ゆみこの『邁歩如猫行』

街で見かけた猫のこと、太極拳・中国武術のこと、日々の雑感を気が向いたときに書き綴ります。

焦らない

2015-10-31 22:59:09 | 太極拳
「落ち着いてください」。

今度、日本語教室の発表会でやる劇の中の台詞だ。「おちついて」と言う言葉が口が回らずなかなか言えないと受講生。音節が長く初めて見るフレーズなため、つい気持ちだけが先走って慌ててしまうのだ。「落ち着いて」と言う言葉を何度も練習するうちに受講生が分かったのは、文字通り落ち着いて発音すれば「落ち着いてください」は難なく言えると言うことだった。

「落ち着いてやりましょう」。これは太極拳の講習会でも何度も言われた言葉だ。このほかには「頑張らない」、そして何よりも「焦らない」。

太極拳の基本。次の動作に入るための条件が整わないうちは次の動作に慌てて行かない。焦って慌てるから、軸がぶれたり、不安定になったりする。その結果、頑張らざるを得なくなる。いつもよりもゆっくりと、慌てずに、要求される一つ一つの動作を確実にこなしていく。最初から最後まで首尾一貫して「焦らない」「落ち着いて」と言うことを繰り返し、繰り返し言われる。

緊張すると気が上がるから、まず足腰が言うことを効かなくなるそうだ。そのせいで気ばかり急くから手だけで動く。

焦っても良いことはない。太極拳をするときも、まずは「落ち着いて」、そして絶対に「焦らない」。
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休胃日

2015-10-30 22:31:44 | 美容・健康
今日は休肝日ならぬ、休胃日。

食べると副交感神経優位になり、ストレスがあると交感神経が優位になる。ストレスを手っ取り早く中和するため食べる。それでこのところ胃疲れなのだ。

夏からずっと緊張とストレスの連続だった。今回の休胃日は一日では足りないかもしれない。
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空想する生き物

2015-10-29 23:15:42 | コンサドーレ札幌・日本ハムファイターズ
人は空想する生き物だ。

北海道日本ハムファイターズの大谷投手のサインボールが手に入った。殴り書きのような11と言う背番号以外は、どう解読したら良いのか分からない。それでもサインボールを入手した本人は大谷投手のサインボールで間違いないと太鼓判。入手経路を尋ねても、やはり本物であることを疑う余地はない。

大谷投手のファンを自称する母にそれをプレゼントすると、母ははしゃいだ。そして頭の中で空想が始まった。

サインを眺め、ボールを何度も握り、大谷投手がこのボールにどんな場所で、どんなふうに、どんな気持ちでサインを書いたのか想像をめぐらしていた。そして最後は大谷投手の健やかな力強さにあやかるために居間の一番目立つ場所に飾られた。

ひょっとしたらスポーツ選手は「通常業務の一環」で殊更の思い入れもなくサインボールやサイン色紙を書いているのかもしれない。しかし選手の手を離れて、受け手の側に渡ると、それは神聖化され、時に神様以上の存在にもなる。ただの丸いボールなのに、特別な力を帯びた特別な物になってしまうのだ。それはまさに人間が空想する能力を持った生き物だからだろう。

母にとって大谷投手のサインボールは一ファンと有名選手を間接的に繋げる媒体であるのに加え、闘病中の心を支える大きな励みにもなっている。
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やる気レベル

2015-10-27 23:28:08 | 日記
ちょっと面倒で気の重い作業を誰かと一緒にやらなければならないとき、自分の中のやる気のレベルを無理して数段階アップさせる。つまり気分を0からプラス2くらいまで無理やり引き上げる。

でもそんなときに一緒にやるパートナーから、面倒くさいとか、やりたくないとか言う理由を散々聞かされ、ネガティブな言葉のシャワーを浴びると、せっかくプラス2まで頑張って上げた自分の気持ちまでがマイナスな気分になる。そこから気を取り直して気分を上げようとしても、0から2に上げるのに比べ、マイナス2まで下がった気持ちをプラス2まで上げるには単純にみれば倍のエネルギーが必要になる。

言葉はプラスのエネルギーもマイナスのエネルギーも放つ。
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自分ととことん付き合う

2015-10-26 23:04:27 | 日記
体育館に行く途中には寺がいくつかある。浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗などなど。そのうちの一つの掲示板にあった言葉。思わず振り返って見してしまった。

「だれも自分から逃げることはできない。だからとことん自分と付き合いなさい。」

私自身、忘れてしまいたい恥ずかしい過去もあるし、自分の性格に呆れたり、心の弱さに情けなくなったり、嫌気がさしたりするときもある。そういう部分も含めて自分は自分で、そんな自分と向き合い、とことん付き合うこと。嫌な他人とだったら適当に距離を置いて付き合うこともできるが、この世に生きている限り、自分と言う存在からだけは絶対に逃げられない。だから嫌な自分、弱い自分も含めてしっかり向き合わざるをえない。これは自然な道理だ。

そして自分と向き合い、自分を知れば、自分の座標軸も見えてくるし、それが自己肯定の第一歩になるのかもしれない。

体育館周辺の様々な寺の住職さんは私のような通行人がいることを知っているのか、いないのか。いずれにしても掲示板に何気なく貼りだされているそんな言葉にいつも心を動かされる。色々な寺の掲示板を眺めるのは体育館に行く時の副次的な楽しみでもある。
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