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マルキュー藤田の釣日記

熱い釣りの記録や思いをお伝えします

昔行った釣場-水戸編 大宮の溜池

2009-03-28 20:57:47 | 想い出

水戸市内を流れる那珂川は型の良いへらが釣れたが、外道も多かった。ある休日、水府橋下流でへら釣りをしていた。傍らには当時の彼女(現在の古女房)が私の釣った魚の種類を自分で持参した淡水魚類図鑑で検索していた。検索などせずに、私に聞けば分かるものを・・。そこへ、私と同年代の若者が現れた(水勝会所属、水勝とは、水戸と勝田の略、現在も存続しているか不明)。どうも、そのポイントは彼の家のすぐ前だったらしい。彼は、最近毎晩のように家の前にバイクが止まっているのを不審に思っていたらしい。私は毎晩のように1人でナイターをしていたのだ。そのバイクが日中、また止まっていたので、何をやっているのか様子を探りに来たところ、私がへら釣りをしていたのだ(私はライダーでもあった)。彼は偶然へら師だった。私と言葉を交わし、私が、フラシの中のへらを見ると家からすぐに道具を運んできて、並んで釣りをすることになった。那珂川は流れ川なので、当然ドボンだ。彼は、ハリスに板オモリを巻いた、ハリスドボンだ。ハリスドボンでは、那珂川の半端でない流れでは、止まらなかったが、私の中通しよりも遙かに触りが多く、へららしい釣りになる。私は初めてこのような釣り方もあることを知ったのだ。その後は、現在に至るまで、流れでどうしょうも無い時には、ハリスドボンで対処している。

彼とは、その場で話が盛り上がり、水戸近郊の釣場を車で案内してくれる事になった。彼は、私の彼女に気遣い「連れをほっといて良いのか」とさかんに気にしてくれたが、私は、「全く構わない」と、彼女を歩いて帰宅させ、自分のバイクを置いたまま、彼の車で出かけてしまった。

ここで「私と釣りとどっちがいいの?!」などと愚問中の愚問をのたまうような女では、私の伴侶は務められない。そんな愚問を問いかけられれば、私は間髪入れず「釣りに決まっているだろう!」と答えるに決まっているのだ。今の妻と付き合うまでは、そんな愚問をする愚かな女もいたが、そんな女は全て縁を切ってきた(切られたという話もある・・が)。今の古女房は、今まで一度もそんな愚問はしていない。さすが頭が良い。

結婚して、自由に釣りに行けなくなった知り合いが私の周りにはたくさんいる。恐らく、彼らは、土下座でもして、頼んで結婚してもらったのだろう。同じ職場のs君なんかは、結婚後釣りに行かせてもらえず、今では、ただ活かされているだけだ。廃人同様である。

話を元に戻そう。溜池を幾つも回って最後に着いたのが大宮の溜池であった。大宮といっても埼玉の大宮ではなく、大宮町だ(正確には大宮町でもなく、玉川村のようだ)。その池は、こじんまりした池で、池を囲む形で個人桟橋が設置されていた。その池で彼と並んで竿を出すことになった。型は大きくなかったが、極めて魚が濃く、非常に面白い釣りの出来る池で、一発で気に入ってしまった。下手な管理釣場より、よっぽど魚が濃く、釣れるのだ。この池で、彼から最新のエサ使いについていろいろ話を聞くと、まさにカルチャーショックだった。仙台に5年居る間にいつの間にか、時代の流れに取り残されてしまっていたのだ。この間にグルテンなるエサが登場したのだ。彼との出会いが私の釣りを大きく変える1つの節目になったことは間違いない。私のへら修業が本格的に始まった。

その後、このため池には足繁く通うことになった。水戸を離れてからもしばらく通ったが、高萩に越してからは1度も行っていないので、もう20年以上行っていないことになる。今、あの池がどうなっているかは知るよしもない。


昔行った釣場-水戸編 涸沼

2009-03-18 20:18:53 | 想い出

涸沼といえば、日本で初めてワカサギの移植試験を行った際、涸沼のワカサギを用いたことで有名だし、地先型ニシンの南限地としても有名だ。涸沼は汽水湖で、海水魚と淡水魚両方が釣れるが、沼の上流側は淡水魚中心で、下流側は海水魚が中心となり、中間では両方が釣れる。その涸沼は、小学校時代に毎年夏休みに泊まりがけで父とハゼ釣りに来た想い出の釣場だ。浦和から涸沼までは、当時随分時間がかかったものだ。実は、初めてへらを釣ったのは(正確に言うと「釣れたのは」)涸沼だったのだ。普段は、和船を曳き船してもらい、ハゼを釣るのであるが、その時は、午後から、湖岸に立ち込んで、延竿でゴカイをエサにハゼを釣っていた。そこへ、何を間違ったのかへらが釣れたのだ。しかも数枚。それが、私の初めてのへらだった。

 涸沼は、昭和40年代後半に、へら雑誌で取り上げられ、脚光を浴びたことがある。水戸に越してすぐの頃は、涸沼川(正確には涸沼前川)でへらを狙っていたが、コイがうるさくて、なかなかへらが釣れなかった。そこで、本湖の船宿に相談したが、「昔は釣れたが、止めといた方がいい」となかなか良心的なアドバイスで船を貸してもらえなかった。仕方なく本湖の陸っぱりでやったのだが、なかなか日中は釣れず、結局ナイターでしか釣れなかった。ここではナイタ-を1晩中やった。遠浅で、しかも潮の干満で水位が大きく変化するのには参ったが、コイに混ざって、良型のへらが釣れた。そのへらには、今まで見たことのない大きなヒモ状の寄生虫がたくさん付いていた。あの時以来、未だに、へらにあんな寄生虫が付いているのを見たことがない。汽水という環境なので、寄生虫も塩分に強い特殊な種類のものだったのだろう。「あの時の寄生虫はいったい何者だったのか?!あの時、あの寄生虫について、詳しく調べておけば良かったと今になって悔やまれる。


昔行った釣場-水戸編 大塚池の外道

2009-03-12 21:36:39 | 想い出

 今の職に就く前に1年だけ水戸に住んでいたことがある。昭和59年のことだ。アパートの近所に大塚池という、公園化された池があった。そこで、へらを釣っている人を見かけたことはなかったのだが、本能的にへらがいると感じて、釣りをするようになった。非常に浅い池だったが、1カ所だけ、大きな桟橋(釣用のものではない)があり、その先端にあぐらをかいて釣りをしていた。日中は務めていたので、ほとんどナイターである。へらウキをサーチライトで照らしながら釣りをしているとあっという間に時間が経ってしまう。コイも混じったが、良型のへらも飽きない程度に釣れた。すぐ近くには大きなパチンコ店があり、夜でも手元は真っ暗ではなかった。そのパチンコ店は11時に閉店し、看板のネオンを消すと一瞬で真っ暗になってしまうのだが、消灯の瞬間、それに驚いた魚が水面で「バシャ!!」という大きな水音を発するのだ。大概、釣りをするのは11時位までだった。日付が変わる頃からは、アタリが遠くなってしまうのだ。

ある休日の日中、桟橋で釣りをしていると、アベックが竿をもってやってきた。一応竿を出して釣りの真似ごとをしていたが、ただのデートである。彼氏がジュースか何かを買いに出かけると、彼女は竿を出したまま食べていたお菓子を池の親子の白鳥に与えだしたのだ。すると、子供の白鳥の方に釣糸が絡んで外れなくなってしまった。彼女は大パニックで口もきけない状態だ。彼氏は戻ってくる気配無し。母鳥は、羽を逆立て、大きな声で鳴いて威嚇している。「ここは、俺が何とかするしかない!」母鳥による威嚇攻撃に耐えながら、糸をたぐり寄せ、子白鳥の足に絡んだ釣糸を何とかほどいてやった。

今でもこの白鳥は、今までの私の釣人生の中で外道の部のトップに君臨している。・・妻を除いては・・・・。


昔行った釣場-仙台編 自由が丘の大堤

2009-02-25 21:15:54 | 想い出

 今から30年ほど前、仙台市の自由ケ丘団地下の大堤(上の大きい池の方)には、ヘらが生息していた。何故、それを知ったか?大学時代、某環境アセス会社のバイトで冬場(2月の寒い日だった)に池の水深測定を行ったことがある(こんな専門的なバイトもあるんです)。私が釣り用のゴムボートを持っていたので、それを使って、定点を決めて水深を測定した。その時に、見事な大型へらがたくさん斃死していたのだ。当時、水質は生活雑排水の流入(?)で最悪の状態。周りに釣りをした形跡はなく、こんな所にへらがいるとは誰も思わないような汚れた池であった。冬場に氷が張り、酸欠で斃死したのか、その他感染症で斃死したのかは分からなかったが、斃死に水質が関与していろことは、間違いないと思った。その時、生き残りのへらがいるかどうか確かめたくて、3月か4月に1度だけ竿を出してみたことがあるが、へらのアタリはなかった。結局、生き残ったへらがいたかどうか分からずじまいで終わってしまった。池の周りの雑木林に春ランが咲いていたのを思い出す。

 今、あの池はどうなっているのかとグーグルの航空写真で見てみたところ、池の水色が明らかにおかしい。周りの他の池の水色と比較しても全く違う水色が映っている。30年前も汚れていて水色が悪かったが、30年たっても同じ状態なのだろうか?へらは居るのだろうか・・?


昔行った釣場-仙台編 下水処理場のボラの味

2009-02-12 20:21:09 | 想い出

下水道の行き先は、下水処理場でその先は海(場合によっては川)だ。仙台では、七北田川の河口に近い蒲生地区に処理場があった。処理水の排水口は砂浜に設けられていた。大学の研究室では、下水処理場の排水がノリ養殖に与える影響を調査していた。私は2年間、秋から冬にかけて処理場に毎日通った。処理場の排水と海水を色々な割合でリアルタイムに混合した水槽でノリを培養していたのだ。毎日、排水と混合水の水質を検査すると共に、ノリの葉長を測定していた。ノリは、葉全体が生長点で、条件が良ければ1日で1割も2割も大きくなるのだ。下水処理場の排水は、太平洋に流れ込むのであるが、その付近一帯は、ボラの群れで埋め尽くされていた。一面魚群で、波が盛り上がって砕けるその波は、ボラで真っ黒だった。絶対奴らは、ウンコを喰うために集まっているのだ!!

下水処理場の排水は、いくら処理したといっても臭く、黒く濁っている。大雨で雨水が下水に流れ込み、処理水量が多くなると、処理などしないで、そのまま海にスルーしているのだ。雨水で薄まればOK!と考えているらしい(信じられない事だが、事実だ。今は改善されたかも)。そこに群がるボラなど誰も食べようとは思わないのだが、私は喰ったド-!!

ある晩、研究室で酒盛りが始まったが、喰うものがない。唯一シラフだった私が処理場のボラを釣ってきて食べようと冗談で提案したところ、酔っぱらい連中は、まさかの賛成。真っ暗の闇の中で、15尺のヘラの仕掛けを砂浜の波打ち際に振り込むと、まさかの1発アッパー!もちろん餌など付けていない。良型が面白いようにスレてきた。持ち帰り、研究室でアライにするとこれが極めて美味。やっぱりウンコで育った魚は味が違う!!ドラフトで焼いてもみたが、こちらは臭くて食えなかった。

ボラは、アライにすると血合いもきれいでとても美味しい。今度、横利根で釣れたら食ってやろうか・・。

追伸:グーグルの地図(上空からの航空写真)で蒲生の処理場を見ると、黒い処理水が太平洋に流れ出ているのが良く見えます。その沖にはノリの養殖場が広がっているのも良く写っている。排水口前面海域の黒い影は、ひょっとするとボラの大群かもしれない。

 実は、仙台湾のノリ養殖にとって、仙台市の下水処理場の存在は極めて重要なのだ。この処理場が無かったら、仙台湾沖のノリ養殖は存在していなかった。ノリの成長には栄養塩が必要であるが、外海では栄養塩濃度が低く、ノリは成長するものの、色が付かず商品にならないのであるが、処理場からの豊富な栄養塩が外海でのノリ養殖を初めて可能にしたのだ。仙台湾のノリはウンコの栄養で育つ!!

 追伸2:後年、私の体内から病原性大腸菌が検出されたのであるが、ボラを喰った件とは一切関係ないと信じている。


昔行った釣場-仙台編 梅田川で俺は見た(昭和54~57年)その3

2009-02-08 20:12:12 | 想い出

 思い切って蓋を開けると想像通りの光景が・・。ウン・の山。そして、鼻を突く臭いが!!・・・。ウン・の臭いではなく、クレゾール消毒液の臭いだ。斃死の原因は、恐らく病院が下水に垂れ流したクレゾール消毒液がにわか雨による大水で一時的に梅田川に流れ込んだことによるものだと推測した。

 就職後も職場に斃死魚が持ち込まれて、調べて欲しいと依頼されることがよくある。その中には、見事なへら鮒の場合がある。持ってくる人は、余りの大きさにフナとは思わず、コイが死んだと、持ち込むのであるが、私も釣ったことのない40上の超大型ばかりのこともあった。こうなると、斃死原因なんてどうでも良くなり、「今度その池に行ってみるか・・」と思い巡ってしまうのだ。

 へら鮒は、よく春先(3月頃)に大量斃死する。外見はきれいなのだが、極度の貧血、腸管からの出血、腸管の壊死が見られるのが特徴だ。感染症であることは間違いないのであるが、詳しいことは調べられていない。毎年のように、どこかで起こる現象なので、慣れてしまうと「またか・・・」程度で終わってしまう。見た目には、池のへら鮒が全部死んでしまったかと思われるような大量斃死であるが、実際全体のどの程度の割合の魚が死んだかを調査した事例はない。


昔行った釣場-仙台編 梅田川で俺は見た(昭和54~57年)その2

2009-02-05 20:15:34 | 想い出

 当時、仙台は既に下水道が整備されていた。下水道には2つのタイプがあり、1つは、雨水と糞尿・家庭雑排水が一緒のラインで流れ、処理されるタイプ。もう1つは、雨水と糞尿・雑排水が別々のラインで処理されるものである。当時の仙台市は、前者のタイプだった。このため、大雨が降ると下水道は雨水で一杯になり、あふれた水を梅田川に排出していたのだ。夕立など一時的に大雨が降ると、ほんの少しの間、下水道から下水が梅田川に流れ込むのだ。

 ある夏の日、やはり前日の午後に激しい夕立があり、翌日に魚が死んでいるとの通報により、原因調査をしていた。川にはおびただしいウンコが見られる。これは、下水道が溢れ、水洗トイレからの糞便が梅田川に流れ込んだことを表している。にわか雨ではなく、低気圧などで大雨が続くような場合は、これらのものは、きれいさっぱり下流に流されてしまうのだが、にわか雨だとこのような状態になる。斃死事故も大雨の時には起こらず、にわか雨の後にだけ起こるのだ。大量のウンコと共に、コンドームがたくさん石に引っかかっている。初めてこれを見た時、周りのマンションの住人が、使用後のものを窓から川に投げ捨てるのかと思ったが、どうもそうではないらしい。使用後に水洗トイレに流す人がいて、それが下水と共に流れてくるものと推測した。

 調査の結果、斃死原因が分かる場合も分からない場合もあった。ある時は、斃死魚をたどりながら、上流に行くと、1つの下水吐き出し口にたどり着いた。その吐き出し口より上流には魚が死んでいないのだ。そこは、大きな病院の真下だった。排出口の蓋は、大きな鉄製で、普段はその重さでしまっているが、水圧がかかると自然に開く仕組みになっている。蓋の周りはウン・だらけで、手をかける場所もないほどだ。この蓋を開けるのは、力だけでなく、勇気が要るのだ!開けた途端、蓋に引っかかって溜まっていたウン・が雪崩のように・・・・・・。想像もしたくないです・・。しかし、蓋の奥に何か手掛かりになるものがきっとあるはずだ。好奇心と使命感でその蓋を思い切って開けてみると・・。

驚愕の結末は、この後すぐ!!


昔行った釣場-仙台編 梅田川で俺は見た!(昭和54年~57年)その1

2009-02-04 20:11:51 | 想い出

 梅田川は、仙台市の市街地を流れる、いわゆるドブ川である。完全に護岸化され、下水道の整備によって、普段は、ほとんど水の流れのない、ゴミだらけの川だった。ヘラの釣れるのは、梅田川といっても、梅田川が七北田川と合流する、合流点だけであった。正確にいうと、梅田川ではなく七北田川で釣りをしていた。その七北田川は、潮の干満で水位や流れが大きく変化する川で、当然ドボンである。私の好きだったポイントは、梅田川の合流点ではなく、45号線より少し上流の左岸側だった。七北田川でへらが釣れることを知ったのは、大学に入って間もない4月だった。某女子大との合ハイ(合同ハイキング)で、松島に行くのに仙石線に乗った際、七北田川の鉄橋を渡ると時に、パラソルの列が見えたのだ。話は、梅田川と大きく逸れるが(釣り以外の話を待っている読者もいるようなので・・本当は自慢話?)、合ハイの結果であるが、見事、向こう合わせで(ここが重要!あくまでも向こう合わせで、だ!)超美人をゲット!(リリースしなかった)暫くお付き合いをさせて頂いた。その彼女は、大学卒業後は、大学時代の夢を叶え、某テレビ局のアナになり、期せずしてテレビで毎日お目にかかることになった。就職後も手紙をもらったことがあり、喜多方川前のへら釣りの突撃取材でへら釣りをやったが釣れなかったと書いてよこした。大学時代、彼女に「俺の夢は日本一のへら師になることだ」と言っていたと手紙に書かれてしまった。(オー!恥ずかし!そんなバカな事言ってた記憶有りません!!)現在も、彼女は某テレビ局に籍を置いている。しかも当時の名字のまま・・。

話を梅田川に戻そう。大学の研究室では、魚の斃死事故についての調査を市と県から委託されていた。梅田川では斃死がよくあり、その調査を行う機会がたびたびあった。梅田川は水量の極めて少ないドブ川で、魚が生息していること自体間違っているような川だった。しかし、そんな川でも魚は生息していたのだ。場所によっては、アユまで棲んでいた。そんなドブ川なので、斃死事故が起きても不思議ではないのだが、仙台市の市街地を流れているため、人の目に触れやすく、すぐに通報が来るのだ。

魚の斃死事件の調査は、自分にとってすごく楽しい仕事だった。あらゆる知識、感覚が必要な仕事で、とてもやりごたえのある仕事だった。梅田川での斃死の特徴は、にわか雨の降った直後に起こることだ。  続く


昔行った思い出の釣場-5 丸田沢(釣りはしなかったが)

2009-01-30 21:03:52 | 想い出

仙台の大学ではで水産学(趣味の延長)を学んでいた。研究室には、大きな池があり、井戸水がふんだんに使えた。いたずらで色々な魚の種苗生産をこっそりやっていた。モツゴ、タモロコ、錦鯉、金魚、マブナそしてへら鮒。錦鯉は新潟県の水産試験場から日本一になった錦鯉の受精卵を送ってもらったこともあった。また、色々な魚を飼っていた。ヤマメ、ニジマス、草魚、青魚、そして、へらとコイの合いの子等々。へら鮒の種苗は、1t程のパンライト水槽に地下水を掛け流して飼っていた。生まれた時から数日おきに解剖し、腸の発達状況を金魚と比較観察してスケッチしていた。へら鮒は、生まれたては、金魚やマブナの腸と変わりないが、成長に伴い腸が伸び、腹腔内で複雑に折れ曲がっていく。最終的には、金魚やマブナの3倍ほどの長さになるが、これは、食性によるもので植物性の物を消化するために動物食・雑食性の魚類よりも腸が長くなるのだ。

 へらの子は1年間世話したが、結局、人間には慣れなかった。マブナや金魚、鯉は、人の姿を見ると「餌をくれ」と、一斉に水面に顔を出すが、へらは、全くこのような行動をとらない。配合飼料を与えても、全く無視し、しばらくして忘れた頃に、水槽の底で溶けかかった餌を少しずつついばむという感じだ。だから、飼っていてもちっとも可愛くないのだ。

 それでも1年飼育すると少し大きくなり、どこか、へらのまだ入っていない池に放流したくなった。結局、仙台市郊外の丸田沢溜池に放流することにした。数個のビニール袋に魚と酸素を詰めて運搬、放流し、放流の記念写真を撮った。当時、丸田沢では、釣台を構え、へらの格好で釣りをしている釣師を見かけることがあったが、へらは生息していなかった。何故それが分かったかというと、春先のハタキの最中に地引き網を引いたことがあるからだ(勝手に網を引いてはいけません!!)。網に入ったのは、見事に全てマブナだった。

 現在、丸田沢がどうなっているか分からないが、へらが生息しているとすれば、私が放流したへらの末裔かもしれない。あれから、30年近く経った。丸田沢にへらがいるかどうか誰か教えて欲しい!


昔行った思い出の釣場-4 樽水ダム

2009-01-24 19:15:31 | 想い出

  大学は仙台だった。仙台では、へらの釣れる場所があるか心配していた。大学に入学した4月に原付免許を取り、行動範囲が一気に広がった。原付を購入して初めて行ったのが名取市の樽水ダムだった。昭和54年であるが、樽水ダムの竣工が昭和51年なので、ダムができてまだ、3年目の事である。当時、ダムにはモクズガニが生息していた。ダムができる前に海から遡上してきて、ダムに陸封されたのだろう。

初めて行ったのは、4月下旬か5月上旬だったと思う。朝まで大雨が降り、お昼から雨が上がった蒸し暑い午後だった。ダム上流の流れ込みに着くとハタキの水音が聞こえた。大あわてで小さな沢の流れ込みで始める。大量のゴミが寄せられ、そのゴミの下ではたいていた。10尺でゴミの脇を狙うがなかなかアタリがでない。タナを浅くしていき、カッツケになったところで、小さな押さえ込むようなアタリで入れパクになった。ダブルの連発である。短時間で80枚ほど釣ったが、当時は全く実績の無い釣場でのこと、後日仙台の釣師に話しても誰にも信じてもらえなかった。

その後も毎年のように春にはハタキに遭遇して良い釣りを経験した。何時もハリスカッツケに近いタナで落ち込み釣りをしていたのだが、当時仙台での釣りはほとんどが底釣りで、私のような攻撃的な釣りをする人は居なかった。釣りをしていると、周りの釣師が寄ってきて、私の釣りを感心して眺めていた。自分で釣りをするより、私の釣りを見ていた方が面白いとよく言われたものだ。サイカチ沼では、「いいものを見させてくれた」と1万円を渡されたことがあり、びっくりしたことがあった。

当時の樽水ダムはまだ出来て日が浅かったため、ダム上流の流れ込みは、木など生えておらず、車で水辺まで降りて行けたが、就職後に職場の旅行でたまたま通りかかった時に見たところ、木が生い茂り、昔の面影は全くなくなってしまっていた。まるで、浦島太郎になったようで、月日の流れを感じた。


謹賀新年

2009-01-01 09:16:32 | 想い出

明けましておめでとうございます。

当ブログも開設2年になります。今後もよろしくお願いいたします。

さて、初釣りといえば、色々想い出す。東京湾のカレイ、越谷の用水路でのマブナ、河口湖でのワカサギ・・。そして、高校時代には、手賀沼のオダ釣り(手賀沼と言えば、長年日本で1番汚い湖沼に君臨していたが、最近は少しはましになったようだ)。当時、真冬に釣れる釣場は手賀沼のオダくらいしかなかったので、大変な賑わいだった。手賀沼は南と北に分かれているが、高校時代は、鉄道で容易に行ける釣場として北部手賀沼に通っていた。浦和から初電の京浜東北に乗り、日暮里で常磐線に乗り換え、安孫子で降りると船宿までは歩いてすぐである。船宿にはまだ暗い6時頃に到着し、引き舟でオダに向かうのだ。釣宿ごとにオダがあり、そのオダも色々特色があった。へらの数は、出なかったが、出れば大型で、外道として、コイッコのアタリが多かったので、飽きることはなかった。高校時代に1人で通っていたのだから大したものだ。高校時代には、釣友を集めて、初釣り大会を催したことがあった。結果は忘れてしまったが、外道を含め、そこそこ釣れたように記憶している。

ある日、一人で釣行した時に50cm程のコイが釣れた。船宿に持ち込むと、持って帰って食べてみろと言われたので、言われるままに、濡れ新聞に包み、へらバックの中に入れて持ち帰り、水に戻すと、元気に生き返った(2時間も水から上げても生きているのだから、コイの生命力は大したものだ)。祖母は食べたいと言ったが、さすがにかわいそうになり、兄に車を出してもらい、わざわざ、荒川まで放しに行った。

あれから30年以上が経つ。当時のオダは、朽ち果ててしまっているに違いない。それでも、冬になると手賀沼のオダのニュースを聞くことがある。機会があればまた行ってみたい釣場の1つだ。


昔行った思い出の釣場-3 ビン沼

2008-12-17 20:40:32 | 想い出

 中学、高校時代の野釣りのホームグランドは、荒川本流とビン沼だった。ビン沼は、荒川の旧川で、当時は両岸が灌木とヨシで覆われていた。ヨシの間には既設の釣台が設置されていたが、全体にはヨシで阻まれ、釣座は非常に少なかった。水深は非常に浅く、砂塚橋上流の通称墓場下は例外的に1m程の水深があったが、そのほかの場所は、50cm程度の水深しかなかった。有名なポイントは、最上流のオンドマリであったが、私の住んでいた浦和からは一番遠いポイントだったため、オンドマリでは竿を出したことがなかった。現在のビン沼は、河川改修により浚渫、護岸化され、昔の面影は全くなくなってしまったが、オンドマリだけは、昔のまま取り残され、昔のビン沼の風情を保っている。

 風情が無くなってしまったビン沼であるが、河川改修後は、水深が深くなり、足場も良くなり、大量に放流されるようになって、へら鮒釣場としては、以前より人気が出ているようである。休日には、ポイント争奪戦で深夜から大変な騒ぎらしい。その中に昔の良き時代のビン沼を知っている人はどの位いるのだろう?昔のビン沼にタイムスリップしてみたいなどと子供のようなことを考えることがある。まぶたに残る原風景が懐かしい。

 もう30年以上竿を出していない。

 今もオンドマリでは、へらが釣れるのであろうか?誰か教えてほしい。


昔行った思い出の釣場-2 戸田道満

2008-12-15 21:12:26 | 想い出

桃源郷で修業を積み、次に釣れていかれたのが、戸田市観光協会が管理している道満であった。道満は、小貝川吉野の並んで管理釣場の元祖であり現役バリバリの釣場であるが、当時まだ、管理釣場という概念は全くなかった。今と較べると当時の放流量は少なかったのだろう、なかなか釣れなかった。釣れても、池で自然繁殖した小べらが多いこともあった。子供釣場から逃げ出した金魚やザリガニなども釣れた。

通い始めた頃は、今の入口の反対側に入口があり、その脇に小さな売店があった。おばちゃんがラーメン等を作ってくれた。いつも小さな女の子が一緒にいた記憶があるが・・。

 昭和50年頃であろうか、入口が今の場所に移動した(今の場所と書いたが、実はもう30年以上道満に行っていないので、今のその場所に今も入口があるかどうかは分からないのだが)。売店も反対側に移転したが今もあるのだろうか・・・?

高校時代は、夏休みになると毎日のように道満に通った。炎天下の中、パサソルのささずに居られたのは若さ故だろう。釣りに行くたびに1日で体重が2~3kgも減ったが、体は何ともなかった。今だったら日射病でぶっ倒れるところだ。

常連だったので、顔なじみの釣師が何人かいた。こちらが高校生なのに釣りの世界では一人前に扱ってもらえるのが嬉しかった。

 当時、営業時間が終わると、係員が検量に回ってきた。釣ったキロ数によってはバッチが貰えた。また、当日の大型賞や重量の上位5名は入口に設置してある釣果ボードに名前が載ることになっており、当時はそれを励みに釣っていた記憶がある。当時、何故かドボンかカッツケでしか釣れず、特にドボンは強かった。当時から私はドボンには不信感があったので決して流れのないところではやらなかったが・・。

 道満に最後に行ったのは、大学が決まった春だった記憶がある。大学受験が終わったら真っ先に行きたい釣場リストのナンバーワンが道満だった。2番が荒川本流。3番は古き良き時代のビン沼である。道満の売店からは、岩崎宏美の歌が流れていた。今から30年ほど前の話である。


昔行った思い出の釣場-1 桃源郷

2008-12-13 17:59:59 | 想い出

桃源郷(何とすばらしいネーミング!

忘れ得ぬ釣り場と言えば、桃源郷FCだ。昭和47年、中学1年の時に初めてへらを釣った釣堀だ。旧与野市に有ったが、今から数年前にオーナーが急逝した後、残念ながら閉園してしまった。中学の友人に桃源郷に連れて行かれるまでは、越谷周辺や印旛沼、手賀沼、霞ヶ浦周辺でのマブナ、水郷地帯でのタナゴ、高麗川でのヤマベ(オイカワ)、東京湾でのハゼ、カレイ、富士四湖や円良田湖でのワカサギ釣りなど、へら以外の釣りを父に連れられてやっていた。桃源郷でへらに接してからは、「へら以外は釣りにあらず!」と思いこむようになり、へら一筋で、父とは一緒に釣りに行かなくなってしまった。父には、へら釣りを一生懸命教えようとしたが、父は、すぐに餌がハリから抜け落ちてしまう、忙しい釣りにはなかなか馴染めず、私が余りにもうるさく、「こうしなければ駄目だ!」などと言うものだから、父は次第にへら釣りを敬遠するようになってしまった。父は、私の弟子としては失格だったのだ

話を桃源郷に戻すと、池は2つあり、大きい方の池は、丁度コの字の形をしており、水深は8尺、手前が45℃のカケアガリになっていて、8尺チョウチンでカケアガリの終わりのところで底釣りが出来た。使用竿は8~15尺で池の真ん中に一直線にエアレーションが設置されていて、波よけの塩ビパイプが縦横に設置されているという、当時の流行の池だった。竿掛けは常設されており、玉網も釣堀の物を使うのが普通だった。半日の料金は、確か大人が700円、子供が半額の350円だったと記憶している。釣った魚は、フラシに入れ、釣り終了後に池主に検量をしてもらい、キロ数を貯めると1日券や半日券と交換出来るシステムだった。

 初めて桃源郷に行った日のことを今でもよく覚えている。雨の中、雨よけの三角バンガローを借り、8尺、カッツケ両ダンゴで午前中に9kg程釣った。まさしくカルチャーショックだった。こんなに面白い釣りがあることを初めて知り、今まで経験してきた釣りはへらと較べたら釣りの内に入らないと感じた。

それから桃源郷通いが始まった。自宅からチャリで桃源郷に着くのが朝の3時である。当然まだ開園していないが、フェンスを乗り越えて、星空の下でエサ打ち開始。朝食は桃源郷の玉子掛けご飯(当時コンビニなど無かった)。フラシを2つ使い、片方はスレの魚を入れて、喰った魚と区別していた。ウキは全長15cmのバルサ製で当然ブランコ付き。道糸1.2号、ハリスは0.8号。ハリは関東スレ6号の金メッキを使用していた。すこぶる魚影が濃く、カッツケを始めると、ウキの周りは一面魚の群れになってしまう状況だった。

 最後に桃源郷に行ったのは、高1になる春休みだったかもしれない。今から34年も前のことである。


釣りと受験

2008-05-31 13:53:29 | 想い出

  中3の夏休みといえば、部活動も終わり、高校受験に向けて、気合を入れて勉強を始めなければいけない時期だ。私は、毎日のように釣りに出かけていた。さすがに母の逆鱗に触れ、ある日釣り道具一式をどこかに隠されてしまった。薄々隠し場所は見当が付いたが、敢えて探し出す事はしなかった。こんな時に備えて、もう一式、友達の部屋に置かしてもらっていたのだ。私は、友達の家に勉強に行って来ると家を出ては、友達の部屋(離れになっていた)に立ち寄り、道具を持って釣りに行っていた。

しかし、秋以降は、さすがに釣りに行かなくなった。釣りに行かなかったからといって、その分勉強時間が増えた訳ではなかった。自分の中でけじめを付けていただけだ。私にはなんとしても入りたい高校があった。その高校に入るまでは、釣りを我慢して頑張ろうと思っていたのだ。釣りをエサにして、自分のやる気を奮い立たせていた。毎晩3時前に寝ることは無かった。勉強をしていたというより、ラジオの深夜放送に熱中していた。TBSのパックインミュージックだ。小島一慶、愛川欽也、ナッチャン・チャコチャン、山本コータロー、そして、土曜がオールナイトニッポンの鶴光。土曜日は5時まで聞いていた。

そんな生活だったので、常に寝不足、顔色が悪く、不健康そうな顔をしていた。勉強する机の傍らには、受験が終わったら行きたい釣場一覧を置いていた。1番が、戸田の道満。2番がビン沼。3番が荒川本流だったと思う。

ようやく中学受験が終えた日に、受験の帰り道にへらの雑誌を買って帰ったのを覚えている。そして、受験後最初に行ったのは、やはり道満釣場(戸田市観光協会が運営する管理釣場で、今も健在)だった。

今、下の子が中3だ。あの頃の私と同い年かと思うと不思議な気がする。うちの子はしょっちゅうテレビゲームを私の妻に隠されている。彼の場合、すぐに見つけ出して、再開するので、妻の逆鱗に触れ、大変な騒ぎになる。彼もまた、あの頃の私と同様に、昼と夜が逆転してしまっている。学校から帰るとすぐ寝てしまい、親が寝た後、起き出して活動を始める。作っておいた夕飯を夜中に一人で食べ、明け方風呂に入っているようだが詳細は分からない。青白い不健康そうな顔色も私そっくりだ。