黄昏どきを愉しむ

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まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

中津城物語

2016-06-28 | 日記・エッセイ・コラム

歴史研究会のバスは 中津城に向かう。

 ここ中津城についての研究会の5月例会で

「中津城を知る」というテーマで受講した。

数十年ぶりに中津の地を踏んだ。

懐かしの中津である。 当時(昭和37~39年)小倉勤務

営業の仕事でここ中津には随分来たものだ。

しかも、会社支給の営業用ホンダのスーパーカブに乗ってだ。

小倉から中津までは 大変だった 今は 思い出。

さて、中津城と言えば、大河ドラマ黒田官兵衛で一躍人気上昇!

京築一帯が話題になった…

戦国時代の、一番面白い背景の中にあり、この城が 黒田~細川~

小笠原~奥平家と九州歴戦の武将たちの物語の

 主人公でもある。

 そこには、天下人 「信長」「秀吉」「家康」とのからみも

この城の物語を面白くさせているのです。

 歴史愛好家にとっては、ただの「城」ではなく、九州戦国時代の歴史

を俯瞰できる…そんな役割を持っている。

 

 研究会では、黒田時代の「石垣」について焦点を絞っていましたが

私としては「城」「石」=物 (石垣構築技法)だけではなく

中津城の長い歴史の「人」に興味を持って 今日はアップしてみたいと。

1871年(明治4年)に廃藩置県により中津城は廃城。

その後、西南戦争で五点が焼失、昭和39年旧藩主が中心となり中津市民からの

寄付も合わせて天守閣が建造された。現在の中津城です。

 現在では、この城も運営会社により「中津のシンボル」として多くの人に

愛され守られ 観光名所として人気が高く 昨年は大いに賑わった処。

  話を ず~んと昔に戻そう…

天正3年(1575年)三河山間部の小豪族だった「奥平家」が世に出て来た。

その訳は? 織田・徳連合軍が、武田勝頼と歴史的な「長篠設楽ケ原の戦い」

で家臣である鳥居強右衛門の決死の活躍で、

信長公より、 その武勲を讃えられたのが第二代の貞昌公です。

この時、信長公から「信」の一字を貰い、名を「信昌」と改める。

また徳川家康  の長女亀姫を娶り、

幾多の戦果を挙げ続け徳川幕府創設のため大いに貢献をする。

その後も徳川家御連枝として譜代の名門の地位を確固たるものにした。

 ここで 城の展示物を眺めていて 珍しいものを見つけました。

先日、実は地域の活動で「いきいきサロン」の講話の際に

「この屛風は、ヨーロッパの古城に隠されていた」というタイトルで

「豊臣期大坂城図」が発見された話をしたばかりなんですが…

 この中津城の展示の中に なんと「長篠の合戦図」があったのです。

  これは 面白い。

 とにかくこの「長篠の合戦」逸話は いまだ決着がついていない。

 まぁ、研究者として歴史の真実を語る という学者でない私としては

 物語を面白く聴かせるには、通説でもまぁ いいのではと思っています。

 

 さて この戦いは 登場する武将も 凄いよ、

 だって時の 話題と実力を総なめにしている織田信長が率いる軍勢ですから。

 次の天下人になる秀吉、家康はもちろんのこと その他名前を挙げれば…

 絵は こんな風に 一部をトリミングしてみました。

 

 

  合戦の全図 六曲屛風

 その場面 2番目 に 敵将 「武田勝頼」 大 という幟の元

 (クリックして拡大で)

 左端画面  織田信長公    瓢箪が目印の豊臣秀吉

       

 そして 長篠城の奥平貞昌公

  これが奥平家の家紋 

 図中 左端に幟が描かれていますね。

長篠の合戦といえば、「三千丁の鉄砲」 という話

 真偽のほどは? 今も いろいろ…

 この鉄砲は 

  当時の鉄砲 

  *考えてみれば 鉄砲三千丁 途方もない数ですよ 当時としては。

 まぁ、戦いの状況を面白くするには このくらい大きな話もいいかな?

 

 さらに こんな珍しいものを発見 流して歩いていたら 分からないよ。

 徳川家康の書簡署名入り

  この書簡は、説明によると 小田原の北条氏を攻める際に豊臣方の武将

たちへの「軍律」について こまかく箇条書きに徳川家康本人が書き、花押を

押したもの…真筆だそうです。

 *この戦いにも 黒田官兵衛が北条氏を説得するため、自ら肩衣袴(かたぎぬばかま)

  で刀を持たずに小田原城に入り、北条氏政・氏直父子と対面し、無血開城を導く。

 歴史って、こんな風に 「残っている物」と、関係する人物で 広がっていき

 また 新しい 別の物語に繋がっていく…ここが面白いから

  だから、 展示物には 興味を持って 探し、 眺め、 理解する。 

 ここが肝心なところかな。

  

  家康 本人のいろいろの花押

     

 

 「中津城」の歴史は秀 吉の天下となってから始ります。

 天正15年に黒田孝高(如水)は秀吉の命により、豊前6郡12万石を拝領

           翌年この城を築く。  

 *この城は 地形が北より南方に扇状をなしているので、別名「扇城」という。

  また、本丸石垣、内濠は当時のままで水門より海水が入って潮の満干で濠の水が

  増減している「水城」なんです。

  濠は静かに 水を讃えて…

 黒田と言えば「縄張り」に長けていたとのこと。

 この城築城に際しても 遺憾なくその力を発揮し、最先端の技術を駆使して造営している。

 「算木(さんぎ)積み」(角石は、石の長軸を交互にふる積み方)

  写真のように、角が綺麗に揃っている。

  張り出している角を出角という。

 黒田時代、石垣の幅は狭く、高さも低かったそうで、石垣を解体すると

  飛鳥時代の「唐原山城跡」の石を移設し川沿いの石垣を構成している。

  また、古い時代の石垣や排水溝などが発見されている。

  築城にあたり、スピード、再生利用と ある意味節約という考えも? と

  特に、 石垣には、神籠石」が多量に使用されているのです。

   

  城は 動いている…いや、城主が変わることや、災害を含めて

 修復も度々だった・・このことで

     実際に足を運んでみたら ????

  どこ? 

 この季節だからでしょう・・石垣に草が伸びて はっきりしませんが

 黒田時代と細川時代の石垣が重なり 同居している? 姿

       ↓

 真中に 逆三角形の処が 左黒田、 右細川

  ここの石垣も「神籠石」  

 パンフレットから はっきりと確認できます。

 

このように中世の16世紀末に造られた「中世城館」(有力な武士や大名の城や館のこと)

 をいい、近世城郭とは、16世紀末から江戸時代にかけて造られた

「高石垣」「礎石建物」「瓦」をもつ城のことを言います。

 求心性の高い縄張り構造を持っていることで、 中津城は 近世城郭の部類となる。

 

  黒田の凄いところは こんなところにも。

  たかが瓦 されど…

    城郭から出土

 秀吉の家紋である「桐の葉」を形どった瓦です。 この桐の葉を用いることは

 秀吉の許可が必要であった。 如水は 秀吉子飼いの武将として認められていた証。

 さらに、金箔瓦の使用も許可されていた。 権威の象徴なのだ。

 

 城を造ると同時に 城下町の整備があります。

 「黒田如水縄張図」と伝えられる絵図には、本丸、二の丸、三の丸 と共に

 「京町」「博多町」 「町」と 記されている… そのことは

  

 この「町割り」や「町名」などは 姫路から一緒に連れて来た商人たちの町「姫路町」

 京都・博多の商人が移住したと言われる「京町」「博多町」…が由来だそうだ。 

 城下は、「武士」と「商人」 「庶民」 住む処がはっきり分けられ

 城の外郭沿いには、神社・仏閣(寺町)が配され

 例えば、いざ戦闘になれば、広い境内、大きな建物を利用できるよう 機能を重視し

 さらに、中堀、外堀ぞいには

「おかこい山」  と呼ばれる土塁をめぐらせ城下町を守る。

  細かいね その考え方 手法。

 ただの土塁を積み重ねるのではなく、樹を植え 周辺との美観、環境も組み込む。

  戦闘があるから だけではなく、こうした 日常生活をも含む 広い縄張りなんだ。

 敬服しますね。

 こうした時代の「町割り」の方が、現代の都市計画事業よりも 数段深く考えられて

 いわゆる「町づくり」をしていること 凄いね。 見習うこと ことのほか多し。

 どこかの町の トップも 勉強したら…。

 

 いやいや まだまだ 中津城と中津の町を探っていけば 面白そう…

 ゆっくり 時間を掛けて散策してみよう…そのうち。

 

 今回の バス現地研修 大変有意義な時間でした。 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。