沈思黙考

初期高齢者となってしまった私自身の日々の思い

66歳の秋

2020-10-18 | 日記

 「35歳の少女」という柴咲コウ主演のテレビドラマがあるが、(そのドラマは、事故で25年間意識不明となっていた女性が、ある日奇跡的に目覚めて、実年齢と、10歳で止まったままの自己意識とにギャップを感じるという内容であったが、)それを見ていて、『そういえば私も60年くらい眠っていたようなもんだなあ』との思いを抱いた。

 もっとも、私自身には、ドラマの女性とは異なり、当然、この間の記憶はある。しかし、意図的であるかどうかは別にして、私が私を取り巻く周囲の環境を正面から直視していたかどうかに自信はない。引きこもり的意識のままに60年間迂闊に過ごして来たと言っても良いかもわからない。

 私が6歳の時代は、世の中全体が、まだまだ貧しく、例えば、地方では、自動車の数も少なく、テレビを所有している家庭も数少なかった。でも、なんとなく、将来が希望に満ちたような気分もあった。前の東京オリンピックの聖火ランナーを見に、クラス別に行列を作って近くの町の国道まで歩いて行ったのは小学生高学年の時であった。大阪万博は高校生の時だった。就職したのは、第一次石油危機の直後の時代で、仕事の文書をガリ版で作った思い出もある、職場に小型パソコンが導入されたのは就職後何年か経ってからで、それから何年かしても、自費で購入したワープロやパソコンで文書を作成したりしていた。アメリカとソビエト連邦の冷戦が終了し、バブルが崩壊してからは、携帯やIT機器などが飛躍的に一般化されていったものの、日本社会全体の停滞化は進んでいき、家電なども、いつの間にか外国製の物が多くなっていった。

 66歳という年齢は、若い時に悩みの一つであった性衝動などが抑制可能となり、過度な緊張といったものが無くなったような気がして、年金や僅かながらの貯金もあるので、贅沢さえしなければ生活にそう苦労はないが、意欲の減退や身体の面で元気が無くなって腰や足に痛みを感じるようになりかかっている。睡眠時間も十分に取れたような気がしない。マスコミや政府発表などの世間に隠されてきた嘘が少しはわかるようになったと思うが、かといって、世の中にそれで問題提起をしようかという気力もない。

 商業化し世俗化している現代の宗教は信じていないし、あの世や生まれ変わりというものも信じていない。したがって、死は、自己意識の永遠の消滅と解釈しており、新型コロナウイルスも怖い。

 このブログには、過去数年間にわたって記載を続けてきたが、本日、過去の記事を全て削除した。今日から、また、一からのつもりで日々の想いを記載していくつもりである。

コメント   この記事についてブログを書く
   | トップ | 武蔵を見に行ったが? »

コメントを投稿