おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

駒形の渡し。御厩の渡し。首尾の松。・・・(隅田川の渡しの跡をたどる。その3)

2012-11-10 18:15:12 | 隅田川


        
                
1880年代のようす。「厩橋」のみ。            2010年代のようす。下流に「蔵前橋」が。

 今回は、吾妻橋から下流の探訪。江戸時代初期の17世紀には、隅田川には千住大橋(最初)、両国橋(2番目「大橋」)、新大橋(3番目)の三つしかなく、渡し船が唯一の往き来の手立てでした。さらに、gooの明治の地図でも「吾妻橋(大川橋)」「厩橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」くらいしか記されていません。開発が進んだ隅田川東岸地域への交通手段としては、「駒形の渡し」「御蔵の渡し」「富士見の渡し」「千歳の渡し」「安宅の渡し」など、いくつもの渡しが記入されています。
明治13年頃の本所吾妻橋付近。「大川橋」と記されています。また下流には、「駒形の渡し」が。
駒形橋西詰。説明板。「駒形の渡し」についても説明あり。
 橋名は、浅草寺に由来する「駒形堂」(橋の西北角にある)からきています。地元の人々によれば、「コマガタ」ではなく「コマカタ」と濁らないとか。「駒形橋」は、関東大震災の復興事業の一環として昭和2(1927)年に完成しました。
モニュメント。周りの柱のてっぺんは、馬頭。
「駒形橋」とスカイツリー。屋形船がたくさん係留されています。
「厩橋」付近。下流に「富士見の渡し」とある場所が現在の蔵前橋付近。右岸が「浅草御蔵」。
現在の「厩橋」。
 橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなんでいます。もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所。「厩」 とは 「馬屋」 のこと。蔵前橋にかけてこの一帯には幕府の 「御米蔵」 がありました。米の運搬のための馬もたくさん飼われ、「御米蔵」 には専用の 「厩」 があったことから「御厩(おんまい)」 の名称が使われるようになった、とか。
店の宣伝を兼ねた説明板。 
1872(明治5)年に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があり、1874(明治7)年に架橋。当初は、木橋でしたが、老朽化のために東京府によって1893(明治26)年に鉄橋に架け替えられました。
 鉄橋の建設に伴う「春日通り(本所方面から上野広小路へ、東西に直接接続しようと図ったもの)」の開通は1895(明治28)年。
 後、関東大震災で被災し、その復興事業の一環として架橋されたのが現在の橋。1929(昭和4)年に完成。6番目の橋。
「厩橋」親柱。上部に馬をデザインしたステンドグラス風のガラス細工。上は首都高。
馬がデザインされた透かし。

曲線が美しい。
蔵前橋。
全景。
 1954(昭和29)年9月~1984(昭和59)年12月まで西詰の北側(現在は都下水道局の施設)に「蔵前国技館」があったとき、職場の同僚と4人で桟敷席での相撲見物をしたことがありました。
 この橋は、関東大震災の復興事業計画により架橋されました。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた場所。
「富士見の渡し」のレリーフ。
「浅草御蔵跡碑」。蔵前橋西詰。
 「浅草御蔵」とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。(「台東区観光協会」HPより)
「首尾の松碑」。蔵前橋西詰。
『首尾の松(しゅびのまつ)』
 この碑から約百メートル川下に当たる浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
一、寛永年間(1624~42)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出 て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」 と称したという。
二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を 求め語ったところからの説。
三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近く にあった松を「首尾の松」と称したという。
 初代「首尾の松」は安永年間(1772~80)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(1854~59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。
(以上「東京散歩・東京散策」HPより)

隅田川左岸(東)のテラスにあるギャラリー。地元の中学生の共同制作作品が展示されています。
「両国公会堂」。ドーム(球形)の屋根が特徴。南隣が「旧安田庭園」。


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