この曲を知ったきっかけは、NHK-FM「きらくら」11/15放送で紹介されていたことによる。番組では全24曲のうちの第8曲目(F#Minor)を流した。
ハチャトリアンまでは何とか旋律も曲想もついてゆけるのだが、此の二人は昔からドロップしてきた。 だが、この日流れた曲はそれまでの拒否反応を嘘のように消した。実に我ながら不可思議であり、俄かに他の曲も聴いてみたくなり取り寄せた。
私にとりショスタコーヴィチはプロコフィエフと並び、ロシアがソ連に変わって以降、わかりにくい/美しいと思わない作曲家であったが、この24曲は耳を傾けると不思議な想いに包まれる。「きらくら」に出演のピアニストが口にした<独り言のような呟き>は当を得た表現だ。 その感性に脱帽!
19世紀までの作曲家が保ち続けた旋律の<順当で和やかな流れ>というには、ショスタコーヴィチもプロコフィエフも程遠い。例えば、私が親しむヴァイオリンでいえば、プロコフィエフのソナタ。これは不思議な曲想で惹きつけけられるが、ブラームスやドヴォルジャークまでの素直な旋律とは明らかに異なる。 チャイコフスキーと同じロシア民族なのに、どうしてここまで違うのだろう、と子供心に思って来た。生きた時代でいえば、チャイコフスキーと30年しか違わない。此の違いはソヴィエト革命がそうさせたのかなどと思うが、そういう単純なことにしては、余りにも感性/美意識の落差に説明がつかないのだ。 説明がつかないという想いは今も変わらない。一方、ここに”共産主義社会の陰鬱”だとか”芸術家の喘ぎ”を当て嵌めるのは簡単だが、それにしてはソ連時代の芸術は音楽に限らず決して不毛とは言えないのだ。
さて、この24曲が<独り言のように呟く感じ>を醸し出す理由をつけるなら、在来の和声展開を伴なう旋律主導が無いため、旋律自体のポロポロ気ままな展開あるいは螺旋状の流れに任せたことによる、と思う。 この<呟き>はサティの曲を聞く感じと微妙に違う。私はピアノの曲を多く知らないため、比較するのもおこがましいのだが、直感でいうと、サティには『空中への浮遊感』を感じるのに対し、ショスタコーヴィチの曲には『海中深く潜る感覚』だ。
ハチャトリアンまでは何とか旋律も曲想もついてゆけるのだが、此の二人は昔からドロップしてきた。 だが、この日流れた曲はそれまでの拒否反応を嘘のように消した。実に我ながら不可思議であり、俄かに他の曲も聴いてみたくなり取り寄せた。
私にとりショスタコーヴィチはプロコフィエフと並び、ロシアがソ連に変わって以降、わかりにくい/美しいと思わない作曲家であったが、この24曲は耳を傾けると不思議な想いに包まれる。「きらくら」に出演のピアニストが口にした<独り言のような呟き>は当を得た表現だ。 その感性に脱帽!
19世紀までの作曲家が保ち続けた旋律の<順当で和やかな流れ>というには、ショスタコーヴィチもプロコフィエフも程遠い。例えば、私が親しむヴァイオリンでいえば、プロコフィエフのソナタ。これは不思議な曲想で惹きつけけられるが、ブラームスやドヴォルジャークまでの素直な旋律とは明らかに異なる。 チャイコフスキーと同じロシア民族なのに、どうしてここまで違うのだろう、と子供心に思って来た。生きた時代でいえば、チャイコフスキーと30年しか違わない。此の違いはソヴィエト革命がそうさせたのかなどと思うが、そういう単純なことにしては、余りにも感性/美意識の落差に説明がつかないのだ。 説明がつかないという想いは今も変わらない。一方、ここに”共産主義社会の陰鬱”だとか”芸術家の喘ぎ”を当て嵌めるのは簡単だが、それにしてはソ連時代の芸術は音楽に限らず決して不毛とは言えないのだ。
さて、この24曲が<独り言のように呟く感じ>を醸し出す理由をつけるなら、在来の和声展開を伴なう旋律主導が無いため、旋律自体のポロポロ気ままな展開あるいは螺旋状の流れに任せたことによる、と思う。 この<呟き>はサティの曲を聞く感じと微妙に違う。私はピアノの曲を多く知らないため、比較するのもおこがましいのだが、直感でいうと、サティには『空中への浮遊感』を感じるのに対し、ショスタコーヴィチの曲には『海中深く潜る感覚』だ。