おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

行徳可動堰。稲荷木。一本松。東西線「南行徳」駅~武蔵野線「船橋法典」駅。その6。(「木下街道」をゆく。第1日目。)

2020-11-10 20:01:16 | 木下街道

                    「行徳可動堰」。

建設に至る経緯

明治改修後、昭和10年、13年と相次いで大洪水に見舞われて、昭和14年に江戸川増補計画が策定されましたが、第二次世界大戦によりほとんど工事は進捗しないうちに終戦となりました。
そして、昭和22年9月のカスリーン台風による大洪水を契機に、昭和24年利根川改訂改修計画が策定され、江戸川では引堤が行われました。
江戸川放水路の堰地点の流下能力が不足していたため、固定堰を可動堰形式にするために、行徳可動堰の建設が行われました。行徳可動堰は昭和25年に着工され、昭和32年3月に竣工しました。その後、広域地盤沈下のため昭和50年から52年の3ヶ年にゲートの嵩上げ工事を行いました。

行徳可動堰は江戸川の最下流部に位置し、江戸川水閘門と連携して、平常時はゲートを閉めて首都圏の生活用水に海水が混入しないよう塩分遡上を防止するとともに、洪水時にはゲート操作により堰下流に洪水を安全に放流させる目的で設置した施設です。
完成後50年以上が経過した行徳可動堰は、老朽化という問題をかかえていたことから、平成22年度から5年間をかけてゲート設備の更新と堰柱の耐震補強対策を実施しました。平成26年度からは、行徳可動堰の管理橋機能を兼ねた行徳橋の架替工事を実施しています。(平成32年3月供用開始予定。)

(この項、「」HPより)

かつては陸続きでした。

                                               

1880年代のようす。                       2010年代のようす。旧大和田村が江戸川放水路(現江戸川)で分断された。

歩道が広くなった「行徳橋」を渡ります。

対岸の稲荷木(とうかぎ)地区に入ります。
右手奥に「稲荷神社」。旧道らしい道筋。地名は、「稲を干す木」、稲木から来ているようで、稲荷(いなり)ではありません。この付近、どうも読めない地名が多いようです。

その先が「一本松」。すぐ脇を京葉道路の高架が。

 

稲荷木(とうかぎ) 一本松

むかし、行徳から市川に向かうには、今日の行徳橋あたりから稲荷荷木の 林寺前を通り、稲荷神社からこの地に出て、江戸川沿いに大和田・大洲・市川南を経て国道14号線(時代によって上総道・佐倉道・千葉街道とも呼ばれた)に出て、市川に至ったものです。、伝えによると、慶長年間(1596~1615)、伊奈備前守忠次が徳川家康の命によって、上総道の改修にあたったさい、新たに八幡と行徳を結ぶ八幡新道をつくって、その分岐点に松を植えたとのが、この「一本松」の由来ということです。この松も京葉道路ができると、排気ガスの影響などによって枯死を早め、昭和48年に伐採されました。

切株だけが今も残り、若松が植えられています。脇には、道標を兼ねた「延命地蔵」が移され、そばの庚申塔には「これより右やわたみち これより左市川国分寺みち」と刻まれています。

京葉道路をくぐると、「甲大(かぶと)神社」。

本神社御祭神は応神天皇を奉祀するとも伝え又大神の兜を祭るとも伝う。創建は古く人皇第六十六代一条天皇の永延二年八月八日当地に鎮座葛飾八幡宮の摂社にて「注連下」と称し大和田村の氏神たり。古来武将の崇敬厚く殊に武士たるもの当社前に於て乗打すれば落馬すると云い伝う。(境内掲示より)

「甲大」=「かぶと」。難読です。

「大和田兜橋」バス停。「兜」はオーソドックス。

この先、JR総武本線のガードをくぐります。その手前、数十年前と比べ、大きく変わった印象です。「東京外環自動車道」建設によって様変わり。

奥の建物は、「TDK(株) テクニカルセンター」

「本八幡駅」への賑やかな通りに。

JR総武線のガードをくぐり、「千葉街道(「国道14号線)」に合流、右折して進みます。

 


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