おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

不毛の家族風景

2005-06-22 22:55:19 | 世間世界
 親に殺される子供たち、子供に殺される親たち。
 人間の死ぬ直前の風景。殺す側の網膜には、殺す対象がどう映り、殺される側の目には、自分を殺そうとする相手が自らのいまわの際にどのように映っているのだろうか。
 哲学者・鷲田清一氏の評論の一節に「処刑するとき、処刑される人間の目を覆うのは、その人間の恐怖心を抑えるのではなく、処刑する側の人間が、処刑する人間の眼を見ずにすることで、その人間をたんなるモノと見なすためである」というような文章があったと思う。「まなざす」「まなざし交わす」関係を通じて人は人とのかかわりをはじめて持てるとも。
 昔から「目は口ほどにものをいう」という。視線を向ける対象が人間であるならば、その視線の奥に人間的な情趣を感じ取るのがまた人間だ。親しみの心だけではない、憎しみの感情も反映されて。家で飼っている犬や猫ですら、言葉はなくても目を向けることで、感情のやりとりはあるものだと思いたい。
 まして、人間はたんなるモノとしてではなく、言語を通して感情を表現する持つ動物である。だから、目を交わすこともなく、殺す、殺されるという場面での無機的な風景ははかりしれない。
 15才、都立工業高校1年生の少年の目には、そのとき、どういう風景が広がっていたのだろうか。少年の心情をあとから評論し重ねていっても、そこから積極的な意義は生まれないだろう。ただ少年の心の虚無をみるだけではないだろうか。
 それにしても、こうした事件が起きるたびに、少年の行動を学校は事前にキャッチできなかったのか、兆候を見逃してはいないか、いったい何をやっているのだ、という批判がまき起こる。しかし、学校は、両親殺害に至るまでの少年の心の形跡を、どう垣間見ることができたであろうか。入学して3ヶ月余り、おそらく少年はまともに人と目を交わすことができないまま、ここまできてしまったのではないだろうか。学校を責めるのは酷なことだ。
 現代のますます存在感が希薄になった人間関係・家族関係の果てのこの事件は、当事者自身(両親も子供も)全く不可解なままなのではないだろうか。
 そして、少年には法律上の罪が付される。
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