手伝ってもらいました。又これだけのセットとなると、大道具も実力がないと出来ない。松竹の大道具で今の新映美工の真城さんにも、色々知恵をもらいました。真城さんはこの作品に勝負を賭けていましてね。ああでもないと2人で相談しました。京都中の大道具さんに手伝ってもらったんです。しかも最初、鉾の巡行シーンの撮影まで1ヵ月半あったのが、大勢のスターが巡行を見る一般庶民として出演する事になって、そうなると皆忙しいから一同に集れる日はそうそうない。結局そのシーンの撮影が早まり1ヶ月弱の準備期間になりました。もう突貫工事です。これは本当に辛かった。セットは建てるだけじゃあ駄目で、建ったら塗装をして、その後仕上げ、つまりリアリティを出す為に使っているように汚しをかけるんですが、時間がないからそれが出来ない。塗装の後小道具さんが入って暖簾とかの装飾をすると、もう撮影当日でそのまま撮影です。辛かったし心残りでした。

―でもこのシーンはお祭りと言うハレの日ですし、町も復興直後の設定ですから新しいはずです。そんな華やぎが大勢のスターのオーラに重なり画面から伝わってきて、違和感はなかったんですが。
井川:そう観てもらえると嬉しいですが、映画評論家は被写体の仕上がりが安っぽいとか色々言うんですよ。こっちも忸怩たる思いはあるんですが、何しろ時間がないから仕方なかった。

―鉾はお借りになったんですね。
井川:借りもしましたが別に組み立てるシーンとかに一台作りました。後、人込みの向こうにお社が見えるんですが、当時の八坂さんは正面じゃあないんですが、これは今の位置関係をとって正面にしたんです。と言っても、実際に道の真ん中に建てるわけにはいかない。全部は写らないし遠景と言う事もあり、書き割りを、つまり板に社の絵を書くんですが、立体的に書いてもらって道の真ん中に立てました。画面の奥にちらっと見えたと思います。
―ええ、見えました。あのシーンは楽しかったです。美空ひばりさん、高倉健さん、渥美清さん等と、大スターが若い頃の姿を見せていますね。
井川:錦之助さんは人望がありましたからねえ。独立後の第1作と言うので、今の方はご存じないかもしれないけれど、当時のそうそうたる方々が集まって協力したんですよ。三船敏郎さんや岩下志麻さんはせりふも多いけど、そうでない只の脇役にも、スターが揃ってます。しかも皆ノーギャラですからね。出演料を払ってたらそれだけで大変な額になる。誰もの日本映画を復興させようと言う思いでしょうね。映画は完全を求めると言いますが、完全を求めるとお金がかかる。この作品にどれだけお金がかかったかと言えば、美術に関してはお金に無頓着にやりました。そうでないとこれ程のものは出来ませんから、覚悟を決めてやった。当時の映画人の心意気です。
                                       (以下明日に続く)


映写室 インタビュー20「花の夢」東志津監督(後編)

2008-06-12 07:54:17 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー20「花の夢」東志津監督(後編)
        ―憤りをそぎ落として残したもの―

(昨日の続き)
―今は子供さんたちも次々と日本へ来て、亡くなったご主人以外が日本に揃いましたね。

東:中国人は家族の絆が強くて、親子が離れ離れで暮らすなんて考えられない。お母さんが日本に帰るのなら自分たちも一緒に行って助けると決めたようです。でも一家の身元引受人がいなくて帰国は大変だった。それに日本政府からはお金が出ないので、中国の親戚からお金を借りたりして自費で帰国しています。まず栗原さんと娘さん2人が帰国して、翌年息子さんたち家族が来日しました。医者の方もいますし、左官職人だったり、皆中国でいい暮らしをしてたのに、全てを捨ててきたんです。

―抵抗は無かったんでしょうか。
東;多くは話されませんが、お子さんたちは複雑な思いでしょうね。辛い事もあったと思います。子供の学校とかあって今は皆さん日本国籍ですが、しばらくは日本国籍を取らなかったですしね。一番嫌がったのが、実は日本人のご主人との間に生まれた長男なんです。食事も中華が好きですし、外見も考え方も一番中国人っぽいですよ。
―私も映像を拝見してそう思いました。不思議ですねえ、血以上に育った環境がその人を作るのかもしれませんね。ところで大変辛い経験なので、お話を伺うのに気を使われたのでは。
東:栗原さんはあの時何があったかを話すのが、残された自分の仕事だと思っているので、栗原さんの話したいことを話していただいています。ただ私が行く事で疲れさせてはいけないので、訪問は短い時間で切り上げ回数を重ねて撮りました。最初はカメラを回しますと言って写し始めていたのが、慣れて来ると遊びに行ったついでにカメラがあったと言う風になっていました。

―作風にプロデューサーの伊勢さんの匂いを感じましたが。
東:作っては見せ作っては見せと、編集に1年程もかけ伊勢さんに色々アドバイスを受けました。最初は憤りを前面に出していたのですが、どんどんそぎ落としていったんです。この作品で大切なのはほんのちょっとなんで、それを見せる為に不必要なことは捨てたほうが良いと教わりました。栗原さんには恨み辛みもあるけれど、それが本質ではない。人が人を助けるのはきわめて個人的な愛情なんだと、それがあればどんな時代も人は生きていけるし命を繋いでいけることに感動したので、そういう風にして今の栗原さんがある事を伝えたいと思いました。
―ところで余貴美子さんのナレーションが絶妙です。しみじみと深くて心に響きました。ラストにお名前を見つけて納得したのですが、発案はどなたですか。
東:私がファンだったんです。でも面識もないし駄目だろうと思ってたら、やっていただけることになって。丁度余さんがドキュメンタリーのナレーション等をしたいと思ってらっしゃった頃で幸運でした。

―「花の夢」とは素敵な題名ですね。
東:皆さんあの頃の満州は花がきれいだったと、口をそろえて仰います。まだ未開の地が多く野原いっぱいに色々な花が咲いて、それを眺めるのが辛い日々の慰めだったのでしょう。若い方にこの作品を見てもらって、そんな時代を生きぬいた栗原さんたちの力と共に、忘れがちな史実を知って欲しいと思います。
―色々な事があったとしても、甦るのは野の花の美しい思い出と言うのが素敵です。栗原さんのあの穏やかな表情に繋がるのでしょうね。
東:栗原さんは部屋にご主人への絵手紙や写真を飾って、出来る限り一人で暮らしたいと、お孫さんたちの訪問を楽しみに、今幸せな時を送ってらっしゃいます。

<インタビュー後記:犬塚>
 ご自身の監督作品も含めて、何作か伊勢真一プロデューサーの作品を拝見しました。共通するのは制作者の思いは一歩引いて、被写体のさりげない日常を写しながら、共感のままに静謐さ、素敵さをクローズアップする手法です。東監督はいつもは「いせFILM」のお手伝いもされている、いわばプロデューサーの秘蔵っ子。身近で見聞きして、しっかりその手法を受け継いでらっしゃいます。高みからではなく、若い女性が80歳の方に年代を超えて持った共感と言う素直な視点のままに、栗原さんを描く手法が爽やかでした。こんな風に年老いたいと思わせる素敵な方です。国として何の保障もないのが申し訳なく、監督のそぎ落とした憤りを見るほうが覚えました。


映写室 インタビュー19「花の夢」東志津監督(前編)

2008-06-12 07:52:21 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー19「花の夢」東志津監督(前編)
     ―「中国残留婦人」と言う言葉を知っていますか?―

 どんな中でも凛と生きる人に光を当てる「いせFILM」の新作が届きました。今回の主人公栗原貞子さんは「中国残留婦人」です。3年間に渡る製作の裏側を東監督に伺いましょう。

<その前に「中国残留婦人」とは>
 終戦時に満州にいた日本開拓民は約27万人。元気な成人男性は根こそぎ招集されていたので、残っていたのは病気の人や婦女子です。全てが難民となり、飢えや寒さで約8万人が亡くなりました。何とか引き揚げた人もいますが、帰れなかった人はどうしたかと言えば、幼い子供やお腹の子供を抱えて、生き延びる為に中国人と結婚したのです。でもいつかは帰国できると信じていたのに、昭和33年の引き揚げ船を最後に日本と中国は国交を断絶。「中国残留婦人」となりました。日本政府は終戦時に13歳以上だった人をこう呼び、大人の判断力があるのに中国に残ったのは「自己責任」だとし、12歳以下だった「中国残留孤児」とは補償などでも一線を画しています。

<東志津監督インタビュー>
―この映画を作られたきっかけは。
東監督(以下敬称略):4年前ケーブルテレビの30分番組にするつもりで取材していた時に、偶然栗原さんの話を聞いたのです。私は「中国残留婦人」と言う言葉も知らなかったので、こんな事があっていいものかと憤りを感じました。それとこんな大変な経験をしながら、それを話す栗原さんは淡々として穏やかなんですね。そんないい表情をした栗原さんに惹かれたのがきっかけです。
―栗原さんは女学校を卒業した1944年に、成績、品格共に優秀だからと選ばれて、お国の為にとしかも8ヶ月経ったら帰れると信じて満州へ行ったのですね。
東:全国からそんな風に言って人を集めたようです。それも後になって解ってみると、父親がいると反対するので、母子家庭のような話をつけやすい人が選ばれたようですね。ただ栗原さんは軍国少女だったので、満州に行った事については、自分で決めた事だからと愚痴を言いません。昔の事を今更言っても仕方ないと思うのかもしれませんが、それよりは日本に帰ってきてからの冷たい仕打ちのほうが悔しいようです。国の為にと言われて行ったのに、結果的に昔も今も国は知らん振り。自分達は見捨てられたと憤りを感じるのでしょう。

―向こうで開拓団の青年とお見合いさせられたのですね。
東:国は最初からそのつもりだったんですが、本人たちは知らなかった。話が違うと思っても、遠くまで来て今更どうこう言えなかったのでしょう。男性のほうも夢を持たされて満州開拓へ送り込まれましたが、実体は貧しい農家の口減らしで、国境を接したソ連に対する生きた堤防の役目もあったと言われています。開拓と言っても、中国人の土地や家を奪うことが多かったのですが。で結婚して、ご主人はすぐ出兵してお腹の大きいところで終戦になるんです。
―終戦になって残された女の人たちが大きなお腹を抱えて逃げ惑うんですね。
東:自決した人もいますし、周りでどんどん死んでいますから、お腹に子供がいなければ生に執着しなかったかもしれませんね。何とかこの子だけは育てたいと必死だったようです。同性として、子供の為に全てを犠牲にして生きた事が身に詰まされました。そんな風にしてあの時代を生き抜いた人が、今私と同じ時を生きている事に感動します。

―考えてみると中国人のご主人も優しいですよね。自分たちを搾取した敵の子供がお腹にいる女性をもらってくれるんですから。
東:自分が助けないと死んでしまうから助けなくてはと。中国の農民も極貧で同じ様に困っていたので、難民の窮状を見て、悪いのは軍の上の方で彼らに罪はないと受け止める、大らかさがあったようです。ご主人も貧農で生きるか死ぬかの瀬戸際を潜って来てるので、二人の間には惚れたはれたじゃあない、大変な時を共に生き抜いた、もっと強い同士のような絆があるんです。栗原さんは中国人の主人が心のいい人だったからずっと一緒にいたと言いますが、だからこそ帰国事業が再開した時、命を助けてもらったご主人への恩義から、帰りたいとは言い出せなかった。でも栗原さんの望郷の思いを汲んで、ご主人のほうから日本に帰ったらと言うんですね。周りに何人かいた日本人の帰国が決まり、年を取って一人残されたら寂しいだろうと思いやったようです。 
                                            (続きは明日)


映写室 インタビュー18「ラザロ」井土紀州監督(後編)

2008-06-12 07:48:15 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー18「ラザロ」井土紀州監督(後編)
     ―怪物になったマユミの悲しみと絶望―

(昨日の続き)
―そこから続編へとマユミを更に掘り下げていった訳ですね。
監督:そうなんです。だから「青ざめたる馬」でマユミが町を眺めて広げる絵も、最初は関係無い物だったのが、「朝日のあたる家」のナオコの描いた物にして3作を関連付けたり、他にも辻褄が合わない所を撮り直しています。この作品は作り手の僕が動かしてるのではなく、まるでマユミに動かされる感じでここまで来ました。

―そんなマユミはこのまま終わるでしょうか。続きの構想は。
監督: 3部作の公開が始まったばかりでそちらが大変ですし、別の作品を撮り終わって今編集している所なので、すぐには考えられないです。でも、このまま終りそうにないですね、話としても。又マユミを撮りたいとは思うのですが、今はちょっとお休みです。
―ストーリー的にも偽札事件のほとぼりが冷めるまで、暫く大人しくしてそうですよね。
監督:そうですね。今動いたら手錠をされた刑務所から始まりますからね。もし次に撮るとしたら、今度は女が現れるといいかなと。今までは大きく言うと男が敵だったので、女が敵として現れないと、本当の意味でマユミが試されないと。虐げられた女がマユミに対して向って来た時、この3本とは違う物語が出来そうな気がします。

―なるほど楽しみですね。ところでこの3作を私は「青ざめたる馬」、「虚構の廃墟」、「朝日のあたる家」の順番で観たのですが、それは監督の指定ですか。
監督:マユミが生まれ巨大化していく時系列としては、「朝日のあたる家」、「青ざめたる馬」、「虚構の廃墟」の順番ですが、犬塚さんが観られた順番で上映して欲しいのが僕の希望です。作った順番ですから。
―マユミを作り上げた思考の後を探る順番でもあるのかなと、思ったのですが。
監督:そうですね、それもあります。一人の人間が放った、市民社会に突き刺さる悪意を作り手も一緒に探していったら、あの商店街にたどり着いたと。シャッターの降りた地方都市、あそこが全ての始まりです。
―マユミは学生運動世代の私を惹きつけましたが、前衛的な匂いは若者向きですし、先行上映した東京では若い方が多かったと聞いています。
監督:東京は若い人が多かったですね。勿論色々な年代の方に観て欲しいのですが、特に若い人に観て欲しいです。これからの映画を観る層が増えて欲しいですから。それと映画は作るだけじゃあない。上映までが大事な仕事です。若い人は作っても一回上映会をやってそれでお終いだけど、作ったら世に問いかけるのが大切。この作品の上映の形も含めて見て欲しいと思います。それに時代は繰り返しているんでしょう。マユミの抱える物は、正に今の時代の苦悩だと思うんです。学生は今の時代に閉塞感を感じてはいるけれど、どうしたらいいか解らないし、表現する言葉も持っていません。ただ物語はその逆説をやっているんですが。

―全ては表裏一体なんで、ここまで追い詰められたマユミ、それでも滲み出る愛や悲しみは、充分に伝わりました。私もそこに惹かれたんだと思います。ところで3作はどれも大変短い撮影期間ですが、テンポよく作るコツは何でしょうか。
監督:3本の撮影は全て試行錯誤でした。最初の1本はとにかく時間が無く、演じるのも会ったばかりの経験の無い人たちなので、僕がテンションを上げて引っ張り、「とにかく歩け、立ち止まらないで!」と指示を出し、カメラマンに追いかけてもらいました。ロケも許可の出てる所で撮影が出来るよう、そこからシナリオを作っていきました。2本目はシナリオがあってロケハンをしてと、普通の手順を踏んだんです。カット割りもある程度のプランからしています。でもこんな低予算映画でそんな事をしては上手くいかないと解りましたね。撮り残しも出ましたし。で、3本目はロケハンをして、ロケの許可が取れた所で撮影するよう脚本を作ったんです。これは効率的で良かった。低予算映画の一つの方法を確立したと思います。カット割りも3本目が一番しっくりいきました。

―最後になりましたが、監督からのメッセージを。
監督:この映画を作った頃より格差が広がり、映画の世界はよりリアルになって来た。ここにあるのは日本全国の地方都市に存在している問題です。今上映しているこの映画は旬だと思うので、ぜひ多くの方に観ていただきたい。

<インタビュー後記:犬塚>
 良いシナリオは表面の動きや台詞は文学的でも、骨格として理系的な理論だった枠組みを隠し持っているもの。「ラザロ」を観て、この3部作が巧みにその条件を満たし、なおかつ学生っぽい手作りの荒々しさを、魅力的に残している事に気付きました。それがなおさらに、マユミという怪物を生み出し、しかも絶妙の順番で上映させる監督への興味になったのです。この映画の魅力を一言で言えば、実力も実績もありながら未だに学生と共に未来を模索する監督自身の姿勢で、監督の優しさとこんな大それた事をしながらもマユミが内蔵する愛は、どこか重なって見える。インタビューを終えて、プレス用に配られたパンフの言葉がいっそう胸に迫ります。私がこの作品で感じたものは、そのまま井土監督の目指す世界だったのでした。以下に転記しましょう。

   愛であろうと、正義であろうと、
   映画においてポジティブな主題を打ち出そうとするならば、
   その作劇は、常に主題に対して否定的に展開されなければならない。
   主題とは、物語の中で逆説的に見出されるはずのものだからだ。

   共感よりも戸惑いを、安心よりも衝撃を、
   見る者の認識の鋳型にすっぽりと収まるものではなく、
   その鋳型をひっくり返すような、
   そんな作劇をこの「ラザロ」では目指した。        井土紀州


映写室インタビュー17 「ラザロ」井土紀州監督(前編)

2008-06-12 07:46:23 | 映写室インタビュー記事
映写室インタビュー17 「ラザロ」井土紀州監督(前編)
    ―マユミと言う怪物に魅せられて―

 久しぶりに荒削りさが心地良い刺激的な作品に出会った。主人公の「マユミ」と言うとんでもない女の論理が、すとんと私の胸に収まったのだ。そうか、こんな形の世界革命があったと目から鱗が落ちる。昔拡声器で「世界をぶっ壊せ!」とがなった黒ヘルの彼が、これを観たら何て言うだろう。彼女は題名の通りまるで「ラザロ」。
 この作品尖がった前衛なんだけれど、どこか懐かしくどこか暖かい。マユミを生んだのはどんな監督だろうと、無理にお願いしてのインタビューです。

(映像は先行上映のあった今年の京都国際学生映画祭の受付で、
学生スタッフと一緒の井土監督 10月13日

<その前に「ラザロ」とはこんなお話―3部構成になっている>
※「朝日のあたる家」篇―マユミの誕生―(81分)
 大型店舗の出現で、駅前の商店街は壊滅状態。マユミはその中の亡母の残した元洋品店で暮らしている。東京で絵の勉強をする妹への仕送りもあり、事務の仕事が終わるとスナックでバイト。そんな所へ挫折した妹が帰ってくる。マユミのフィアンセが大型店の勤めと知って怒り出す。
※「青ざめたる馬」篇―怪物マユミ―(40分) マユミは少女たちに金持ちの子息をたぶらかさせ、最後には殺して資産を巻き上げるという、奇妙な共同生活を送っていた。でも若いミズキは殺すはずの相手を好きになって、幸せを夢見始める。「何で!何で殺さなあかんの!」と震えるミズキ。
※「複製の廃墟」篇―マユミの孤独―(80分)
 首都圏一帯に偽札が蔓延して混乱している。ある日捜査中のベテラン刑事と新米の相沢は、初老の男が車に轢かれるところに遭遇。立ち去る目撃者を追う。ようやく追いついて日傘の中の女を見ると、相沢は一瞬で心を奪われた。そんな中偽札の実行犯が捕まり、取調べから意外な主犯の名前が挙がる。先日車で轢かれた男だった。

<井土紀州監督インタビュー>
―刺激的な作品でした。過去に遡る謎解きのような3作の繋がりが見事なんですが、最初から3部作の構想だったのですか。
井土紀州監督(以下監督):いえ、最初は「青ざめたる馬」だけですね。そもそもこの企画は、僕が2003年に京都学生映画祭の審査員を引き受けたことから始まります。学生から電話があって、「映画祭に上映だけじゃあつまらない。短篇でいいから一緒に1本映画が出来ないか」と言うんですよ。「止めとけよ、映画を作るなんて大変なんだから。時間もないし、作ってる途中で映画祭なんて事になるよ」と言うんだけど、やりたいと引き下がらないんですね。僕も意気に感じるほうなんで、じゃあ何かやるかと、学生達と一緒に考えてる間にこんなものが出来ました。
-と言っても監督がほとんどリードされたのでは。
監督:内容的にはどうしてもそうなりますね。それに映画を撮るといっても、素人ばかりでは技術的に僕も不安で、プロデューサーの吉岡を一緒に連れて来ました。資金も当然僕はノーギャラですが、弁当買ったりもこの中からなんで、映画祭予算の20~30万ではすぐ無くなりますから、僕らのスピリチュアル・ムービーズから出したりと。走り出すとどうしてもそうなります。

―その時すでに3部作までの構想はあったんですか。
監督:いやありません。最初の1本だけです。今格差社会がマスコミで言われますが、(色々な事が気持ちいい方向に行ってないなあ。日本の状況は大丈夫かな)という思いが常々あったんですね。で、そんな所から話が生まれて学生と考えてたんですが、何か足りない。キャラクターとしてマユミが弱かった。何故彼女はこの集団を人を殺すところまで引っ張っていけたのかと言うのが、もう一つしっくり来ない。色々考えてたら、東京から京都に向かう新幹線の中で、突然このマユミが降りて来たんです。

―実は私は最後の学生運動世代で、マユミの台詞があの頃と重なりました。「一回全部チャラにして、この社会を変えたい」と言うのも過激派が言ってたなあと。(監督はその年代だろうか、それにしては映画の調子が若い)と思って経歴を拝見したら、やっぱりお若いけれど、丁度この映画を作る前後の5年に、戦後左翼史を検証した「LEFT ALONE」を作られてますね。
監督:ええ、左翼の活動家に話しを聞いたドキュメンタリーです。丁度それを撮り終え、編集等をしてる時に京都からこの話が来ました。実は僕もそんな事は考えました。72,3年に東アジア反日武装戦線という所が、あちこち爆弾を仕掛けたでしょう。爆弾は無差別ですから、じゃあ替わりにピンポイントで偽札だったらどうだろうと。ある意味戦後左翼のパロディ的なものをやろうとも思いましたね。闘争的なマユミの台詞とかは「LEFT ALONE」のとき色々考えたのが、この作品で出てきたものです。ただマユミにはかっての様な、たとえば社会主義国家とかの理想はないんですね。いわばアナーキストで、あるビジョンに向かって歩いているというより現状の否定です。

―そんな発想からマユミが生まれたと。
監督:と言うか、もっと大元から話しますと、もともと僕は犯罪に興味があります。犯罪は今の社会を映し出しますから。この映画のヒントになったのは、北九州の看護士さんたちの殺人事件で、彼女たちは女だけで元の旦那や彼氏を殺して始末しているんです。犯罪は力がいるのでたいてい男が関わっているもんだけど、この事件は何処にも男の影がない。そこに時代を感じて凄いなと興味を持ちました。
―あ、だからあの事件のようにレズとかの話も出てくるんですね。
監督:ええ、そうですね。「青ざめたる馬」のマユミは、最初は生活の為に刹那的に犯罪を犯してる感じだったんです。でもさっきも言いましたが、そこに新幹線の中で降りてきて、「罪と罰」のラスコーリニコフ的要素が加わり、マユミが肉付けされました。ただマユミの理念を周りは解っていない。解ってはいないけれど、情緒的な物、彼女の中に何かを感じて付いて行くんですね。女たちが理解できないまま動いているのが、この作品のドラマ性だと思います。

―それでもまだ構想は最初だけですよね。残りの2作は後から考えたんですか。時系列も前後しますが、そんな方法は時々とられるのでしょうか。
監督:いや、僕も初めてですね。最初1作だけの予定のこの作品が続いたのは、僕の中と外部条件と理由が二つあります。最初の作品を撮り終わってこれを離れても、一度生まれたマユミが消えない。放って置くと自分の中で勝手に動き出すんです。(何なんだマユミは。これは続きを作れということかな)と、思っていました。そのうち、僕はあちこちでシナリオを教えているんですが、日大の学生に京都の話をしたら、「僕らも一緒に作りたい」と言うんですよ。でも「こっちはサークルだからお金も無いし無理だね」なんて言ってたら、彼らの自主映画の上映会があって、僕がゲストだったんですが、その打ち上げの時、そこに同時に来てたのが三重県の西村プロデューサーで、三重を舞台にした作品を作りたいと言うんです。学生たちも作りたいと言うし、ここで一気に2本が決まりました。西村さんは以前に小津安二郎の映画祭へ僕がコメントを書いたのを読んで、同じ県出身の若い人に地元の映画を作って欲しいと、僕に言ってきてくれたんです。まあそうは言っても酒の席の事で、こんな話はたいてい流れるんですが、どう言う訳か2本とも実現しました。
                                    (続きは明日)

 ※「ラザロ」―LAZARUS―は新約聖書に登場する貧民の名前で、
   死後4日目にイエスによって復活させられる。


映写室 インタビュー16「ヒロシマナガサキ」スティーヴン・オカザキ監督

2008-06-12 07:44:05 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー16「ヒロシマナガサキ」スティーヴン・オカザキ監督
     ―「あの日」への日米両側からの視点―

 久間元防衛大臣の発言もあり、このところマスコミで盛んに取り上げられるこの作品は、1952年ロサンゼルス生まれで日系3世のスティーヴン・オカザキ氏が、25年の歳月をかけて完成させたドキュメンタリーです。画期的なのは、日本にとってもアメリカにとっても都合の悪い問題が写っているところ。どちらの国もが目を背けたい自国の醜さです。だからこそ観なくてはいけないと思いました。
 
 監督の今までの作品は、自身のアイデンティティに起因する、日米二つの国に跨るものが特徴。「はだしのゲン」に衝撃を受けて1981年に始めて広島を訪れた時の作品は「生存者たち」(82)で、日系人強制収容所を描いた「待ちわびる日々」(91)はアカデミー賞ドキュメンタリー映画賞を受賞しています。
 戦後50年にあたる1995年に、スミソニアン協会で開催予定の原爆資料展が、アメリカ国内の猛反発で中止になった時は、日本でも色々議論されたもの。それに絡んで予定されていた氏の映画制作も、中止に追い込まれました。失意の中でもこの問題の映画制作を諦めなかった監督が、アメリカのHBOの援助により制作したドキュメンタリーが本作です。

<スティーヴン・オカザキ監督インタビュー>
―映画の冒頭の渋谷の街頭インタビューで、「8月6日」の意味を知らない若者がたくさん写りますが。
スティーヴン・オカザキ監督(以下監督で):最初、30~40人に聞いて、4~6割が正解だったら良いと思っていました。ところが最初に聞いた8人が誰も知らなかったので、そのまま映像に使ったのです。若者としては過去に邪魔されず前に進みたいのでしょう。逆にアメリカでは、「9・11」等があって、戦争は今の問題として受け取られるようになりました。日本は今転換期だと思います。若者は周りの文化で形作られるので、彼らの無関心は周りの親たちの責任。こんな作品で考え直す必要があるのではないでしょうか。
―監督はこの作品を作るまでどのように過ごされたのでしょう。
監督:日系人としてもアメリカ人としても、原爆の知識はありませんでした。そもそもアメリカでは広島出身の日系人社会はありますが、彼らにとっては原爆よりも収容所に入れられた記憶が大きいのです。でもこの問題に日系人の自分が挑んだのは、日米両方の視点を持ててよかったと思います。「はだしのゲン」を知人が英訳したのを読んで衝撃を受け、広島と長崎の原爆の問題に関心を持ちました。調べ始めるとさらに、被爆者が日本の社会の中でどんなに残酷に扱われているかに衝撃を受けたのです。

―日本は今、久間元防衛大臣の発言で揺れていますが。
監督:日本の政治は日本人にしか理解できないと思うので、私がこの問題について話す事は出来ません。ただ広島と長崎は政治戦略的に語られる事が多い。私の作品はそんな時に無視される人間性にこそ焦点を置いたつもりです。
―「しかたなかった」という元大臣の言葉はもちろん大変不適切ですが、率直に言いますと、この映画を見終えた時、大臣の言葉をものすごく好意的に解釈したら同じになる感想を、私も持ちました。というのもこの映画には当時の日本の凄まじい軍国主義が写っているからです。原爆を落とさせたのはある意味で私達でもあるのだと思いました。
監督:日本人の語る原爆は単独の問題で、第2次世界大戦と隔離しています。でもあれは戦争の中での出来事、一緒に語るべき問題だと思う。私がこの映画を製作するに当たって考えたのは、原爆のボタンを押したのはアメリカであると共に、押させたのは当時の日本政府でもあったと言うことです。アメリカ人のほとんどは原爆について認識がありません。知識のある人でも落とすべきでなかったと思う人も、落としたから戦争が終結したと思う人もいます。私の勝手な予想では原爆投下を正当化できる人が5割、出来ない人が5割の、反応は5分5分だろうと思います。

―日本人の私から見ると厳しい反応ですね。
監督:アメリカ人は原爆を話したがらないし、語ったとしても白黒の論争で終わることが多い。当時のトルーマン大統領の大変な災難が起こるかもしれないとの暗示に言及して、日本は警告されたのに無視したという人もいる。チラシを撒いたから日本人は知っていたはずだと多くの人が思っています。でも実際に僕が被爆者を取材したところでは、そんなチラシを見た人はいません。また日本人も、落下傘で原爆が落ちてきたと証言しますが、あれは米軍の観察機器を乗せたもので、原爆そのものじゃあない。両国で色々誤解があって、原爆の話が神格化されています。
―どうしてそうなるのでしょうか。
監督:アメリカ人の多くは被爆者について考えるのが精神的に耐えられなくて、論争に逃げてしまうのです。辛くてもまず命を落とした人達について知る事が大事だと思う。

―そういう意味ではこの映画には目を背けたくなるような凄まじい原爆の爪痕が写っています。原爆の投下された8月6日に、この作品が全米でテレビ放映されると伺いましたが、スミソニアンでの展示が中止になったのと同じ様な事態の心配はありませんか。
監督:この作品に協力してくれたHBOは、アメリカでもリスキーな番組を作る事で有名な会社なので、多分大丈夫でしょう。有料ケーブルテレビ局で3000万人が契約しています。家族で見るでしょうから、実際にはもっと大勢がこの作品を見るはずです。コマーシャル等で成り立っている会社ではないので、外からの圧力が無い。突然中止したら逆にHBOの名にかかわるでしょうから。

―作品の中の記録映像はどこのものでしょうか。初めてのものもあるようですが。
監督:記録映像の多くは日本映画新社(東京)が現地で撮影したものです。一度アメリカが没収しましたが、映像として優れており再許可が出ました。どちらがマスターで、どちらがコピーかは諸説あって解りません。当時一般には見せず化学者達に見せていました。挿入している核兵器の実験のシーンは本邦初公開ですが、映像の多くは今まで他の作品で部分的に使用されたものです。中にはアメリカの平和運動のピーク時に、テレビ放映で使われたものもあります。記録映像の多くは利用可能だったけれど、今まで他の監督が使わなかっただけ。実際カラー映像は残酷過ぎて私自身も見るに耐えなく、しばらくそのままにしておきました。使用するのに戸惑ったのです。HBOの方が勇気がありました。辛くて視聴者が途中で見たくなくなるとしても仕方が無い。監督として、そんな自己検閲をいれずに作ってくれと言われました。この作品が退屈なものであれば、そんなシーンで見る方が耐えられなくなるでしょう。これをハリウッド作品と同じ位に面白く作らなくては、映画として成り立たないと思いました。基本的に過去を題材にしたドキュメンタリーは退屈です。年配者を描くので、そこに若者を挿入して原爆のドキュメンタリーという主観を壊したいと思いました。皆が納得できるものを作りたいのです。

―撮影はどの位の期間でしょうか。
監督:初めて広島に行ってから25年間の分です。その間に500人の被爆者に会いました。と言ってもそれをすべて写している訳ではなくて、撮影したのは30人位です。被爆者のお宅に伺う時は、息子の友人のように訪れました。私が日系という事もあり、入りやすかった。またちょっと距離があるので、今まで日本人が遠慮して質問できなかった事も聞けたと思います。被爆者には語りたい思いがいっぱいありました。一人だけ、4人の兄弟がいて…と言ったきり話せなくなった人がいたのですが、その人も写し続けました。

―最後に、アメリカはあれほどの譲歩をして北朝鮮から核を排除しようとしながら、自国にはたくさんの核兵器があります。そのあたりをどう思われますか。
監督:私は政治家ではありません。映像作家なので言葉でそれを語る事は出来ません。でも作品に私の思いはすべて込めています。この映画を観て頂けばその答えも伝わると思います。

<インタビュー後記:犬塚>
 被爆国日本で「はだしのゲン」は若い世代に伝わっていません。被爆者が高齢化する中、今残さなくてはの思いを込めて、14名の方々が苦しい体験を語っています。又実際の原爆投下に関与した4人のアメリカ人の証言もあります。それに貴重な記録映像を交えた本作は、日本だけではなくアメリカの視点も入れた、双方向からの問題を投げかける作品。ぜひ御覧下さい。


映写室 インタビュー15「ひめゆり」柴田昌平監督

2008-06-12 07:41:41 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー15「ひめゆり」柴田昌平監督
     ―生き抜いて初めて語る「ひめゆり」の真実―

 戦後の繁栄を甘受し続けて、気が付くと今誰もが、あの戦争前夜の様な嫌な予感がすると言います。と言って、どれ程の行動が出来る訳でもないのですが、せめて戦争とは何かを体験者から聞き、一人一人が「反戦」の思いを強める事が大切なのではないでしょうか。この夏、あの戦争の渦中にいた人々が、重い体験を証言するドキュメンタリーの秀作が揃いました。順番にご紹介しましょう。初回は「ひめゆり」です。

 第二次大戦末期、沖縄では住民を巻き込んだ激しい地上戦になりました。当時15歳から19歳の女学生達も、突然の動員で「ひめゆり学徒隊」として、野戦病院で働くことになります。そんな女学生達を題材にした作品は、今までもたくさん作られてきました。でもこんなもんじゃあない、肝心の事が描かれていないと当人達は憤慨する。自分達の間違ったイメージが、他者の想像で勝手に一人歩きするのを見ながら、あまりに重い経験に誰もが口を閉ざした年月でした。
 今や生存者もほとんどが80路、この記憶を語り継がなくてはと、今度は本人達が立ち上がったのです。依頼を受けた柴田昌平監督は13年の歳月をかけ、生存者22人の語りたい思いをじっくり捉えました。「ひめゆり学徒隊」の生存者との出会いや、この映画についてお話を伺いましょう。

<柴田昌平監督インタビュー>
―「ひめゆり」との関係は何時からでしょうか。
柴田昌平監督(以下監督):僕は最初NHKに入って、沖縄に四年程いました。そこで生のトーク番組を担当したんですが、生意気盛りで失敗しました。結局自分は短時間で番組を作る力は無いと思って、4年で辞めて民族文化映像研究所に入り、農家に泊り込んでじっくり話を聞くような仕事の方向に変えました。また沖縄放送局時代に、先輩がひめゆりの人達の歌を録音するので、使い走りの様な事をして皆さんとも面識が出来ていたんです。妻が沖縄なのもあるし、昔の失敗から宿題を残した気持ちもある。そんな所にひめゆり記念資料館が出来ました。 94年にそこで流す20分のフィルムの製作を依頼されたのが始まりです。

―で、20分のドキュメンタリーを作られたと。
監督:テレビだと誘導尋問的に良い言葉を引き出そうとするのですが、それは止めよう。小母ちゃん達が話し終わるまで撮り続けようと思って、120時間証言を撮り貯めました。と言っても、最初は映画にしようとかは思ってなかったんです。でもこの3年位で皆さんが会う度に小さくなっていく。病気になる人も増えました。小母ちゃん達の目の黒いうちに見せてあげたいと、2006年に文化庁の基金を貰って映画の形で区切りをつけました。
―宿題を果たそうと思われたと。
監督:初めて沖縄に行った時は内地の人と言われ、後で気づくと彼らに悪気はないのですが、疎外されてるように思いました。僕にもあの戦争で沖縄を自分達の犠牲にした様な、後ろめたい気持ちがあったんですね。でもひめゆりの人達ですらそんな事は思っていません。ひめゆり学徒だけでなくあそこにいた本土からの兵隊も、捨石として弱い人達が派遣されています。大事にされない者同士が助け合って生き抜いたのが実態。沖縄と本土は切り離した話ではない、戦争の中の縮図だなあと思いました。

―皆さん辛い記憶の場所に行かれての証言ですが。
監督:自宅で聞くと日常を引きずりますから。戦場跡へ行く事自体皆に決心が要ります。今まで誰かを案内するとかの止むを得ない事情以外で、自分で行ったのは石川さんだけでした。でも沖縄では死んだ人がその辺にいると言うんですが、その場所に行くと記憶が甦って皆さんどんどん話をされます。尽きなくて、話したい事がこんなにあるんだと驚きましたね。自分は死んだ友達に生かされていると、22人の人が全て言いました。そんな思いに力を貰って話せるようになったんだと思います。
―話すのもお辛いのでは。
監督:今まで話せなかったのが、60を越えてやっと話せるようになったのでしょう。僕も最初の頃は夜寝ると、昼間聞いた話を思い出して辛かったですね。でも小母ちゃん達が話せて嬉しかったと言うので、こっちも嬉しくなって。ひめゆりの証言は一部の人からは大変な非難を受けました。死んだ人が助けてと言ったのは嘘で誰かに操られているんだろうとか。今教科書からの削除で問題になっている、青酸カリや手榴弾での集団自決とかも軍の関与を証言していますね。映像は観客の想像力を信じて、小母ちゃん達の言葉の力を信じて、演出を排除しました。証言が終わると噛みしめるシーンを入れています。

―ご覧になった皆さんの反応は
監督:喜んでくれましたね。「ようやく自分たちの映画が出来た。有難う御座います」と何処かのインタビューで話しているのを聞いて嬉しかったです。何しろ本人たちが話さないから、沖縄でも「ひめゆり」の実像は歪められてばかり。27歳のカメラマンなど「ひめゆり特攻隊」と覚えていました。半分は知らなくて、半分は特攻隊とかそんなとんでもない話になっています。それと小母ちゃん達が一番嫌がったのが殉国美談にされる事でした。戦場の再現もあんなもんじゃあないと言いますし、何より今までの作品にはあの解散命令が無いんです。本当の悲劇はそこからですから。沖縄での最初の公開時に小母ちゃん達が切符を1000枚売ってくれました。2週間で3300人以上の人が観てくれたんです。証言をされていない方も観に来て、後で電話を呉れた人もいます。映画にはならないけれど、そんな人達の話をもう少し聞けるかもしれません。

―家族にも話せない事を監督に話されたというのは。
監督:あまりに辛い事はかえって身近な人には話せないんでしょう。それと今だからというのが大きいと思います。自分達が生きている間に伝えなくてはという思いがあるんですね。聞く人がいなかったのもあると思います。この映画を観た娘さんが「お母さん話してない事が一杯あるでしょう。話して」と言ったら、母親は黙り込んだそうです。おそらく誰もが全ては話していないんですよ。僕が聞けなかったもっと多くの事をいつか話されるかもしれません。

―沖縄というと方言がきついのに皆さん綺麗な標準語ですね。
監督:ひめゆりの皆さんは一番標準語教育が厳しい時に勉強されているんですね。しかも師範学校だから余計だったんでしょう。当時は自由に出れなかったのもあるのでしょうが、証言者は一人を除いて皆沖縄に住みました。その一人はご主人が教師で、米軍支配下で仕事をするのが嫌だと言って東京に出ています。
―誰もが深みのある良い顔をされ、こんな経験にも拘らず戦後を立派に生き抜かれたんだと、それが救いでした。それに皆さんがお洒落をなさっててお似合いなのも、心の余裕を感じて嬉しかったです。
監督:そう言って貰えると嬉しいですね。ただあれは賛否両論で、戦争の話に相応しくないと言う人もいました。でもこの映画はひめゆりの小母ちゃん達自身の映画です。その時の後遺症が体に残る人もいますが、それは写していません。小母ちゃん達が嫌がるものは写したくなかった。生き残りながら証言を聞こうにも聞けない、戦後に精神の異常をきたして自ら命を立った人もいます。そんな過酷な記憶を抱えて生き抜いた小母ちゃん達の、恨み節の無い明るさと生きる力を、この映画で感じて欲しいのです。

<インタビュー後記:犬塚>
 小母ちゃん達をそのまま受け止める監督の穏やかさ。だからこその証言だったのだと思います。挿入される沖縄出身のCoccoさんの歌も素敵ですよ。
6月23日「沖縄の日」は、今年から俳句の季語にもなりました。




映写室 会見編14(紙屋悦子の青春・主演二人の会見)

2008-06-12 07:38:44 | 映写室インタビュー記事
映写室 会見編14(紙屋悦子の青春・主演二人の会見編)

 黒木監督の遺作「紙屋悦子の青春」は、各地で絶賛上映されています。其れにちなみ主演の原田知世さんと永瀬正敏さんの共同記者会見がありました。その様子をお知らせしましょう。
            (9月3日 ホテル阪急インターナショナルにて)
Q:この映画の感想を一言でお願いします。
原田知世さん(以下敬称略):素晴らしい脚本と監督に出会えて嬉しかったです。
永瀬正敏さん(以下敬称略):全く同じです。凄い本に演出だなあと思いました。
Q:凄いとどんな所で思いましたか。
永瀬:そのものを現さないですべてを想像させる力に圧倒されました。例えばお芋がすっぱいとかでも、当時の事情、紙屋家の事情等々相当のことが思い浮かびます。これは簡単にはいかない本だなあと。気を入れてやらないとと、身の引き締まる思いでした。
原田:同じで、言わない言葉の重要さを感じた所です。

Q:監督の訃報をどう思われましたか。
原田:2月にお会いした時とてもお元気で「じゃ又」と言われたので、知らせには本当に驚きました。
永瀬:「えっ!」と一瞬意味を理解できなかったです。僕は打ち上げ以来お会いしてないのでよけいに絶句しました。同郷(宮崎)の先輩として尊敬してましたし、もっともっと勉強したかったので残念です。

Q:監督の演出は如何でしたか。
原田:監督から細かい演技の指示は出ません。逆に「如何でしたか」とこちらの感想を聞かれる事のほうが多かったのです。監督が現場にいると安心感がありました。全体に抑えた演技が多いのですが、1ッ箇所悦子が感情を爆発させるシーンがあって、監督から此処は思いっ切り熱くやって欲しいとまっすぐ目を見て言われたので、その通りに思いっ切りやりました。
永瀬:細かい指示はないんですが、駄目だと「もう1回」と言われるんでそれで駄目なんだなあと解ります。こちらが出来るまでじっと待って下さる。懐深く泳がせていただけました。
Q:黒木監督は今までと違って力の抜けた演出でしたが、其れについてはどうですか。
原田:サングラスの奥の目が優しかったり厳しかったりでした。よけいなプレッシャーを与えず本番に集中力を高めさせる監督でした。背中が印象的で細かい事を言われないだけ深さを感じました。
永瀬:笑顔で見つめられたり、厳しい目で見つめられたりだったと思います。

Q:ここまで感情を抑えた作品は珍しいと思うのですが如何ですか。
原田:時代背景もあるのでしょうが、台本に書かれていない心の言葉がとても多いんだなあと気付きました。最近のものではないのでそのような作品に当れてよかったです。
永瀬:時代性や人物の性格もあるのでしょうが、同じく行間の豊かさがとても勉強になりました。深い本です。

Q:悦子さんについてどう思われますか。永与についてはどうですか。
原田:20代と言う設定でずいぶん年下を演じたのですが、悦子はとてもしっかりした大人だと思います。今のこの年齢で役と出会えてよかった。自分がその年齢の頃だったら出来なかったと思います。例えば、順撮りだったのでどんどん感情移入して、役に引き込まれていきました。だから出撃する明石を送る時に笑顔でお体を大切にと言って見送るのですが、どうしても涙ぐんでしまってそれが出来ない。とうとう監督に時間を頂いて撮影を中断し、自分の気持ちをクールダウンして何とか取ることが出来ました。
永瀬:僕もずいぶん年下の役ですが、精神年齢では一緒だと思いました。当時の若者の気分を知ろうと軍事行動の指導をしてくださる方から色々聞いて、当時の若者のことを知り気分を高めました。

Q:病院のシーンは如何でしたか。
原田:それまでの情感がこもる様最後に撮りました。本を読んだ時は別の人がやると思っていたら、監督から自分が老けメークでやると聞いて、役を引き受けるかどうか一番悩んだ所です。いい人生を送った風に撮りたくて、メイクさんに何度も工夫してもらい、カメラテストを何度もしました。
永瀬:僕も原田さんと同じ様に別の人がやると思っていたので戸惑いました。でも監督の同じ人の一生は同じ人がやるんだと言うのを聞いてなるほどそうだなあと納得しました。
カメラが近づいて舐めるように撮りますし、大変でした。やり過ぎてもコントのようになって駄目なので、悩みながら静かに落ち着いてやりました。
Q:今「時をかける少女」がアニメになってかかっていますが、同じ名前で登場するのをどう思われますか。
原田:ずいぶん長くこの仕事をやってるんだなあと思いました。アニメも観てみたいと思います。

Q:ご両親はこの映画にお出になることについてどう言われましたか。
原田:母が被爆していたり、父親が監督と同じ宮崎県出身だったり、役との出会いを運命的に感じました。両親も喜んでいます。身を引き締めて精一杯取り組もうと思いました。作品としても素晴らしいので、ゆっくり浸透して観てもらえれば良いなあと思っています。
永瀬:両親はこの映画の世界には少し年齢が合わないのですが、「美しい夏キリシマ」の少年と自分の父親が同じ年齢で重なるのです。世界観は解ります。この映画のような世界をやらせてもらえて両親も喜んでいますし、自分も嬉しいです。市井の人々の暮らしで戦争の悲惨さを訴えると言うさり気無さがより僕の好みです。とにかく感動しました。

会見のレポート
 原田さんも永瀬さんもこの作品に参加した事を大変誇りに思っていらっしゃるようです。作品の完成を待って逝かれた監督に戸惑っている事がよく伝わってくる会見でした。又、この作品の脚本と演出の、そのものずばりを言わず、余白を大事にする手法に敬服されてもいたようです。お二人とも何度も「手ごわい本だった」、「深い本だった」、「自分の力を試された演出だった」と繰り返されました。それが印象に残っています。
 原田さんはベージュのオーガンジーを重ねた淡いドレスで、長い髪のウエーブも柔らかく、登場するとまるで妖精の様。本当にお綺麗です。永瀬さんはモード系のファッションでした。黒いスタイリッシュなジャケットとパンツで、映画の世界とはまるで違う雰囲気。お二人とも立っただけで原田知世、永瀬正敏のオーラと世界があります。ただ、それ以上に俳優としての素材の部分も見えて、その透明感に驚きました。刺激的なのです。何かいじりたくなる様な。それが多くの監督の創作意欲を刺激するんだなあと、映画界でのお二人の活躍を納得しました。
 よく身近な映画人から、「俳優と言うのは、人という目に見えないものを創る最高のアーティスト。容姿だけでなくそんな点でも並みの人間の出来る事じゃあない。架空の人格を創るんだから、形のあるものを創るより数倍難しい。」と聞かされますが、それを思い知らされた会見でした。(犬塚)