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書評051-3  『 アーミッシュの赦し Amish Grace 』 < 赦しは悲劇をどう超えたか > 亜紀書房

2015-10-26 09:01:43 | 書評
2. キリスト教徒の国民にとって、そして全ての先進社会にとり 『アーミッシュの赦し』がもつ意味あいとは何か?
 まず、キリスト教徒ではない私が此の問いかけをする意味があるのか? と疑問をもたれるかもしれない。私が問う理由は、アメリカ市民に代表される現代の生き方・暮らしぶりを(非キリスト教徒でありながらも)表面的には共有する我々日本人にとっても、【A】が突きつけた「罪と罰の峻別」「報復の放棄」の意義は無視できないと考えたことによる。
  昨日の<1.アーミッシュ:Amish (以下、【A】と略す)とはどういう特徴をもつ基督教徒の集団か?>で触れたとおり、【A】が他のキリスト教宗派と自らを区別する特徴の一つは「神」への「集団による絶対服従」である。此の「集団主義」と「絶対服従」が求める行動、それは現代北米市民の暮らす文化的習慣セットと真っ向から食い違う。
 (1) 間違いを犯しがちな教会指導者の決めた規律に従う?・・・【A】の教会指導者は持ち回りの輪番制であり、神学教育制度も無いが、
                                「聖書」の教えの理解/伝達が特別な人間でなければ不可能とは考えていない
 (2) 個人を称えたり顕彰してはいけない?・・・・【A】は、個人の尊厳・自尊心・自立心を「神」への傲慢な態度と排斥する
 (3) 哲学的な知的探求を慎め?・・・【A】は「神の霊性」や「来世での救済保証」すら疑問の対象にしてはならないと教える
 (4) 男女同権ではない性差別役割を守れ?・・・【A】は、中世そのままの男女別役割を遵守せよと教える
 (5) 個人に固有な権利を守る闘いさえも否定し放棄せよ?・・・【A】にとり「神」の前ではどの個人も集団を超えることはなく、固有の権利など無い
 (6) 祖国のための戦い・兵役も拒否する?・・・【A】にとり地上世界に守るべき国は存在しないので「神の王国」以外に命を奉げる対象は無い

 ひとことで別の表現をするなら、【A】の人々が暮らす文化とは、宗教が<怒りや復讐の正当化>にではなく<善意と赦し/恵みを導く>ために使われる文化だ、と著者グループは要約している。この指摘は、宗教の名のもとに殺戮と報復の連鎖を続ける1神教徒たち[ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒]の振る舞いにアメリカ人自らが鋭く反省を迫るものである。 この自己の痛みを伴う省察、それを言葉にする勇気と知性に私は感服した。

 もうひとつ私の心に響いたのは、集団的絶対服従に伴う制約を重んじることで<地域コミュニティの維持><現世世界への帰属意識><個人のアイデンティティ保持>という3つが見事に【A】の社会に息づいている、其れは誰もが追い求める≪満足と幸福≫を満たす要素ではないか?との指摘である。 自由の飽くなき追求、消費資本主義、テクノロジー万能、自然からの乖離などにより現代人が失ってしまった3つの要素が【A】の暮らしには在るという。 自分の目で確かめてはいないし、1神教世界の文化風土に生まれ育ってこなかった私はここでストップするしかない。

翻って、宗教が文化に占める役割/存在意義と著者たちが本書の最後の方で提起したことを考える。多神教の東洋世界において、個人の解脱と来世救済がせめぎ合ってきた仏教は、現代文化でどういう役割を果たし、存在意義を見出そうとしてきたか。我々自身はその問いかけをどう捉えてきたのか? 
 無論、答えは無いが、読了後の私は「罪と罰」「赦し」の向こうに永遠の問いかけを視た。           ≪ おわり ≫
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