黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

宇原神社玉垣の歌と句

2020-07-26 | 日記
昨日、午後からコロナ禍の為開催が中止になっていた
   「かんだ郷土史研究会」・・・久しぶりの例会がありました。

 本日のテーマは「宇原神社玉垣の歌と句」で
   行橋(美夜古郷土史学校会員)の横山英男氏の研究の成果を
  聴かせていただきましたので・・・皆さんと一緒に。

宇原神社といえば町内では神幸祭「苅田山笠」でお馴染みの神社です。
今回はその神社の「玉垣の歌と句」なんですが・・・
 「玉垣」って、ご存じですか?

 玉垣(たまがき)=神社・神域の周囲にめぐらされる垣のことである。
         瑞垣(みずがき)ともいう。  (ウイキペヂア)より。

 ということで、今朝 早めに宇原神宮まで写真を撮りに行ってきました。

  ◆本殿を囲む玉垣
           
 
  神宮の駐車場へ入る前あたりからの周囲
 ◆境内を囲む玉垣
          
         

  今日の話の「宇原神社」の参道を歩いて池の端を渡るとすぐに境内を囲む
 玉垣の入口に。 
   右側の親柱は 苔か、石の変色か? はっきりとは分からないが・・・
         
    一字一字なぞっていくと・・・・
       旧字体もあるので 判読しにくいので  
  渡された資料より  私が「手書き」し、写したものをアップします。
         
            
  という和歌が・・
 「一行目 
    
    
     
  
 『日本書紀』によれば、宇原神社の主祭神である
  「ウガヤフキアエズノミコト」は出生の際、鵜の羽と茅で葺いた産屋で
 出産するはずが、まだその屋根を葺き終わらないうちに生まれたので、
 母である豊玉姫によってこの名が付けられたとされる。

  ちょこっと・・・
  苅田町の「豊玉姫」は こんなに可愛いの?
       

 つまりこの親柱の和歌は、日本書紀に書かれた名の由来、出生時の物語に
触れ「鵜と羽と茅で葺き終わらないうちに生まれてしまわれた神が鎮座まします
宮が、まさしくこの宮である」と、「ウガヤフキアエズノミコト」を主祭神とする
宇原神社を称えたものと考える。

  歌の下に刻まれた「橘園」の文字は作者の号であろう ?
      

  北部九州周辺で「キツエン」の号を持つ歌人を調べたところ、
該当するのは下関の白石正一郎ただひとりであった。
  なぜ宇原神社の玉垣に白石が歌を献じていたのか?
  そして白石正一郎とは どんな人物なのか?

左側の親柱にも句が
 「踏み分て見れ婆(ば)尊し神の道」五七五の定型で、
 「踏分け」(落ち葉を踏み分ける晩秋の季語)を含んでいるから、
 現在の俳句のようであるが、この句が作られた明治十年代では未だ
 俳句という語はほとんど使われておらず、連歌や俳諧連歌の発句(ほっく)
 から独立した「俳諧」と呼ばれていたものであろうか。
  この句には作者名が刻まれていないが、右側と左側の親柱が一対なので
 右側の歌の作者「橘園」の作であろうと推定される。

横山氏は、
この句は明治初期までは各地の主要な神社で社頭連歌が行われていたから、
これはその連歌の発句ではないかと気が付いたそうである。

ちょっと横道に入りますが・・・NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公
 明智光秀が、「本能寺の変」の前に 例の愛宕山威徳院で里村紹巴をはじめ
とした連歌の会を催した・・・そのときの光秀の発句が 有名な・・・
     「ときは今 あめが下しる五月かな」
 脇は  「水上まさる庭の夏山」
 紹巴が 「花落ちる池の流れを せきとめて」
  
   主人織田信長の殺害という? 有名な句  ご存じでしょう?

 そういえば、コロナ禍でドラマも・・・もうすぐ再開でしょう。
  きっと、ドラマの中で この1句は 取り上げられるのでしょうね。

 さて、話を戻して・・・作者って?
   話を聞いて・・・意外な方でしたよ、歴史好きな私にとって。
 この白石正一郎が出てきたので・・・このブログアップをしたいと思った。
 
 幕末から明治維新にかけて必ず登場するのが・・・
  坂本龍馬     西郷隆盛    高杉晋作
        

 などは有名ですが、実は 彼らの活躍の影で、
いろいろとこの白石正一郎(下関の回船問屋小倉屋の長男)という人物が
彼らをはじめとする人々を迎い入れて宿泊をさせ、交流や活動の拠点とし、
更に活動の資金も援助するなど裏方として彼らを支えた豪商なのです。

またなかなかの素養人で、「記紀万葉」などの古典を学び、和歌の面白さに目覚め
 「橘園」という号で「松のおち葉」という歌集も著している。
商売の上では、薩摩の物産を交易しようと西郷にあって薩摩藩の御用商人と
なり、薩摩問屋と呼ばれるようにもなった。
 
 さらに文久3年6月18日 白石邸で高杉晋作が奇兵隊を結成。
       
 正一郎は、弟と共に入隊して隊の会計方を務めた。
 その後、晋作の推薦により士分に取り立てられた。

  元治元年(1864) 12月15日
   奇兵隊が功山寺で挙兵・・・明治維新へと動き出した。
      
         高杉晋作の像
        

 さすがの白石も慶応元年には私財が尽き・・・倒産状態に・・
 その後、大きく 新政府は動き始め、彼に政府の役職の勧誘があったが
 断り・・・最後、「赤間神宮」の宮司に就任した。
         

 「橘園」と宇原神社との関連は、
彼が赤間神宮の宮司に就任して間もなく、
翌年の明治11年頃、苅田の宇原神社の玉垣と参道の新設計画が立てられ、
近隣各所に寄付を募る通知がまわされたものと思う・・・横山氏。
 (玉垣に刻まれた寄進者の住所が広い範囲に広がっていることからもわかる)

赤間神宮の祭神は安徳天皇
 宇原神社の祭神は「ウガヤフキアエズノミコト」であるが、初代神武天皇の父
であるから安徳天皇の遠祖にあたる。
 天皇家の神を祀る神社同志の縁でお互いに近い交流があったと思う。
そういう縁で、白石宮司は宇原神社をたたえる和歌一首と、発句1句を寄進した
ものと推定される。
 しかし残念なことに白石正一郎は工事が完成する僅か1か月余り前に死去。
この句と歌は 最晩年の作と言える。

        壮大なドラマ・・・ですよね。

話をもっと突っ込んでいけば・・・維新のドラマや 平家の清盛まで・・・
  そうでしょ、安徳天皇といえば 例の壇之浦ですよ・・・
        僅か8歳、かの急流に身を投じ・・・
  そして赤間神宮に祀られる。

  父 平清盛まで引き込めば・・・平家物語の件までにも

 ああ、歴史って 面白い!
   横山さんの長年のご苦労  勉強になりました。

ただ ぶらりと観光・・・なんて言わないで、一つの歌碑・石碑、石詞、狛犬
 鳥居だって・・・きっと それなりの「面白い話」 「曰く因縁話」って
 まだまだ、たくさん出て来そうですよ~   
        コロナのこの今日明日 
 じっくりと 「歴史」に浸かってみるのも なんだ かんだ発見がありそう!

 そうそう 私 今 新しい展開を待っているのが 「秀吉」の数々です。

  近頃 頻繁に 新しい発見が・・・こんな

  ◆晩年 豊臣家の権威託したか・・・秀吉「幻の城」京都新城
       幼き秀頼のため? 御所そばに美しい石垣
    天皇の御所のすぐそばに築いた最後の城が、約400年ぶりに
    姿を現した。

  ◆秀吉の橋 琵琶湖で変身?
        大阪城の極楽橋を移築した可能性が高い 

  ◆秀吉から清正へ 朝鮮出兵命じる朱印状
        「文禄の役」で清正が出兵する直前のもの

  ◆秀吉信仰原点? の木像
      江戸時代に作られた国内最大の「木像豊臣秀吉坐像」
        秀吉信仰が大阪でもあったことを示す初めての文献
  
 
  などなど なぜ 今頃?
    きっと 何かがあり、何かが発見され
      歴史の1ページが 変わる。
         それを 期待しながら・・・ 次のニュースを。


   
コメント
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。