静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

南東北の旅  #-3     < 福島県 : 会津若松  11/02 - 03 >

2014-11-06 21:33:03 | 旅行
  会津2日目は、昨年春のヴェトナム旅行で知り合ったN氏(郡山市在住)が自家用車で裏磐梯から猪苗代湖あたりを案内してくれた。たった一度の短い出会いながら、ここまで親切にしてもらえるとは、まことに人の縁とは不思議なものだと感謝するばかり。  ドライヴは「裏磐梯ゴールドライン」なるドライヴウエイから。。
  開口一番「Nさん、裏磐梯のウラとはどういう意味ですか? 裏と表は何が境目なのですか?」と私はかねて抱いていた疑問をぶつけた。すると、豈はからむや「磐梯山の西側をウラと呼び、東の猪苗代湖側を表と呼ぶのです」とのこと。私は南北方向でオモテ・ウラと呼び分けていると想像していたので、意外だった。 ここでも俗にいう<裏日本>のウラ意識が働いているのか。いや、深読みすれば、廃藩置県に際し、戊辰戦争で敵対した会津公の居た若松藩は、規模では最大にも拘わらず統合後の<福島県>の県庁所在地にもなれず、日陰者扱いを受けた歴史が若松地方をウラと見下げることになったのか? ささいな疑問からであったが、ここにも明治維新を巡る歴史の一片が覗ける気がした。

  青空に恵まれたドライヴウエイから猪苗代湖が見渡せるポイントに来ると、湖面をスッポリ厚い雲海が覆っているのに出くわした。こんなに雲海が湖面全体を覆い尽くすのは珍しい、とN氏は云う。紅葉の時期は朝夕の寒暖差が広がり、霧の発生が水面に雲海となるのだろう、とのこと。少し上がると五色沼と呼ばれる湖水群がある。磐梯山の噴火で堰き止められ生まれたという。湖面に映える紅葉が実に綺麗だ。生憎の小雨模様でもあり、ブルーに見える沼もあると聞いたが見送ることにして、猪苗代が生んだ偉人・野口英世博士の生家に向かった。 馬屋もあり、私が根拠なく漠然と抱いていた予想よりは大きな農家の造りである。博士は明治7年生まれとある。部屋の造り、農具、台所、囲炉裏、カマドなどを眺めるに、殆ど江戸時代と違わない農家の暮らしぶりが目に浮かんでくる。

  野口博士生家をあとに猪苗代湖畔を西へ行く。強清水(こわしみず)という蕎麦で名高い所があるというので、昼食にした。名物は?と聞けば、旨い磐清水で打った十割蕎麦と「天ぷら饅頭」だというではないか。 「え、天ぷら、まんじゅう?」思わず聞き返した私に、N氏は微笑みながら「ええ、貧しい昔はカロリーを補うためでしょうか、何でも揚げてしまったのでしょう」と宣う。話のタネにと注文、なるほど饅頭そのものはどうってこともない味と見受けたが、コッテリ衣で厚化粧している。そして、頼んだ<ニシン天ぷら蕎麦>のニシンも、身掻きニシンそのままではなく揚げてあるのだ。これには驚いたものの、蕎麦切りは一切殻を混ぜないのか純白に近く、蕎麦に疎い私でも香りの良さは解った。うん、若しかして店名の「もろはく」とは諸白の意ではないか?と私は想像を逞しくしたところだ。   翌3日は若松市内循環バスで回りましょうか、と別れる。       ≪ つづく ≫
                         
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南東北の旅  #-2     < 福島県 : 米沢 - 会津若松 11/01 >

2014-11-06 10:18:01 | 旅行
 米沢から会津若松へは途中の錦秋を期待してJRではなく、地元タクシー会社の若松行乗合タクシーで。売りは<ロンドンタクシー>という。どんな車かと待っていると、イギリス映画で見かける箱型のセダンが米沢駅前に来た。乗合客はオバサン3人組で後部座席に陣取り、私は狭い助手席。ズ-ずー弁丸出しで人の好さそうな運転手からすまなさそうに頼まれたら致し方ない。案の定、今どきのクルマと違い、リクライニングシートではない。・・・お-~、この姿勢で2時間余りか、と些か落ち込む。・・・・オバサンたち、座ったら早速スナック菓子を取り出し、お喋りに余念が無い。 
  幾ら日本同様に道が広くない英国に合わせた車体とはいえ、我々より総じて体格の大きい西洋人が此の助手席に座るのは想像しづらい。女性でも大柄な人には窮屈だろう。 (ひょっとして、本来は座席ではないのかも?) 後ろは逆に足元もゆったりしており、デカい連中でも3人掛けができなくはない。オバサンたちは半ばふんぞり返るような姿勢でご満悦の様子。
  運転席のパネルを観ると計器類は日本車仕様。ギアはオートマチック。「これホントにイギリスから来た車なの?」と運転手に尋ねると「そうですね、シャーシとボディ外板だけ元のものでしょうか」と。ふむふむ、他に昔風なのは可愛いサイズのワイパーくらい。 折から振り出した小雨にチョコマカ動く短いワイパーを眺めつつ、乗合タクシーは山の中へ。
  飯豊山地を越え、大峠を過ぎると雨空から晴れ間に変わり始めた。期待通り、全山目を奪う錦をまとい、其のあでやかさに息を呑む。だが、狭い座席のうえ、窓が開かない構造で写真は撮れない! おお、何たることかと嘆きつつ、いや待て、目に焼き付ければ良いのだと言い聞かせる。そう、なまじカメラに頼っては本当の記憶にはならない、などと昔どこかで聞いたようなセリフで納得させた。

  予定通りの所用時間で無事、会津若松駅へ。ホテルに荷物を預け、市内循環バスで鶴ヶ城に向かう。城は予想通り外国の観光客で賑わう。ざっと見渡せば、日本人と同数か。改築された城に戊辰戦争の傷跡を想像することは無論できず、維新後に撮影された写真に残る弾痕や焼け崩れた屋根を眺め、銃撃や砲撃戦をイメージした。日本人同士の内戦の最後は1887年の「西南の役」だが、島原の乱を最後に武装闘争の無い時期が約200年続いたにも拘わらず、いきなり弓・刀・槍だけでなく小銃と大砲を交えた本格的な戦闘が幕末期にできたことに私は驚く。
  太平の世と武士自ら己の存在意義を嘲笑していた200年。然し、いざとなれば武器を取り、命のやり取りができた。曲がりなりにも戦う職業集団としての武士階級が存続し、幕末動乱期の戦闘経験があったからこそ、明治以後の軍国国家に即座に移行できたのではないか? 西欧列強の植民地化を免れ得たのも、恐らく武士集団が現役のまま存在した効果だったろう。だからといって、それが帝国主義的膨張に連続した後の歴史まで肯定されてはならないし、アジアでは日本にしか無かった武士階級の存在がもろ刃の剣であったことを忘れてはいけないだろう。                       ≪ つづく ≫
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