焼却処分も簡単にできるせいか( ´∀` ) ごみ処理の歴史を語る資料はとても少ないのです。それに、施設も20年前後で壊されてしまう。法的規制の強化もあるし、ごみの分別など処理方法も変わってきます。それに伴って技術革新が進む。ところが、当時の様子を伝える写真や、処理に使った用具や機器などはほとんど残ってないようですね。
そんな中でこの「まち」の市史編纂の際の、当時の新聞記事に面白い情報をいくつか。最初のごみ焼却場、当時は塵芥処理場と呼んでましたが、その建設のくだりです。
――大正12年1町3か村の併合により、本市人口は一躍6万有余を数え、幾多の施設を要するべき気運になったが、中でも塵芥処理方法改善のようなものは放置しておくわけにはいかず、しかも緊急を要する重大問題であることから、大正14年この調査研究の為、市会において塵芥処分調査並びに塵芥処分場設置に関する委員7名を挙げ、調査研究を実施することとなったーー
――よって、当委員は慎重審議の結果、まず処分場の位置選定をしたところ地元より異論多数で容易には決定しなかったが、数か月後ついにその了解を得るに至ったーー
昔も、施設の建設は大変だったんです。
そして、
――該当委員は度々会合の上大体の成案を得たが、他市実況を視察する必要があることから、東京、名古屋、京都、大阪等の先進市を視察し、その長短に付き熟議を凝らし、相当成案の上、それぞれ手続きを終了し、大正14年度において前記の土地1,700余坪(金6,525円)を買収、その翌年度に至り工費30,468円余を投資し、1日12,000貫(約46t)の焼却能率を有する鉄筋コンクリート造(自然通風式)焼却場及び付属建物一式を建設――
―と、ようやく完成させることができたのです。この施設は七瀬地区にあり、昭和36年まで使われていました。

さて、それ以前はどうか?こんな面白い記事もありました。
――明治33年汚物法施行当時より塵芥捨て場付近に豚を飼い始めた。しかし、豚に食わせる食物の類はすべて毎日搬入される塵芥の中から拾った物を与えている。(中略)年々豚児の数を増加し、今日は小屋の中に百余頭の豚が群がる有様で、あまり増えすぎても困るので・・・
塵芥捨て場付近で豚を飼い、時々その豚を豚肉屋へ「特約販売」。志望者には、豚児をつがいで5円位で売り渡したというんです。今でも生ごみ、残飯の処理には苦労しているけど、昔は豚の餌・・・。農家ではそれが当たり前でしたね。
それがベストだと思っていたら、昨今は違っていました。学校給食センターでは、以前は養豚業の方に引き取ってもらっていましたが今はダメ。事情に詳しい人に聞いてみると、消費者のニーズがそれを許さない。つまり、カロリー制御が難しいから「肉質に影響する」。それに、何が混じるかわからないから「豚の健康管理ができない」「抗生物質も使えない」。だから安全・安定の配合飼料を買って食べさせることになる、という話でした。
次の記事は大正4年2月2日の日付けです。
―― 一方にあってはまた別に去年の11月より塵芥を焼いて肥料の製造を試みるものがあるが、その焼却高は11・12月両月で342,600貫(約1、300t)に達するが、開始以来日が浅いため、まだ十分成績を認めることができない。ただし大事業の発達と共に化学力を応用し、現在実行しつつあるような、人糞と灰肥をこね合わせた人糞肥料が出来るかもしれないーー
・・・と、何とも意欲的な話題。人糞肥料はその後どうなったんでしょう?
さらに、
――ならば沢山の塵芥をいかに処分してしまうか、それをざっと調べてみると、345,360貫を桑畑に遺棄して桑の肥料にするのと、千歳町の鉄道踏切付近に遺棄するのと2通りあるが、西長野の分は一文にもならないけれど、千歳町の分は1年で45円で古物商に売り渡すのであるーー
・・・とありますから、「有機肥料」「鉄くず回収」「家畜飼料」と現代の発想、手法とあまり変りない資源活用策。というよりは、すでに究極のリサイクルがおこなわれていたわけですね。
(2007・6を編集)
そんな中でこの「まち」の市史編纂の際の、当時の新聞記事に面白い情報をいくつか。最初のごみ焼却場、当時は塵芥処理場と呼んでましたが、その建設のくだりです。
――大正12年1町3か村の併合により、本市人口は一躍6万有余を数え、幾多の施設を要するべき気運になったが、中でも塵芥処理方法改善のようなものは放置しておくわけにはいかず、しかも緊急を要する重大問題であることから、大正14年この調査研究の為、市会において塵芥処分調査並びに塵芥処分場設置に関する委員7名を挙げ、調査研究を実施することとなったーー
――よって、当委員は慎重審議の結果、まず処分場の位置選定をしたところ地元より異論多数で容易には決定しなかったが、数か月後ついにその了解を得るに至ったーー
昔も、施設の建設は大変だったんです。
そして、
――該当委員は度々会合の上大体の成案を得たが、他市実況を視察する必要があることから、東京、名古屋、京都、大阪等の先進市を視察し、その長短に付き熟議を凝らし、相当成案の上、それぞれ手続きを終了し、大正14年度において前記の土地1,700余坪(金6,525円)を買収、その翌年度に至り工費30,468円余を投資し、1日12,000貫(約46t)の焼却能率を有する鉄筋コンクリート造(自然通風式)焼却場及び付属建物一式を建設――
―と、ようやく完成させることができたのです。この施設は七瀬地区にあり、昭和36年まで使われていました。

(この施設より”先代”になります・・・・)
さて、それ以前はどうか?こんな面白い記事もありました。
――明治33年汚物法施行当時より塵芥捨て場付近に豚を飼い始めた。しかし、豚に食わせる食物の類はすべて毎日搬入される塵芥の中から拾った物を与えている。(中略)年々豚児の数を増加し、今日は小屋の中に百余頭の豚が群がる有様で、あまり増えすぎても困るので・・・
塵芥捨て場付近で豚を飼い、時々その豚を豚肉屋へ「特約販売」。志望者には、豚児をつがいで5円位で売り渡したというんです。今でも生ごみ、残飯の処理には苦労しているけど、昔は豚の餌・・・。農家ではそれが当たり前でしたね。
それがベストだと思っていたら、昨今は違っていました。学校給食センターでは、以前は養豚業の方に引き取ってもらっていましたが今はダメ。事情に詳しい人に聞いてみると、消費者のニーズがそれを許さない。つまり、カロリー制御が難しいから「肉質に影響する」。それに、何が混じるかわからないから「豚の健康管理ができない」「抗生物質も使えない」。だから安全・安定の配合飼料を買って食べさせることになる、という話でした。
次の記事は大正4年2月2日の日付けです。
―― 一方にあってはまた別に去年の11月より塵芥を焼いて肥料の製造を試みるものがあるが、その焼却高は11・12月両月で342,600貫(約1、300t)に達するが、開始以来日が浅いため、まだ十分成績を認めることができない。ただし大事業の発達と共に化学力を応用し、現在実行しつつあるような、人糞と灰肥をこね合わせた人糞肥料が出来るかもしれないーー
・・・と、何とも意欲的な話題。人糞肥料はその後どうなったんでしょう?
さらに、
――ならば沢山の塵芥をいかに処分してしまうか、それをざっと調べてみると、345,360貫を桑畑に遺棄して桑の肥料にするのと、千歳町の鉄道踏切付近に遺棄するのと2通りあるが、西長野の分は一文にもならないけれど、千歳町の分は1年で45円で古物商に売り渡すのであるーー
・・・とありますから、「有機肥料」「鉄くず回収」「家畜飼料」と現代の発想、手法とあまり変りない資源活用策。というよりは、すでに究極のリサイクルがおこなわれていたわけですね。
(2007・6を編集)








