文中、こんな表現が…
そもそもなぜ日本人はゴッホが好きなのか。
なぜそこまで印象派や後期印象派の作品に惹かれるのか…と。
これは浮世絵を含む日本美術が、印象派の画家たちにとって
大きな影響を与え、やがて現代アートの源になった。
つまり日本美術のDNAを、画家たちが受け継ぎ、
作品へと昇華した。
同じものが体内に流れているのだから
好きにならずにはいられないと…語る。
画家ゴッホも特別に日本が好きでしたと。
日本に、そしてパリに憧れ続けたゴッホ。
誰にも受け入れられずに失意のうちに亡くなった。
孤独と戦い苦労の絶えない人生だったかもしれない。
けれども、結果として、
ゴッホはパリにも日本にも受け入れられている。
ここで 所謂「浮世絵」
ヨーロッパで世間に人気の浮世絵は、日本では反応はありませんでした。
というより、輸出用の陶器類を包む柔らかな紙が重宝されヨーロッパに
おいて、その魅力を発見されていたのです。
現在考えると 「え、そんな馬鹿な…」と、悔しい思いですよ。
だって、歌川広重の「東海道五十三次」
写楽「役者大首絵」
歌麿「美人画」
北斎「富岳三十六景」 などなど…
{神奈川沖浪裏} 葛飾北斎
紙くず同然のだったのが~ 市場に登場して以降~
結果、垂涎の的の日本の美術品になっていったのです
作者は 小説の1点1点 ゴッホとの対話をこころみながら
「きっと、こういう気持ちで描いているんだなぁ~」と
そんな思いを感じ取りながら 行を進め書き終えたと…。
そうしたゴッホの日本に対する思いを面白く展開していくために
格好の日本人林忠正が重要になってきたのです。
いや、むしろ、この物語の主人公は彼なのです。
そして、彼一人ではと思ひ、架空の人物「加納重吉」を登場させ
まるで歴史的事実のような傑作をひねり出し読者を誘っていくのです。
「林忠正ってこういう人です。
1853~1906 明治時代に活躍した日本の美術商。富山県高岡市出身。
1878年に渡仏。
多くの芸術的天才を生んだ19世紀末のパリに本拠を置き、オランダ
ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカ、中国などを巡って
日本美術品の販売ばかりではなく日本文化や美術紹介にも努め
研究者の仕事を助けたり、パリ万国博の日本事務官長をも務めた。
その文化的貢献に対し「レジオン・ドヌール3等章」を贈られた。
また「浮世絵」カラヒントを得て新しい絵画を創りつつあった印象派
の画家たちと親交を結び日本に初めて印象派の作品を紹介した。
と、 かなりの凄腕の方だったんですよ…
*当時として 会話力は抜群で特にフランス語は堪能だった。
この会話力と、持ち前の積極性が商売に大いに役に立ち
パリでの画商としての才能が開花された。
画家と医者は長生き? なんて言われますよね。
確かに、画家には クロード・モネ
パブロ・ピカソ
などそれこそ
死ぬまで筆を話さなかった・・・ってね。
しかし、ゴッホ 彼の生涯は37年という、当時から考えても
短いものでした。
画家を志したのは27歳。それから亡くなるまでの時間は
たった10年です。
うち、私たちが「ゴッホ」と聞いて頭に思い描く絵は、32歳で
パリに出て以降の約4年間に描かれたものでした。
1890年 7月29日 オーヴェル=シュル=オワーズにて永眠。
ここには この地に墓があり 弟レオと一緒に眠っています。
本名 フィンセント・ウイレム・ファン・ゴッホ
1853年 オランダのズンデルトという地方都市で生まれる。
父のテオドルスは牧師で、母のアンナ・コルネリアはハーグの
豊かな家庭出身。
五人兄弟の長男として育ちます。
続きは明日