おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

51 順天高校青戸校舎跡

2009-05-09 23:33:15 | つぶやき
 順天高校。幕末・明治の和算の大家、福田理軒創立の「順天堂塾」に由来する学校で、170年の伝統をもつ。旧制中学時代(男子校)には、一高進学者数も上位の「進学校」であった。この順天高校が、一時期、葛飾区青戸の地にあったのである。
 学校のHPに掲載されている〔沿革〕によれば、

1834 (天保 5) 福田理軒が順天堂塾を大阪に創立
1871 (明治 4) 東京の神田仲猿楽町に移転し、順天求合社と改称する
1894 (〃  27) 尋常中学順天求合社を設置する
1899 (〃  32) 順天求合社中学校に改称する
1900 (〃  33) 順天中学校に改称する
1913 (大正 2) 神田の大火災で校舎全焼し、校舎を再建する
1923 (〃  12) 関東大震災で校舎全焼する
1928 (昭和 3) 神田三崎町に移転し、校舎を新設
1945 (〃  20) 東京大空襲で校舎を焼失する
1948 (〃  23) 学制改革により、順天高等学校・順天中学校となる
1953 (〃  28) 北区王子に移転する
1962 (〃  37) 順天高等学校は女子校となる
1985 (〃  60) 足立区新田にグランドを移転し、体育館、研修館等が完成する
1990 (平成 2) 順天高等学校は男女共学となる
1995 (〃  7) 順天中学校が開設される
2005 (〃  17) 新校舎が完成する

とあるが、実は戦後、経営不振に陥り、経営陣や校地の移転を繰り返した。そのこことと関連があるのか、1945(昭和20)年に神田三崎町校舎を焼失したことで、葛飾区青戸に移転した。だが、このことにはふれられていない。
 しかし、1953(昭和28)年、東京都北区王子に移転するまで、青戸に校舎があったのは、まぎれもない事実。
 その後、1955(昭和30)年、埼玉県桶川市に移転するものの、閉校状態に陥ってしまう。結局、弁護士・実業家の渡辺酉蔵が理事長となり、王子校舎において、1962(昭和37)年に女子校に転換、1990(平成2)年、男女共学となり、さらに1995(平成7)年には、中学校も併設されるようになった。
 この間には、体罰などの過酷な生徒指導方針から生徒やPTAが反発、都教育委員会が行政指導に乗り出し、当時の渡辺酉蔵理事長が退任する事態も起こった、という。
 学校が編纂した「校史」では、次の項で、「青戸」校舎についてちょっとふれながら、戦後の困難期を記している。

「86.まとめ① 四十九年ぶりの野球部復活」
 順天学園の校舎は太平洋戦争によって消失した。やがて葛飾区青砥に移転したものの、戦後の混乱が私立学校離れに拍車をかけ、更に学制改革の影響も受けて、終戦直前には五百名いた生徒が、百名を割るまでに落ち込んでいた。
 これでは、到底学校の存続が不可能であったため、昭和二十八年八月に学校を北区王子本町の現在の地に、生徒三十九名と教員三名で移転した。当時、この地では弁護士の渡辺酉蔵(前理事長)によって東京ドレスメーカ女学院と王子英語学校が経営されており、先駆的同時通訳として有名な國弘正雄氏(現本学園教育顧問)なども教諭として名を連ねていた。その二校の内容と資力によって再出発を果たし、昭和三十七年からは女子校となっていたが、平成二年に共学校となった。
 共学校として再出発した初年度から男子入学生は百名を超え、直ぐに野球部が結成され、その年の夏の高校野球選手権大会に出場した。昭和十六年の大会予選出場から実に四十九年ぶりの出来事であったため、往年の旧制順天中学野球部の先輩も応援に駆けつけた。
 結果は残念ながら一回戦敗退であったが、平成二年七月十八日産経新聞に次のように報道された。
『四十九年ぶり出場、順天高爽やかに散る 今春、女子校から共学校となった。夏の大会は男子校だった戦前の昭和十六年以来、実に四十九年ぶりに出場もちろん野球部員も全員、入ったばかりの一年生だ。』

 この中で、「青砥」とあるが、これは駅名で、地名としては「青戸」が正しい。
 地元の方(当時の野球少年)によると、青戸にあった当時、野球部(中学校?)があって、対外試合を地元の中学校に申し込んできたが、先生が断ったという、あんな不良学校の生徒とやってはいけない!とかで。
 それほど、地元にはなじんでいなかったのかもしれない。
 それから50年余。現在、順天高校は、偏差値60台で、上位校に位置している。また、大学進学率も90%。国公立をはじめ、早稲田・慶應など有名私大への進学率も高い。かつての厳しい時代をこえて、教職員、経営陣、生徒諸君も頑張っているともいえる。
 しかし、わずか「39名の生徒と3名の教員」という、廃校寸前に追い込まれた苦難の歴史のただ中に、「青戸校舎」があったことを忘れて欲しくないものだ。
 写真は、おそらくこのあたりにあったと思われるところ。公団住宅の一角、保育園が設置されている。こうして今も教育に関係している場所というのも、不思議な縁のような気がする。緑の多い、園庭付近。
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