若穂町の誕生で作られた『若穂音頭』・・・。
その2番の歌詞には
水はナァ 水は豊かに チョイ
銀の帯ひく 銀の帯ひく 千曲川
誰と逢瀬の 落合橋か サテサテ
今じゃ見事な いまじゃ見事な ホイ
鉄(かね)の橋
・・・と永久橋(鉄)となった落合橋への喜びが込められています。
善光寺平を二分する大河、千曲川と犀川の合流点に架かる落合橋は、昭和41年(1966)に地元の念願かなって“永久橋”となりました。ローカル紙『週刊長野』の市政アーカイブ記事は、次のように伝えています。
《04 〜相次ぎ永久橋に架け替え〜 》 (2012年8月25日号掲載)
「・・・新落合橋の建設工事は倉島市政の1962(昭和37)年に始まり、夏目市政の66年に竣工した。長さ948メートル余。洪水に備えて橋げたが高く耐震性の強い鋼板橋で、当時は県内最長の橋であった。この架橋は若穂地区の長野市への合併の有力な要因となった。次いで屋島橋も70年に永久橋となった。 (『長野市誌第七巻歴史編 現代』による)」
その昔の、橋の様子はどうだったか?若穂郷土史研究会発行の『若穂町誌』(平成30年2月)によれば
―千曲川・犀川両岸の牛島と大豆島との交通は江戸時代から渡し船で行われていた。明治13年(1902)に、千曲川と犀川が落ち合う千曲川筋と犀川筋にそれぞれ船橋が架設された。明治35年(1902)に犀川船橋が木橋に架け替えられ、大正11年(1922)には千曲川船橋に木橋が架けられた。大雨で増水すると警戒態勢がとられ、消防団などにより橋板撤去が行われた。戦後落合木橋に重量制限がかけられ、路線バスが橋を渡るとき、乗客はバスから降ろされて徒歩で橋を渡ったという。
昭和34年11月、若穂側・大豆島側両岸住民の多年の念願がかなうこととなった。倉島期成同盟会会長・石田若穂町長・県議会代表など関係者40数名が出席して厳粛な起工式が行われ、翌35年早々に落合橋永久橋化工事が始められた。着工から6年余りたった昭和41年11月、全長948メートル、幅員12.5メートルの永久橋が竣工した。工費は約4億円であった。


起工式が行われた昭和34年(1959)は、上高井郡下の綿内村、川田村、保科村の3か村が合併して上高井郡若穂町が誕生した年です。落合橋の永久橋化には、それを遡る長い努力の積み重ねがありました。
『綿内村公民館報』は、その下りを次のように記録しています。
《落合橋 永久橋に》 (昭和26年7月15日発行)
大綿内建設発展には是非落合橋を永久橋に、かけかえすべく十数年以前より要望されて居たが今回対岸の長野市、大豆島村も長野市を発展させるには是非落合橋を永久橋に架け換る可しとなし、去る六月十八日落合橋新設期成同盟会結成準備会を大豆島役場に招集しいよいよ七月十五日長野市、大豆島村、綿内村、川田村、保科村、長野電鉄が主催となって一市四カ村の議会議員一円それに関係当局が集合、地元出身衆参両議員、県会議員の参加を得、盛大な発会式を行った。

落合橋新設期成同盟会は昭和26年(1951)に発足したわけです。起工式に至るまでには8年もの歳月を要したことになります。
その落合橋もすでに築43年・・・。老朽化と渋滞で、架け替えが急務の状況です。
(小)
その2番の歌詞には
水はナァ 水は豊かに チョイ
銀の帯ひく 銀の帯ひく 千曲川
誰と逢瀬の 落合橋か サテサテ
今じゃ見事な いまじゃ見事な ホイ
鉄(かね)の橋
・・・と永久橋(鉄)となった落合橋への喜びが込められています。
善光寺平を二分する大河、千曲川と犀川の合流点に架かる落合橋は、昭和41年(1966)に地元の念願かなって“永久橋”となりました。ローカル紙『週刊長野』の市政アーカイブ記事は、次のように伝えています。
《04 〜相次ぎ永久橋に架け替え〜 》 (2012年8月25日号掲載)
「・・・新落合橋の建設工事は倉島市政の1962(昭和37)年に始まり、夏目市政の66年に竣工した。長さ948メートル余。洪水に備えて橋げたが高く耐震性の強い鋼板橋で、当時は県内最長の橋であった。この架橋は若穂地区の長野市への合併の有力な要因となった。次いで屋島橋も70年に永久橋となった。 (『長野市誌第七巻歴史編 現代』による)」
その昔の、橋の様子はどうだったか?若穂郷土史研究会発行の『若穂町誌』(平成30年2月)によれば
―千曲川・犀川両岸の牛島と大豆島との交通は江戸時代から渡し船で行われていた。明治13年(1902)に、千曲川と犀川が落ち合う千曲川筋と犀川筋にそれぞれ船橋が架設された。明治35年(1902)に犀川船橋が木橋に架け替えられ、大正11年(1922)には千曲川船橋に木橋が架けられた。大雨で増水すると警戒態勢がとられ、消防団などにより橋板撤去が行われた。戦後落合木橋に重量制限がかけられ、路線バスが橋を渡るとき、乗客はバスから降ろされて徒歩で橋を渡ったという。
昭和34年11月、若穂側・大豆島側両岸住民の多年の念願がかなうこととなった。倉島期成同盟会会長・石田若穂町長・県議会代表など関係者40数名が出席して厳粛な起工式が行われ、翌35年早々に落合橋永久橋化工事が始められた。着工から6年余りたった昭和41年11月、全長948メートル、幅員12.5メートルの永久橋が竣工した。工費は約4億円であった。

(木橋をゆく路線バスと、平行して建設が進む”永久橋”)

(増水すると橋桁をはずし、流されるのを防ぎました)
起工式が行われた昭和34年(1959)は、上高井郡下の綿内村、川田村、保科村の3か村が合併して上高井郡若穂町が誕生した年です。落合橋の永久橋化には、それを遡る長い努力の積み重ねがありました。
『綿内村公民館報』は、その下りを次のように記録しています。
《落合橋 永久橋に》 (昭和26年7月15日発行)
大綿内建設発展には是非落合橋を永久橋に、かけかえすべく十数年以前より要望されて居たが今回対岸の長野市、大豆島村も長野市を発展させるには是非落合橋を永久橋に架け換る可しとなし、去る六月十八日落合橋新設期成同盟会結成準備会を大豆島役場に招集しいよいよ七月十五日長野市、大豆島村、綿内村、川田村、保科村、長野電鉄が主催となって一市四カ村の議会議員一円それに関係当局が集合、地元出身衆参両議員、県会議員の参加を得、盛大な発会式を行った。

(貴重な証言となった『綿内村公民館報』の綴り・・・)
落合橋新設期成同盟会は昭和26年(1951)に発足したわけです。起工式に至るまでには8年もの歳月を要したことになります。
その落合橋もすでに築43年・・・。老朽化と渋滞で、架け替えが急務の状況です。
(小)








