第4回は、「堀内家」と須坂藩の関りです。
堀内家は、須坂藩の財政窮状を救ってきまじた。
🔲 『綿内誌』には、「――また『堀内五十治座右記録』には文化元年(1804)の須坂藩の「江戸御邸御召出府二付諸色調覚」に530両1分を御用達し、同年の江戸屋敷新築には70両を献金している。こうしたことから、苗字帯刀が認められていたのである」と、田中家とともに藩の財政窮状を救っていたことがわかります。
🔲 その辺りを時系列で追ってみますと
○ 1791年(寛政3) 17代宗三逝去
○ 1796年(寛政8) 18代五十治、藩から1300俵の租米換金割り当て受ける
○ 1803年(享和3) 祖母加無、藩主より褒賞(打掛など)を賜る
○ 1804年(文化元) 五十治、藩に530両1分を御用達、藩命で上京し才覚金を工
面する
――となります。加無さんへの褒賞の翌年には、藩に530両もの御用達です。その背景には、藩の財政対策があったのかもしれません。

🔲 堀内家には、沢山の貴重な古文書類が残されています。上の写真は、18代堀内五十治(泰雄)さんが記載した『座右記録』と、19代屯人(泰禮さん=陽堂梅兆は号)が記載した『座右雑記』。『座右記録』には祖母加無さんの褒賞の顛末や、褒賞文の(写)も触れられています。
=現代のオバアチャンは 毎朝ボランティア=
🔲現代のオバアチャンは、地元小学校の登校児童を見守り続けて12年になります。

「孫が小学校へ行くようになって始めたの」と、23代目の妻・・・。誰にでも続くものではありません。『三方紀聞』流に紹介すれば、「佐久の▢▢家から嫁いで、2人の子と4人の孫を育て、地区の自治協議会副会長など地域活動にも貢献し・・・」となるでしょうか。現代の「祖母」も、後の世の模範です。「行ってらっしゃい!」、今朝も元気な声が通学路から聞こえています。
その❷-2 「 堀 内 か 事 蹟 」
堀内家は、須坂藩の財政窮状を救ってきまじた。
🔲 『綿内誌』には、「――また『堀内五十治座右記録』には文化元年(1804)の須坂藩の「江戸御邸御召出府二付諸色調覚」に530両1分を御用達し、同年の江戸屋敷新築には70両を献金している。こうしたことから、苗字帯刀が認められていたのである」と、田中家とともに藩の財政窮状を救っていたことがわかります。
🔲 その辺りを時系列で追ってみますと
○ 1791年(寛政3) 17代宗三逝去
○ 1796年(寛政8) 18代五十治、藩から1300俵の租米換金割り当て受ける
○ 1803年(享和3) 祖母加無、藩主より褒賞(打掛など)を賜る
○ 1804年(文化元) 五十治、藩に530両1分を御用達、藩命で上京し才覚金を工
面する
――となります。加無さんへの褒賞の翌年には、藩に530両もの御用達です。その背景には、藩の財政対策があったのかもしれません。

🔲 堀内家には、沢山の貴重な古文書類が残されています。上の写真は、18代堀内五十治(泰雄)さんが記載した『座右記録』と、19代屯人(泰禮さん=陽堂梅兆は号)が記載した『座右雑記』。『座右記録』には祖母加無さんの褒賞の顛末や、褒賞文の(写)も触れられています。
=現代のオバアチャンは 毎朝ボランティア=
🔲現代のオバアチャンは、地元小学校の登校児童を見守り続けて12年になります。

「孫が小学校へ行くようになって始めたの」と、23代目の妻・・・。誰にでも続くものではありません。『三方紀聞』流に紹介すれば、「佐久の▢▢家から嫁いで、2人の子と4人の孫を育て、地区の自治協議会副会長など地域活動にも貢献し・・・」となるでしょうか。現代の「祖母」も、後の世の模範です。「行ってらっしゃい!」、今朝も元気な声が通学路から聞こえています。


















