攻撃中止後、三人で次にとるべき行動を話し合うと、41才になった足怪我の治療を二人から受けて少しは回復した島田さんがここにいたいという。投降した赤津さんからこの場所が知られているからと小塚と喧嘩になり小野田さんが島田さんの意見を尊重して留まった。
果物ナンカを倒木の上に並べたが、日が沈むと島田さんが谷へ下ろしたことから、居場所を知られまた銃撃戦に、射撃の名手島田さんが立撃ちの姿勢から打たれ亡くなった。残された二人は島田さんが日章旗を見て友軍と思い撃たなかったのではないかと推測したが、私は島田さんの銃撃戦のケガから、自分の家族の写真のビラを見たりする郷愁の念と合わせて、自殺行為ではないかと推測した。
朝鮮動乱ベトナム戦争での上空飛来の飛行機から戦争続行していると思っていた二人は、食糧確保で稲の焼き払いから銃撃戦となり、1972年に島田さんが亡くなってから17年後小塚さんを亡くした。
一人になった小野田さんは、小塚さんの戦死後1年4ヵ月後1974年2/20夕刻鈴木さんと出会い、写真撮影に応じ、2週間後3/5「口達す」のビラから99%信用、3/9谷口少佐から「作戦任務解除命令」を受け、マルコス大統領から罪なしの許可を得晴れて帰国した。4年に一度の閏年を考慮した自作歴30年間で6日早い誤差であったという何事にも驚異的な生活の足跡を残していた。
果物ナンカを倒木の上に並べたが、日が沈むと島田さんが谷へ下ろしたことから、居場所を知られまた銃撃戦に、射撃の名手島田さんが立撃ちの姿勢から打たれ亡くなった。残された二人は島田さんが日章旗を見て友軍と思い撃たなかったのではないかと推測したが、私は島田さんの銃撃戦のケガから、自分の家族の写真のビラを見たりする郷愁の念と合わせて、自殺行為ではないかと推測した。
朝鮮動乱ベトナム戦争での上空飛来の飛行機から戦争続行していると思っていた二人は、食糧確保で稲の焼き払いから銃撃戦となり、1972年に島田さんが亡くなってから17年後小塚さんを亡くした。
一人になった小野田さんは、小塚さんの戦死後1年4ヵ月後1974年2/20夕刻鈴木さんと出会い、写真撮影に応じ、2週間後3/5「口達す」のビラから99%信用、3/9谷口少佐から「作戦任務解除命令」を受け、マルコス大統領から罪なしの許可を得晴れて帰国した。4年に一度の閏年を考慮した自作歴30年間で6日早い誤差であったという何事にも驚異的な生活の足跡を残していた。
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