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若穂の歴男、歴女の掲示板

長野市の一地区ですが、以前は上高井郡若穂町でそのまた昔は綿内村、川田村、保科村。集まる情報の一つひとつが現代の歴史です。

『三峯紀聞』が書き記した綿内村のこと (4) 

2021-02-25 19:48:21 | 日記
第4回は、「堀内家」と須坂藩の関りです。
   

その❷-2     「 堀 内 か 事 蹟 」


堀内家は、須坂藩の財政窮状を救ってきまじた。
🔲 『綿内誌』には、「――また『堀内五十治座右記録』には文化元年(1804)の須坂藩の「江戸御邸御召出府二付諸色調覚」に530両1分を御用達し、同年の江戸屋敷新築には70両を献金している。こうしたことから、苗字帯刀が認められていたのである」と、田中家とともに藩の財政窮状を救っていたことがわかります。


🔲 その辺りを時系列で追ってみますと
  ○ 1791年(寛政3)  17代宗三逝去
  ○ 1796年(寛政8)  18代五十治、藩から1300俵の租米換金割り当て受ける
  ○ 1803年(享和3)  祖母加無、藩主より褒賞(打掛など)を賜る
  ○ 1804年(文化元) 五十治、藩に530両1分を御用達、藩命で上京し才覚金を工 
    面する
――となります。加無さんへの褒賞の翌年には、藩に530両もの御用達です。その背景には、藩の財政対策があったのかもしれません。





🔲 堀内家には、沢山の貴重な古文書類が残されています。上の写真は、18代堀内五十治(泰雄)さんが記載した『座右記録』と、19代屯人(泰禮さん=陽堂梅兆は号)が記載した『座右雑記』。『座右記録』には祖母加無さんの褒賞の顛末や、褒賞文の(写)も触れられています。



=現代のオバアチャンは 毎朝ボランティア=

🔲現代のオバアチャンは、地元小学校の登校児童を見守り続けて12年になります。




「孫が小学校へ行くようになって始めたの」と、23代目の妻・・・。誰にでも続くものではありません。『三方紀聞』流に紹介すれば、「佐久の▢▢家から嫁いで、2人の子と4人の孫を育て、地区の自治協議会副会長など地域活動にも貢献し・・・」となるでしょうか。現代の「祖母」も、後の世の模範です。「行ってらっしゃい!」、今朝も元気な声が通学路から聞こえています。


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『三峯紀聞』が書き記した綿内村のこと (3)

2021-02-08 15:47:10 | 日記
第3回は、「堀内家」の立派なオバアチャンのことです
   
その❷-1  「 堀 内 か 事 蹟 」



  


 《現代語訳》    ―須坂市文化財調査会会長  徳 永 哲 夫―
 信濃国高井郡の綿内村は、もとより須坂藩主公の領土である。この綿内村に堀内某なる者があって、家代々資産家であった。祖母は上田の斉藤家の娘であった。堀内家に嫁いでまだ幾年を経ずしてみごもったが、その子が生まれないうちに夫が若死にしてしまった。幼い遺児を一心に良く養育した。その上真心をもって姑に仕え、誠心誠意決して怠ることなく務めた。まわりの人達は、若くして夫を喪ったことをあわれに思って再婚するようすすめたが、すべて断って聞き入れなかった。そしていよいよ志操を堅固にしてつとめ励んだ。その子供が成長して泰顕と称した。
 大変な学問好きで勉強に励み、しかもますます家産も豊かになった。まごころ厚く慈しみ深い人柄であったから、郷土の人々は「本当に長者である」とほめ讃えた。これも皆母親の立派な訓育によるものといわれていた。
 妻をめとって一男二女をもうけ、母とともに住んで模範的な家族であった。ところが、寛政三辛亥(かのとゐ一七九一)年春、泰顕が病にかかって亡くなり、続いてその妻もまた若死にしてしまった。そこで祖母は、家事一切の処理はもちろん三人の幼い遺児を愛育する姿は若き日の昔にかえったような生き方であった。家も乱れることなく、親類とも親密を深めた。この家に初めてよめ入ってから五十年を一日の如く表裏なく務めたので、郷土の人々は心からこれをほめ讃えた。今ここに享和三癸亥(みずのとゐ一八〇三)年冬、藩主は特に書並びに家紋入りのうちかけを賜ってこれを褒賞された。
 私はちょうどお役目をいただいてこの事を聞き及び、文を作って公表することになった。
まとめの文として七言八句を作った。


  確然志操動公臺  ・確固たる志操が藩主公を感動させた   
  忽承恩輝瑞色開  ・たちまち恩賞を受けて喜び広められた
  香遠薫蘭幽植質  ・徳の薫りが深く伝えられて子孫が正され
  歳寒松柏節堅材  ・厳しい寒気に松柏の良材がつくられるように
  断機敦子追先哲  ・機(はた)の糸を断って子を教えた優れた先人を偲んでつとめ育てたから
  賜錦榮家範後来  ・錦を賜って家が栄え、後の世の模範となった
  徳自不孤隣里化  ・徳というものは一人ぼっちにはならない。必ず隣人が感化されていくものである
  名聲長此満藁菜  ・だから名声は高く長く後代に伝わり家に満ち満ちている


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      ▽ この文もすべて漢文であるが読み易く書きおろし、最後の八句を原文のまま記した。
      ▽ これは若穂綿内の堀内豊城家の先祖にかかわる実話である。
      ▽ この写真は褒賞に賜ったうちかけを着た祖母の画像の掛け軸である。  
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



(加無さんの墓)


『三峯紀聞』の記述を、現状を交えて追ってみます

 まずは「堀内家」の概要紹介から・・・
 堀内家は、綿内の町通り(国道403)に面した中程にあります
『綿内誌』(平成17年市制100周年事業発行)によれば、「――江戸時代のはじめまでは、町田に家を構えーー(略)――須坂藩の命を受けて、谷街道沿いに町を形成したのが堀内家で、その際堀内家も多くの家々とともに町に移ってきたのである。堀内家は須坂の田中家とともに特別に須坂藩の租米その他の処分を委任された御用商人で、その主な仕事は藩が農民から徴収した租米を換金することであった」と、あります
 『三峯紀聞』に紹介されている「祖母」とは16代宇右衛門(則泰)さんの妻加無さんで、若死したその子は17代宗三(泰顕)さんということになります
当代の○○さんで、24代目になる
旧家です

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『三峯紀聞』が書き記した綿内村のこと (2)

2021-02-05 20:17:18 | 日記
第2回は、真言宗の古刹「蓮台寺」の続きです


   
その❶-2 「大(泰)澄禪師作佛並星之井」


『三峯紀聞』の記述を、現状で追ってみます

――これは皆当時の開基大澄禅師の自作であった。(大澄=泰澄は越前 の生まれで蓮台寺に九年住んだ)
 越前の修験僧、泰澄がなぜ綿内の大柳の地にやってきたのか?
北になる高井郡八町から綿内山新田に通じる「のっこし」(馬越峠)には、林道改修を記念する石碑があり、そこには《高甫地域文化財史跡》の

「・・・昔、天平年(729-749)中 聖武天皇諸国に国分寺を御建立せられるに当り禅師勅命を奉じ諸国を巡錫され善光寺に佛参ありける時朝に東を眺むれば三上山「明徳山」に五色の雲棚引くを見て佛法弘道の瑞雲なりと思召され三上山に登り絶頂なる開基岩のもとにて心を澄まし行われければ山の主なる白鬚の翁御姿を顕し吾は是八大竜王の本地明徳なり云々と言い終わりて御形は見えずなりにけり 禅師神の示現により九品の阿弥陀如来を御彫刻ありて欣求浄土の法門を説きたまいて衆生を済度したまうと共に白鬚大明神の御姿を彫刻して明徳山に祀られこれに通ずる道路を開かれし・・・」 (抜粋)

・・・・とあります。






(白髭大明神が祀られる妙徳山)


つまり
❶聖武天皇の命で諸国を巡る禅師は ❷善光寺に参拝し ❸その折、朝に東の山に五色の雲が流れるのを見て ❹妙徳山に登り、そこで白髭翁のお告げを得て ❺九品の阿弥陀仏を彫って寺を開き、白髭大明神を彫って山に祀った・・・という次第です

――この寺のお堂や大きな建物は火災のため焼失、わずかに九品仏のうち一体と仁王尊だけが焼け残った。
 唯一焼失しなかった阿弥陀如来坐像は、国の重要文化財として別棟の収納庫に保管されています
年に一日、5月8日の「花祭り」の日に御開帳されています






――宝永年間(1707年頃)智光律師が住職の時、焼けた八体の尊像を補修し現在は九品仏が全部備わっている。
 焼失した8体を補修(再造)した中興の祖77世智光律師(僧の位)は、地元の駒沢氏出身で、須坂藩の家老駒沢季栄の子といわれています
それにしても、8体もの再造の原資はどこから?
「駒沢氏の力が本だと思うが、家老としての立場から須坂藩からも何らかの支援をえたのでは・・・」と、宮澤住職は推測されます

――信哲は昔の師匠の智光律師の高徳を慕って蓮台寺に来て暫くこの寺に住み、智光の後嗣の尊海と協力し、三人で常行念仏をはじめた。
 師、智光は本堂の外がわの戸締りを厳重に釘付けにし「念仏の音響が絶えて聞えなくなったら死期であると知ってくれよ」といって跡継ぎの尊海にさえ堂内に入ることを許さず往生したと言われます
即身仏になったという意味でしょう
その墓石には「中興開山法印智光」とあり、側面には後継者の「尊海」の名前があります








――また本堂の裏に古い井戸があって七曜星が写るというので「星の井」と呼んでいるそうだ。
 「星之井」と言われた井戸は、目立ちませんが今も本堂の裏にあり、のぞき込むと、2㍍くらいの深さで水面が見えています
「七曜星」とは北斗七星のことで、日・月・火・水・木・金・土の7星ともいうそうです



味わい深いですね

天平の時代から、綿内村とともにあった「九品仏」の寺、蓮台寺・・・
一段と味わい深くなったことでしょう


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『三峯紀聞』が書き記した綿内村のこと (1)

2021-02-04 12:46:00 | 日記
江戸末期の嘉永6(1853)年頃、須坂藩の家老・丸山辰政が藩内の事物について書き記した『三峯紀聞』には、綿内村に関わるものも9つあります。昭和58~60年に、須坂市の徳永哲夫先生が須坂新聞に現代語訳を連載されていますが、あれから約40年が経ち、若穂郷土史研究会ではその『会報』に綿内村のいくつかを紹介しています。その一部です。


(復刻された『三峯紀聞』)


第1回は、真言宗の古刹「蓮台寺」が舞台です 

その❶-1 「大(泰)澄禪師作佛並星之井


  《現代語訳》    ―須坂市文化財調査会会長 徳永哲夫ー

越智山蓮台寺(をちざんれんだいじ)は、須坂藩の領地の中では第一の古跡であって、天平年間(737年頃)からの古い寺だ。住職は八十三世にもなっている。千年以上の年月を経た九品の阿弥陀仏の大仏像と仁王力士一対があったが、これは皆当時の開基大澄禅師の自作であった。(大澄=泰澄は越前の生まれで蓮台寺に九年住んだ)この寺のお堂や大きな建物は火災のため焼失、わずかに九品仏のうち一体と仁王尊だけが焼け残った。
宝永年間(1707年頃)智光律師が住職の時、焼けた八体の尊像を補修し現在は九品仏が全部備わっている。智光という人は師匠よりも優れた人材で、祈祷のわざなどにもすぐれた効験があり神わざといわれていた。
ある日、子供が鉄の輪にはさまれて泣き悲しんでいたのを、智光律師が錫杖を振って祈祷したところ、たちまち音がして鉄の輪が離れてしまったという話である。のちに常念仏堂も建立した。またこの人は、前知能力も豊かであったが、ある日「名僧が来るだろう」と予言、自ら心身を浄めて夕暮れまで待っていたが何の音沙汰もなかった。ところが夜に入ってからうしろの山あたりから寝室の戸をたたく人があった。これは江戸の祐天増上の孫弟子の信哲であって、道徳修業のすぐれた僧であった。今は祐天寺の後継者として高貴の僧になっている。(信哲は三年間蓮台寺で念仏修業した)
信哲は昔の師匠の智光律師の高徳を慕って蓮台寺に来て暫くこの寺に住み、智光の後嗣の尊海と協力し、三人で常行念仏をはじめた。そして念仏行満願の日に、白い蛟(みずちー龍の一種)が現れるなど奇らしくめでたい出来ごとがあったとかいう話である。
寛保二年壬戌(みずのえいぬー1742)冬十月三日、智光法印は本堂で永の別れを告げ、身体を洗いきよめ、きよらかな衣に着がえ、本堂の外がわの戸締りを厳重に釘付けにし「念仏の音響が絶えて聞えなくなったら死期であると知ってくれよ」といって跡継ぎの尊海にさえ堂内に入ることを許さず往生したという。世にも珍しく尊いことではないか。
また本堂の裏に古い井戸があって七曜星が写るというので「星の井」と呼んでいるそうだ。


            * * * * * * * * *
▽蓮台寺は越智山九品院蓮台寺という真言宗の寺。現住職は八十七世章泰という。
▽昔は仁王門から本堂に至る間(約五百㍍)七堂伽藍十二院が威容を誇っていたという。
▽焼けなかった九品仏の一体は国の重要文化財に指定されている。

▽開山泰澄作といわれる仁王像は明治四十二年の火災で焼け焦げたが現存している。


(再造された阿弥陀如来坐像(8体の内の4体)


                                        (小)
 
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