―12月12日に「大明国師南院国師顕彰法要」―
京都南禅寺を開山した大明国師(無関普門)は、若穂保科の地を領有していた保科氏の出身(保科長時の子)で、二代目の南院国師も長野市長池の出身。そんな関係で廣徳寺(宮澤孝典住職)の門前には南禅寺により立派な顕彰碑が建立されていて、毎年この時期に南禅寺の僧が訪れて顕彰法要が行われている。12月12日のこの日は南禅寺、廣徳寺檀徒、地元関係者ら約50人が出席した。


法要に続いて『保科誌』の編集委員長を担った堀邦二さん(若穂郷土史研究会会員)が「中世の保科」について講話。保科氏の系図や、保科御厨、保科宿などについて話された。

==その資料の中から===
❼ 廣徳寺の開山と村上氏の上高井侵攻
〇鎌倉時代より室町時代初頭にかけて、禅宗の臨済宗・曹洞宗と浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などの宗派が盛んに起こり、多くの名僧を生んだ。信濃においては栄西の開いた臨済宗の寺が佐久から塩田にかけてある。また臨済宗より50年後に開かれた道元の曹洞宗も15世紀後半~16世紀にかけて次々と建立された。
〇保科においては、延徳元年(1489)当時保科郷の地頭であった保科弾正正利が深く帰依していた松庵寿栄を開祖として禅寺廣徳寺を高下の西山根に開創された。開基は保科正利である。
〇村上氏の侵攻
・14世紀後半より、北信濃においても、実力によって領国を支配しようとする武士団がでてきた。埴科坂木の村上氏は海野氏、大井氏を破って、高井へ勢力を伸ばそうとした。
・永正10年(1513)顕国の子頼平は保科を攻め、高下の創建24年の廣徳寺一帯、須釜の保科氏館などが焼かれた。
・頼平軍に敗れた保科正則は伊那高遠の藤沢に移った。
・正則の弟正保は村上に降伏し、保科に留まり、村上の臣となり町滝崎の一角に居館を構え、保科を治めた。
・村上軍は保科へ侵攻したのち井上氏、高梨氏の所領を攻めた。
〇廣徳寺は焼失20年後の天文2年(1533)に須釜の保科氏館跡に保科正保が玉山春洞師と共に再建された。
〇高遠に移った正則の孫正光が藩主となり、正之を迎える。
【注】正之は後に会津藩祖となる徳川秀忠の庶子、保科正之。
京都南禅寺を開山した大明国師(無関普門)は、若穂保科の地を領有していた保科氏の出身(保科長時の子)で、二代目の南院国師も長野市長池の出身。そんな関係で廣徳寺(宮澤孝典住職)の門前には南禅寺により立派な顕彰碑が建立されていて、毎年この時期に南禅寺の僧が訪れて顕彰法要が行われている。12月12日のこの日は南禅寺、廣徳寺檀徒、地元関係者ら約50人が出席した。


法要に続いて『保科誌』の編集委員長を担った堀邦二さん(若穂郷土史研究会会員)が「中世の保科」について講話。保科氏の系図や、保科御厨、保科宿などについて話された。

==その資料の中から===
❼ 廣徳寺の開山と村上氏の上高井侵攻
〇鎌倉時代より室町時代初頭にかけて、禅宗の臨済宗・曹洞宗と浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などの宗派が盛んに起こり、多くの名僧を生んだ。信濃においては栄西の開いた臨済宗の寺が佐久から塩田にかけてある。また臨済宗より50年後に開かれた道元の曹洞宗も15世紀後半~16世紀にかけて次々と建立された。
〇保科においては、延徳元年(1489)当時保科郷の地頭であった保科弾正正利が深く帰依していた松庵寿栄を開祖として禅寺廣徳寺を高下の西山根に開創された。開基は保科正利である。
〇村上氏の侵攻
・14世紀後半より、北信濃においても、実力によって領国を支配しようとする武士団がでてきた。埴科坂木の村上氏は海野氏、大井氏を破って、高井へ勢力を伸ばそうとした。
・永正10年(1513)顕国の子頼平は保科を攻め、高下の創建24年の廣徳寺一帯、須釜の保科氏館などが焼かれた。
・頼平軍に敗れた保科正則は伊那高遠の藤沢に移った。
・正則の弟正保は村上に降伏し、保科に留まり、村上の臣となり町滝崎の一角に居館を構え、保科を治めた。
・村上軍は保科へ侵攻したのち井上氏、高梨氏の所領を攻めた。
〇廣徳寺は焼失20年後の天文2年(1533)に須釜の保科氏館跡に保科正保が玉山春洞師と共に再建された。
〇高遠に移った正則の孫正光が藩主となり、正之を迎える。
【注】正之は後に会津藩祖となる徳川秀忠の庶子、保科正之。










