島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

82-5後鳥羽天皇皇子頼仁親王

2021-03-07 | 天皇陵巡り
 
 母は坊門信清(ボウモンノブキヨ)の娘で、後鳥羽上皇の第7?皇子として産まれたのが、倉敷市のはずれに見つけた墓に葬られた頼仁親王(ヨリヒトシンノ)(1201~1261)です。
  後鳥羽天皇皇子頼仁親王墓(岡山県倉敷市木見字正光寺)の制札は、やや赤っぽく写真に写りました
 
 鎌倉三代将軍実朝が暗殺された時、北条政子によって頼仁親王も征夷大将軍に推挙されましたが、これまた父後鳥羽上皇の反対で実現しませんでした。
  村道?の横にあった墓は、菊の御紋も付いてる門と石塔でした
 
 1221年承久の乱で、頼仁親王もその頃はまだ本当に島だった備前国児島に流されました。
ここには異母兄で第4?皇子の覚仁法親王(カクニンホウシンノウ)(1198~1266)が、熊野での修行後に移り住んでいて、五流尊瀧院(ゴリュウソンリュウイン)の大僧正となっていました。
頼仁親王墓から少し離れてますが、熊野神社沿いの空き地に、伝桜井宮覚仁親王墓と書いた標識を見つけました。
  写真の左の宝塔が覚仁親王の墓らしいですが、ここは宮内庁管理地ではありませんでした
 
 1240年父後鳥羽上皇の一周忌にあたって、覚仁・頼仁兄弟が建てたこの後鳥羽上皇御影塔も近くにありました。
朝堂・経堂は応仁の乱で燃えてしまい、この塔だけが残されたそうです。
 
 この地の熊野神社は立派な大きな建物も並んでいましたし、この五流尊瀧院三重塔も立派なものでした。
 頼仁親王はこの地で没しましたが、南北朝時代に南朝の忠臣として働いた児島高徳(タカノリ)の曾祖父が、今回の頼仁親王であるとも言われています。
児島高徳の名は、戦前の人なら皆知ってる国民的英雄でしたが、戦後生まれの私は、田舎に有った戦前の子供向けの本でのかすかな記憶しかありません。
こんな遠くに有る頼仁親王墓を宮内庁が管理してるのは、戦前の皇国史観の流れからかもしれませんが、半年前ぐらいの1泊2日旅行に行けたので、私にとっても良き場所でした。

       返事
花水木さん:これを家内が読んだら怒られるかもしれませんが、
    私は言葉の使い方に、じっと耐える方です。
     京都市民の私も、
    雪にはいつも心が躍りますよ。

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82-4後鳥羽天皇皇子雅成親王

2021-03-03 | 天皇陵巡り
 
 第82代後鳥羽天皇の第3皇子は第84代順徳天皇ですが、少しとんで第6?皇子は、母が藤原重子(ジュウシ・シゲコ)(1182~1264)と順徳天皇の同母弟になる雅成親王(マサナリシンノウ)(1200~1255)です。
  兵庫県豊岡市のJR豊岡駅から少し山側の高屋、道端から傍に少し雪の残る石段が続いていました
 
 1219年鎌倉3代将軍源実朝が甥の公暁に鶴岡八幡宮で暗殺され、源氏将軍が絶えたので、鎌倉幕府は雅成親王を次期将軍に迎えたいと要請したのですが、何故か後鳥羽上皇はこの申し込みを拒絶しました。
この時にこの要請を飲んで、雅成親王を征夷大将軍にしておけば、後鳥羽上皇も承久の乱など起こさずに、武家の上に立って天下を掌握できたのにと思いますがね。
  石段を登ると、いつもの風景が見えてきました
 
 そして承久の乱(1221年)が起こり、雅成親王もこの豊岡の高屋に幽閉されたそうです(黒木御所)。
 父後鳥羽上皇が隠岐で亡くなった後には、雅成親王は許されて一旦京都に戻れたようです。
  後鳥羽天皇皇子雅成親王墓(兵庫県豊岡市高屋)
 
 しかしながら、雅成親王を担ぎ出して次期天皇にしようとする公卿達の動きが有ったので、再び但馬のこの地に戻された雅成親王は、ここで亡くなっています。
  宝塔が並んでいる墓でしたが、どれが誰かまでは分かりませんでした

        返事
花水木さん:花が無く、
    寂しいばかりの天皇陵巡りですみません。
    ここはまだ車内で待つ家内が居る車道にも近く、
    明るい気持ちで巡れました。

コメント (1)
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