母は藤原範季(ノリスエ)の娘重子(ジュウシ・シゲコ)(修明門院)(1182~1264)で、第82代後鳥羽天皇(1180~1239)の第3皇子として生れた守成親王(モリヒラシンノウ)は、異母兄第83代土御門天皇の皇太弟に3歳でなっています。
写真は昨秋の大原三千院前から陵の方向を撮ってますが、この大原三千院の前をもう少し奥に行くと、実光院の向かい側に御陵は有りました
異母兄土御門天皇はおっとりしており、父後鳥羽上皇は守成親王の才気煥発で俊敏な性格から、この子の方が鎌倉幕府に対しても毅然とした姿勢で臨めると考え、2歳年上の兄土御門天皇を譲位させ、弟の守成親王を14歳で即位させ、第84代順徳天皇(ジュントク)(1197~1242)(在位1210~1221)が生れました。
ともに遠い島で亡くなった親子は一緒に祀られています
順徳天皇は、女御から中宮になった藤原立子(リュウシ)との間に懐成新王(カネナリ)をもうけ、それ以外にも藤原清季の娘との間に忠成王など、10人以上の皇子女に恵まれています。
ほぼ父後鳥羽上皇の院政下の治世でしたが、その父の討幕計画に加担するために順徳天皇は、わずか4歳の懐成親王に譲位し上皇として身軽になりました。
写真は御陵の正面です
しかしながら、この承久の乱(1221年)はあっさり頓挫してしまい、佐渡島に配流された順徳上皇には20年にも及ぶ辛い抑留生活が待っていました。
最後、第5皇子忠成王(タダナリオウ)が第87代四条天皇の急死に依って次期天皇候補に挙がりましたが、惜しくもそれもかなわず、自身の京の都に戻る夢も破れて失望も大きく、食を絶って亡くなり、佐渡島で火葬にふされた後、父後鳥羽上皇と同じ大原陵(オオハラノミササギ)(左京区大原勝林院町)に並んで葬られています。
左側の円丘部分が順徳天皇陵
順徳天皇は父後鳥羽院や藤原定家の影響もあって、歌の才にも恵まれ、定家の小倉百人一首最後の百首目は、順徳院の歌でしめられています。
この歌は、マンガトリオの漫才で、繰り返し「ももひきや~」と歌われ、若い時に憶えました
返事
花水木さん:そこまで宝くじ党を卑下しなくても良いですよ。
馬券は獲った時に、「なぜ自分はこれを買ったか!」を
自分に詳しく自慢できると言うメリット?が有りますね。