島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

神代の時代0≠P蚕ノ社

2016-08-26 | 天皇陵巡り
 
 さていよいよ天皇陵巡りを始めます。
第1代神武天皇から第14代仲哀天皇までは、実在を確認できないと言うのが今の認識らしいです。
 その第1代神武天皇のもっと前、神代の時代も少し見ていきましょう。
 写真は、嵐電の蚕ノ社駅前の蚕ノ社(カイコノヤシロ)の鳥居です。
  
 先ずは神代の時代のことが書いてある古事記のお勉強から;
712年、第43代元明天皇(天智天皇の皇女で文武・元正両天皇の母)の時代に、第40代天武天皇からの悲願であった古事記が、稗田阿礼(ヒエダノアレ)の口誦の素に、太安万侶(オオノヤスマロ)によって献上されたことは、歴史の教科書で学び、まあだいたいの人が知っていますよね。
また江戸時代には、師の賀茂真淵から古事記を研究するように勧められた本居宣長が、注釈書古事記伝を編纂し、良いかどうか嘘かまことかわかりませんが、古事記は日本人のものになりました。
 写真は、蚕ノ社の正面。
  
 その古事記の最初に、宇宙の初め、まだ天も地もはっきりしない頃に、高天原に三柱(ミハシラ)の神が次々と現れた書いてあります。
ビッグバンのイメージと重なる気もしますね。
 この三柱の一番目、天の中央にあって宇宙を統一する神様が、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ) これがそもそもの初めです。
ただこの神様、最初に出てきた以後はまったく出てこないので、その神を祀ってある所はあまりないようですが、京都太秦にある木嶋坐天照御魂神社(コノシマニマスアマテルミタマジンジャ)蚕ノ社がそうだと調べましたので、先ずはここから私の天皇陵巡りを始めます。
 写真は蚕ノ社の社殿、夏の日の早朝家から10㎞はどのここに自転車で来ましたが、ここまで入ると少し涼しい。
  
 中国や朝鮮から先進の技術・文明や仏教をはじめとする高い文化が、侵略の不安と共に入ってきた奈良時代の始まりの頃、渡来人である秦氏が住み着いたと言われる京都の西の太秦(ウズマサ)。
*その頃未開地だったような洛西の地のどこが良かったのか
*機織り集団だから秦氏と言う、わかったようなわからないような話。
*太秦をウズマサとは、京都人か映画好きでない限り読めないので、なぜこの名なのか。
 疑問は色々有りますが、木嶋神社はその前から住み着いていた人々の神社のような気がします。
 水は枯れていましたが、境内には元糺の池と言う神池があります。
下賀茂神社に、時代劇映画やTVでよくロケ地にされる糺の森(タダスノモリ)がありますが、元々はこの神池を下賀茂神社に移したので、こちらを元糺と言うそうですので、なんとなくこの辺りは下賀茂神社の糺の森の雰囲気が漂っていました。
  
 この神池には、三つの鳥居を三角に組んだ三柱鳥居(ミハシラトリイ)があり、中央の組石は祭神の神坐であり、宇宙の中心を表わしているそうです。
いかにも一番目の神さまアメノミナカヌシノカミに相応しい場所と言えます。
  
 本殿には明かりの灯った提灯が下がっていましたが、この提灯にある蚕ノ社の神紋はフタバアオイ、上賀茂神社も下賀茂神社も神紋はフタバアオイなので、やっぱり関係ありそうです。
秦氏と賀茂氏自体が、元々は同じだと言われているそうですが。
 と言うことで、一応天皇家も直接ではないですが、この宇宙最初の神さまアメノミナカヌシノカミと繋がっているようなので、天皇陵巡りの最初を蚕ノ社から始めました。
   1回目からあまり面白くない文ですね、反省!

       返事
花水木さん:孫に名前を付けられる祖父母も、今は少ないでしょうね。
     でも、命名権は親が子に出来る唯一の権利なので、この方が良いと思います。
大雪男さん:このごろのわけのわからん読めない名前は、
    キラキラネームと言うんですか。
     自分の孫にはやめてほしいですが、もし付けられたら、
    それでも孫なら可愛がるでしょうね。
コメント (2)
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