第7代孝霊天皇は妻4人に子が8人であったことは、何度も書きました。
その内のオホヤマトクニアレヒメノミコトとの間に、前回の大市墓のヤマトトトビモモソヒメの他にも、男の子の大吉備津日子命(オホキビツヒコノミコト)ももうけています。
古事記では大吉備津日子命と、日本書紀では大吉備津彦命と書かれている、この孝霊天皇皇子の墓である、中山茶臼山古墳を訪ねて、岡山まで4月に行ってきています。(日本のエーゲ海と言われてる牛窓に泊まった旅です)
山の中にあった岡山県古代吉備文化財センターの駐車場に車を停めて、ついでに無料の館内で、日本で4番目に大きい近くの作山古墳や鬼ヶ城の遺構の説明を勉強してから、館員に尋ねて少し山道を歩きました。
この中山茶臼山古墳である大吉備津彦命墓(オオキビツヒコノミコトノハカ)は全長100m以上の大きな前方後円墳で、吉備地方には3世紀後半~4世紀の大きな古墳が沢山ありますので、奈良盆地よりも住みやすそうな岡山平野には、大きな吉備勢力が暮らしていたのでしょうね。
大吉備津彦命墓の周りは近辺の人々の散歩道にもなっているのか、近くの大きな桜が咲いているのか見に来てる人も見られました。
その大きな桜は平安桜と言うそうで、桜の木とは思えないような苔むした大樹でしたが、花には1週間ほど早かったようです。
281歳で亡くなった大吉備津彦命を祀る吉備津神社も近くにあって、その門柱?の書体は犬養毅の書になるものでした。
比翼入母屋造の本殿・拝殿は国宝で立派です、ここだけの造りなので吉備津造とも言うそうです。
それよりも、雨や雪が多い地方でもなさそうなのに、この長い廻廊がすごいです、360mもありました。
少し車で走ると、同じく大吉備津彦命を祀る吉備津彦神社があります。
ここも大きな立派な神社です。
四道将軍として吉備地方に派遣された大吉備津彦命が、この地方の豪族温羅(ウラ)と言う鬼を退治して、この地を平定した話が桃太郎伝説の原型になってるようです。
犬になって骨を探したり、鯉になって逃げた温羅を雉になって食ってしまった話などから、桃太郎のお供も出来あがったようです。
江戸時代に作られた日本一の大燈篭と言うのも一対ありました。
この日(4月1日)の岡山地方は暑いぐらいの上天気、よき旅になりました。
と言うか、私がじっくり読んで時間がかかるのかもしれませんが。
流石は国宝、立派ですね。
長い回廊も素晴らしいです。
大吉備津彦命が281歳・・・もうここまで来ると盛り過ぎ??ですね。
日本で、平民がお墓を持つことになったのは、この100年くらいだそうで、その昔は土葬、更に前は、野ざらしだったとも言われていますが、そんな時代に、古墳と言う大規模なお墓を作ることになった背景はなんでしょう?