おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

尊厳死・安楽死

2006-03-27 23:16:52 | 世間世界
 そう遠くない、医療を取り巻く峻厳な現実を思う。今回の事件。それにしても多くの人間の生命が失われた、少なくとも人為的な手段によって。
 担当医の独断で救命装置をはずしたのか、本人あるいは家族の同意があったのか。本人の場合は、まだ意識があるうちに本人の意志によって、尊厳死を選択することを事前に了承していたのか。
 もうすでに本人にその意思表示・確認が出来なくなってしまった今回のケースでは、家族の同意があったかどうかが、医師の措置が殺人罪に当たるのか、否かの分かれ目になるのだろう。
 医師から患者は直る見込みがほぼ100%ないと通告され、それでもなお延命装置に病人を委ねる家族の対応。100%というのはありえない、わずかの奇跡を願う家族の心情、一方ではただ器械によって生かされているとしか見えない患者。
 高額の医療費を支払いつつ、一縷の望みを託す。それは、実は生きている人間の自己満足にすぎないとさえ・・・。そのまさに現実的な葛藤の中で、身体的・精神的苦しみが、患者本人には自覚的にあるのないのか。
 一個の生命体としての個人・一個の人格の死としての臨終。その瞬間を迎えるに際して、どれほど人間としての尊厳を全うできるか。これまで以上に一人ひとりが問われることになる。それは、一方では、経済生活という現実の姿が存在するからだ。
 高齢者への医療費の高騰が、個人の家庭の経済を崩壊させ、また公的資金(税金)を圧迫する可能性が大きくなりつつある今日。今回の出来事は、日本人の誰にとっても「他人事」ではないという思いがする。
 かつて、姥捨山「伝説」というのが長野などにあった。年老いた父や母を山に置き去りにして来る。経済的な貧困や家族生活の崩壊の悲しい現実が、そこには生々しくあった。中には、本人の意志もあったろうが、その年寄りを巡る家族・地域への配慮が本人にあったであろう。
 こうして、人知れず死に絶えていく年寄り。尊厳死という美名のもとで、生前において、それを選択し、高額な医療費負担を回避するという行動が、増えてはいないか。それは安楽死。苦しんでいる病人を楽にさせてあげよう、とのやむにやまれぬ行動(殺人?)とは似つかないものではないだろうか。
 鎌倉時代。死に行く病人は、荼毘にふすゆとりもない、残された家族に向かって「せめて野犬に喰われないところに捨ててくれ」と哀願した話が残っている。
 死に行く老人や不治の患者にかける医療費、「希望も見いだせない」金があったなら、今の自分たちの生活費に充てる、などという時勢になったとき、家族はもとより日本人・日本社会全体もまた崩壊していくのではないだろうか。今回のそれは、あまりにも死を弄び、死という「尊厳」をも恐れぬ、刹那的な行為でしかない。その一方で、今回の出来事に、悲しい現実を見るのも小生だけではないだろう。「姥捨」山伝説は、けっして当事者どうしの利害・打算を合理化する話だけではなかったような気がする。

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