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若穂の歴男、歴女の掲示板

長野市の一地区ですが、以前は上高井郡若穂町でそのまた昔は綿内村、川田村、保科村。集まる情報の一つひとつが現代の歴史です。

『三峯紀聞』が書き記した綿内村のこと (1)

2021-02-04 12:46:00 | 日記
江戸末期の嘉永6(1853)年頃、須坂藩の家老・丸山辰政が藩内の事物について書き記した『三峯紀聞』には、綿内村に関わるものも9つあります。昭和58~60年に、須坂市の徳永哲夫先生が須坂新聞に現代語訳を連載されていますが、あれから約40年が経ち、若穂郷土史研究会ではその『会報』に綿内村のいくつかを紹介しています。その一部です。


(復刻された『三峯紀聞』)


第1回は、真言宗の古刹「蓮台寺」が舞台です 

その❶-1 「大(泰)澄禪師作佛並星之井


  《現代語訳》    ―須坂市文化財調査会会長 徳永哲夫ー

越智山蓮台寺(をちざんれんだいじ)は、須坂藩の領地の中では第一の古跡であって、天平年間(737年頃)からの古い寺だ。住職は八十三世にもなっている。千年以上の年月を経た九品の阿弥陀仏の大仏像と仁王力士一対があったが、これは皆当時の開基大澄禅師の自作であった。(大澄=泰澄は越前の生まれで蓮台寺に九年住んだ)この寺のお堂や大きな建物は火災のため焼失、わずかに九品仏のうち一体と仁王尊だけが焼け残った。
宝永年間(1707年頃)智光律師が住職の時、焼けた八体の尊像を補修し現在は九品仏が全部備わっている。智光という人は師匠よりも優れた人材で、祈祷のわざなどにもすぐれた効験があり神わざといわれていた。
ある日、子供が鉄の輪にはさまれて泣き悲しんでいたのを、智光律師が錫杖を振って祈祷したところ、たちまち音がして鉄の輪が離れてしまったという話である。のちに常念仏堂も建立した。またこの人は、前知能力も豊かであったが、ある日「名僧が来るだろう」と予言、自ら心身を浄めて夕暮れまで待っていたが何の音沙汰もなかった。ところが夜に入ってからうしろの山あたりから寝室の戸をたたく人があった。これは江戸の祐天増上の孫弟子の信哲であって、道徳修業のすぐれた僧であった。今は祐天寺の後継者として高貴の僧になっている。(信哲は三年間蓮台寺で念仏修業した)
信哲は昔の師匠の智光律師の高徳を慕って蓮台寺に来て暫くこの寺に住み、智光の後嗣の尊海と協力し、三人で常行念仏をはじめた。そして念仏行満願の日に、白い蛟(みずちー龍の一種)が現れるなど奇らしくめでたい出来ごとがあったとかいう話である。
寛保二年壬戌(みずのえいぬー1742)冬十月三日、智光法印は本堂で永の別れを告げ、身体を洗いきよめ、きよらかな衣に着がえ、本堂の外がわの戸締りを厳重に釘付けにし「念仏の音響が絶えて聞えなくなったら死期であると知ってくれよ」といって跡継ぎの尊海にさえ堂内に入ることを許さず往生したという。世にも珍しく尊いことではないか。
また本堂の裏に古い井戸があって七曜星が写るというので「星の井」と呼んでいるそうだ。


            * * * * * * * * *
▽蓮台寺は越智山九品院蓮台寺という真言宗の寺。現住職は八十七世章泰という。
▽昔は仁王門から本堂に至る間(約五百㍍)七堂伽藍十二院が威容を誇っていたという。
▽焼けなかった九品仏の一体は国の重要文化財に指定されている。

▽開山泰澄作といわれる仁王像は明治四十二年の火災で焼け焦げたが現存している。


(再造された阿弥陀如来坐像(8体の内の4体)


                                        (小)
 
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