藤原兼家(929~955)と藤原中正の娘時姫(~980)の間には、
*長男道隆(953~955)(妻が写真の儀同三司母高階貴子(タカシナタカコ)で、伊周(コレチカ)・定子の母でもあります。
*長女超子(954?~982)(前出の冷泉天皇女御で三条天皇の母)
*3男道兼(ミチカネ)(961~1002)(7日関白)
*今回の詮子
*5男(4男?)道長(966~1028)
の子が出来ています。
今回の詮子(センシ・アキコ)(962~1002)は978年に、前回の遵子に数カ月遅れて第64代円融天皇に入内し、女御になりました。
980年に円融第1皇子懐仁親王(ヤスヒト)(980~1011)を産みましたが、982年に中宮の座は夫円融の父兼家に対する反感からか、子が無い遵子に取られてしまいました。
この人もやっぱり宇治陵です。
しかし、息子懐仁が即位して7歳で第66代一条天皇となると、詮子も皇太后となり、夫円融法皇(959~991)が崩御すると出家して、居宅の東三条邸にちなんで東三条院(ヒガシサンジョウイン)と称し、これが女院号(ニョインゴウ)の始まりとなりました。
東三条邸で三条天皇と一条天皇も産まれてますし、東三條殿址の石碑が立つ中京区押小路釜座角(オシコウジカマンザ)は、あの頃の小学生でバレエを習っていたちょっとハイカラな女の子の家の塀沿いでした。
向かいには同級生の家も有ったので、しょっちゅう通ってた懐かしい道ですが、今までこの石碑には気づいていない、そう言えば有った気もするぐらいの、私はおバカさんです。
詮子(東三条院)は国母(コクモ)として政治に介入し、弟の道長を可愛がって、道長の後ろ盾になり、同母兄道隆の息子伊周(コレチカ)を圧迫し、5男でしかない道長が藤原氏長者になるのを助けました。
息子一条天皇には伊周妹の定子が中宮としているのに、わざわざ夜中に息子一条天皇を訪ねて、泣き落としで道長娘彰子を後宮に入れさせる事までしたそうです。
詮子も3枚目写真の宇治陵総拝所制札7番目には一条天皇御母尊称皇太后詮子宇治陵と書かれて、宇治のどこかに葬られているようですが、敵対したとも思われる姪の一条天皇皇后定子の鳥戸野陵(トリベノミササギ)で火葬されたようで、ここの制札には圓融天皇女御尊称皇太后詮子火葬塚と書かれていました。
返事
和さん:5人の孫皆が似てるような気はしてます。
このご時世、なんとか元気で愉快に生きてほしいです。
アッツそうやと思って、わたしもプリンター開けたら、
保険証がそのまま残ってました。
花水木さん:娘には2人目の男の子、
どちらかがお寺を継いでくれるでしょうが、
生れてすぐから、継がなくてはと思う人生も大変でしょうなあ、
と気楽に生きてるお爺さんは思います。
給付金は結局貯金通帳に入るので、
なんとなく無くなっていくような気もしてきて、心配です。
toitenlabeeさん:アベノマスク触った感じは、
それほど高級感はなかったですよ。
まあ装着したら心がひやーっとするかもしれませんが。
大雪男さん:京都府でも宇治市の人は、
もうもらったと言ってます。
マスクしてると暑苦しい季節になってきましたが、
庭仕事もマスクしてされてるのですか?
解除されて久しぶりにマスクで麻雀しましたが、
負けてしまいましたよ。
当たり前ですが、昔通った小学校の前を通ると、当時はとても広いと感じた運動場が狭くて驚きました。
せんせー、今回、あまり面白い事入って無いです。
マスク、今や顔の一部と化してますが、動くと息苦しいですね。
特に手ぬぐいとかガーゼマスクは一枚着たぐらいに暑いです。