静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

 ≪ ショスタコ-ヴィチ: ピアノ 24のプレリュードとフーガ  作品 87 ≫

2015-11-18 22:49:32 | 文芸批評
 この曲を知ったきっかけは、NHK-FM「きらくら」11/15放送で紹介されていたことによる。番組では全24曲のうちの第8曲目(F#Minor)を流した。 
ハチャトリアンまでは何とか旋律も曲想もついてゆけるのだが、此の二人は昔からドロップしてきた。 だが、この日流れた曲はそれまでの拒否反応を嘘のように消した。実に我ながら不可思議であり、俄かに他の曲も聴いてみたくなり取り寄せた。
  私にとりショスタコーヴィチはプロコフィエフと並び、ロシアがソ連に変わって以降、わかりにくい/美しいと思わない作曲家であったが、この24曲は耳を傾けると不思議な想いに包まれる。「きらくら」に出演のピアニストが口にした<独り言のような呟き>は当を得た表現だ。 その感性に脱帽!

19世紀までの作曲家が保ち続けた旋律の<順当で和やかな流れ>というには、ショスタコーヴィチもプロコフィエフも程遠い。例えば、私が親しむヴァイオリンでいえば、プロコフィエフのソナタ。これは不思議な曲想で惹きつけけられるが、ブラームスやドヴォルジャークまでの素直な旋律とは明らかに異なる。 チャイコフスキーと同じロシア民族なのに、どうしてここまで違うのだろう、と子供心に思って来た。生きた時代でいえば、チャイコフスキーと30年しか違わない。此の違いはソヴィエト革命がそうさせたのかなどと思うが、そういう単純なことにしては、余りにも感性/美意識の落差に説明がつかないのだ。 説明がつかないという想いは今も変わらない。一方、ここに”共産主義社会の陰鬱”だとか”芸術家の喘ぎ”を当て嵌めるのは簡単だが、それにしてはソ連時代の芸術は音楽に限らず決して不毛とは言えないのだ。

さて、この24曲が<独り言のように呟く感じ>を醸し出す理由をつけるなら、在来の和声展開を伴なう旋律主導が無いため、旋律自体のポロポロ気ままな展開あるいは螺旋状の流れに任せたことによる、と思う。 この<呟き>はサティの曲を聞く感じと微妙に違う。私はピアノの曲を多く知らないため、比較するのもおこがましいのだが、直感でいうと、サティには『空中への浮遊感』を感じるのに対し、ショスタコーヴィチの曲には『海中深く潜る感覚』だ。
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国の統治で大事なこと: 理念プラス緊急避難や過ちを正せる仕組みの担保

2015-11-18 20:35:35 | 時評
 ★ 熱血!与良政談:「何を理念に」が先だ=与良正男 http://mainichi.jp/shimen/news/20151118dde012070007000c.html?fm=mnm
・ <元々、民主党は「政権交代」を唯一の共通目標として集まったと言っていい政党だ。しかし、その目的を一度達成し、かつ政権運営に失敗したと
  烙印(らくいん)を押された後で再び「政権交代を」とだけ叫んでみても国民の信頼は取り戻せない。一体、民主党は今後、どんな国をめざすのか、きちんと
  党内議論をしているように見えないのだ。
・ 民主党内は立憲主義を守る:つまり権力の行使は抑制的にすべきだという点では一致しているように思える。立憲主義は今後の重要な政治の対立軸になる
  はずだ。共産党が提案している連立政権は私も無理だと思うが、野党はこの点でゆるやかに、そして大きく結集してもいい。参院選での選挙協力もありだと
  私は思う。>
* 与良氏のいう立憲主義は「権力の行使を抑制する」一辺倒なのか?  私は腑に落ちない。 権力行使の抑制論は<三権分立>の日本における望ましい姿とは何か、という議論での一致を前提とする。然し、そういう前提はなく、日本は<三権分立の理念>ひとつとっても一致できないくらい国民レベルでの基礎が無い。 
そして、かねてより述べてきたとおり<三権分立>は国ごとにパターンが複数ある。 先達はいない。

だからこそ<立憲主義に基づく安全保障政策とは何か、もっと具体的に提示しないと信用はされない>と与良氏がいうとき、権力抑制だけの<立憲主義>で<時間が勝負の安保の現実>を打ち破る具体性を出せるのかという不安が消せない。 言い換えると、国や個人の安全/尊厳に直接関わる安全保障の現実の前で「立憲主義」「民主的手続き」は脆くも敗れ、ないがしろにされがちだ。
 
民主党に限らないが、およそ政党に属す人々の間で「民主主義「と「権力の相互牽制」「暴力(実力)を担保とする安全確保」のバランスを如何にとるべきか、などと平時も戦時も常に考えている政治家がいなければならない。 果たして現実はどうか?  そのバランスを与良氏が「理念」と呼ぶならわからなくもないが、実力行使への対処と矯正措置を欠いた、国会/内閣の横暴に対する「立憲主義」「三権分立」理念だけでは説得力が弱いように思えてならない。
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 ≪ 自民「歴史検証委」 ≫ 外国の反発ゆえ安心ではなく 国家主義世論づくりに警戒せよ

2015-11-18 14:06:32 | 時評
 露下院議長:自民の歴史検証を批判 http://mainichi.jp/select/news/20151118k0000e030171000c.html?fm=mnm
    http://www.sankei.com/politics/news/151111/plt1511110049-n1.html
・ 何もロシアが中国や韓国のあとを追って牽制メッセージを出してきたから、どうせ自民党も”単なるお勉強会”に終わることを承知でやるのさ!
  などとタカを括ってはいけない。
 此の委員会なる場は、安倍政権の次なる憲法改正への布石の場となろう。 アメリカを含む外国の反発や牽制など最初から問題にはしていないのだ。誤解してはいけない。 東京裁判のみならず、日清戦争まで遡って<検証する>というのは、明治維新・大日本帝国憲法・日露戦争・日韓併合・シベリア出兵・対華21条要求・満州国樹立と続く一連の膨張政策全体を論じるのだ。

「有識者」というのが、どのような思想の持ち主で構成されるのか? そして、結論はまとめない、という仕組みこそが臭いのである。
つまり「様々な意見を併記した」というポーズを装いつつ、<明治維新の栄光><アジア成功物語>プラス<19世紀世界の潮流は帝国主義であり日本だけではない>という論理で、大日本帝国の歩み自体を≪仕方ない歩みだった≫から≪東洋を西洋支配から解放する大東亜戦争≫もやむを得なかった、という道筋に導こうとする魂胆であろう。  これが国家主義者・右翼国粋派の一貫する近代日本歴史認識だ。
  「東京裁判は受容する」と外向きにはいいつつ片方でこういう認識を肯定する矛盾。これが国際的に通用しないのを知りつつ繰り返す目的は、次に挙げることしかない。・・・・日本国内でのA級戦犯合祀の公式正当化、靖国参拝の正当化宣言、分祀運動の封じ込め/弾圧。天皇の靖国参拝へ。

「帝国主義的膨張がやむを得なかったか」どうかではなく、事実として加害者の側に回った歩みを明治以来してしまったとの反省、二度と加害者にはならないという決意が今を生きる国家主義者達にあるか? あるまい。 それなくして集団的自衛権の行使が誤りなくやれるか?  国民の疑念はこれではないだろうか?
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