おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その5。(「日光例幣使街道」。第4日目。)

2018-08-06 19:27:05 | 日光例幣使街道
                                 (12:29)正面に「妙願寺」。

  再び「例幣使道」を東に。「相生町」交差点を左折、北に進み「妙願寺」前を右折し、次の「犬伏(いぬぶし)」宿に向かいます。

沿道には古い商家など。

                            

「例幣使街道」によく見られる直線道路が続きます。

右手のお店の屋根には「甲州街道」で見かけた「雀おどし(おどり)」が。(↓)。

「雀おどし(おどり)」。

                    (上諏訪にて)。

 本棟造(ほんむねづくり)という長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式で、切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾りが特徴。

蔵造りのおうち。

(12:47)「例幣使道犬伏宿(中町)」の看板。

「犬伏」宿に入りますが、これといった宿場時代を偲ぶものはなさそうです。

百科事典マイペディアの解説(「コトバンク」HPより)
犬伏【いぬぶし】
 下野国安蘇(あそ)郡内,現栃木県佐野市にあった日光例幣使(にっこうれいへいし)街道の宿。
 《宿村大概帳》によれば,西の天明(てんみょう)宿へは27町,その西の簗田(やなだ)宿(現栃木県足利市)へは3里,東の富田宿(現栃木県栃木市)へは2里27町の距離にある。加宿として西の堀米町があり,同町を合わせて犬伏宿が形成されていた。
 1764年、例幣使街道は道中奉行の支配となり,1766年定助郷(じょうすけごう)村が定められている。天明宿と近接していることから人馬継立は2宿で1宿並の扱いとなり,天保(1830年―1844年)末には簗田宿への継立のみ行っていた。
 1830年飯売旅籠の新規営業が認められ,翌年には営業が開始されたが,1833年天明・犬伏両宿の助郷村より新旅籠飯売女廃止の訴えが出され,以後周辺諸村の廃止運動が続いた。

 右手にある「犬伏小学校」が本陣跡のようです。向かいには、立派な門構えのお屋敷。


(12:55)「犬伏宿」の街並み。

補足 「犬伏」のいわれ
(1)
 古代大和時代にさかのぼって犬伏という地名があったといわれています。古老の話では大昔、この地に大猿が出て婦女子を餌食にするので、何とか防ぐ方法として年に1回の祭に娘を供養に出すことになってから被害は少なくなりましたが、年々娘たちが少なくなっても困るというところから、近江国より、ちょっぺ太郎という大犬をつれてきました。娘の代わりに供養に出したところ犬と猿との戦いによって、両者死に絶えました。それからは人畜に全く被害がなくなりました。これも太郎のおかげであるとのことから、或る丘に犬を埋め供養したことから、犬が丘に伏せているということが伝わり、犬伏町というに至ったものと伝えられています。
(2)
 その昔、豊作を願い人身御供が行われていましたが、山伏が娘に代え、犬を神社に供えたことを境に人身御供がなくなりこの地を犬伏と称するようになったといわれています。
(3)
 犬伏では、その年の豊作と引き換えに八幡神社への人身御供物して、若い娘を差し出すことになっていました。ある年、山伏が娘の代わりに犬を神社へ置いたら、翌朝絶命しており、それから人身御供がなくなってこの土地を犬伏と称したといわれています。
(4)
 古来から、犬臥町または犬伏村と称したようですが一定していません。明和元年から日光例幣使道犬伏宿と称しました。犬伏宿内を三分し、西から東に向かって、上、中、下の三丁としました。寛永13年、下町に接して戸数およそ70戸を設立し、新町と称しました。
(5)
 イヌは低いという意味。名詞イ(寝)と助詞ヌ(寝)の複合語で、寝るの意から起こりました。ブシはフシの濁音化で、「節」の意と解されます。これは盛りあがったり、瘤(こぶ)のようになったりしている地勢のことです。したがって犬伏とは低い台地の起伏に富んだ地形に由来する地名という説です。

(この項、「」HPより)

 前方に小高い丘が見え、街道もそれに沿って曲がっていきます。北関東最大の「米山古墳」。
 (13:03)その麓には「薬師堂」。解説板には「真田父子犬伏の分かれの地」とあります。


                               
 慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原の合戦を目前に控えた7月21日、徳川家康について会津の上杉家討伐に向かった真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)父子は、下野国犬伏(現在の佐野市)に到着しました。そこで陣を張っていた父子のもとに石田三成から密書が届き、豊臣方に味方するよう書かれていました。この書状を受けて父子三人で話し合い、どちらが勝っても真田の家が残るよう、信之が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に別れて戦うことを決断したとされています。
 その話し合いの場が、この薬師堂であったといわれており、すぐそばを流れていた川に架かっていた橋は、「真田父子の別れ橋」としてこの地に語り継がれています。

平成23年9月 犬伏町町会

(↓)「別れ橋」。

 日差しがだんだん強くなってきます。小憩ののち、出発。
(13:10)振り返って望む。

「東北自動車道」の手前には「庚申塔」が二基。

 (13:22)「東北自動車道」の高架下をくぐったら左に折れ、すぐ右手に進みます。


                      

田園風景が広がります。高速道路方向。

集落に入り、左手に常夜燈や馬頭観音などが。

県道に合流。正面には万葉集で歌われた「三毳(みかも)」山」。

下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす ま妙(ぐは)し児ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ
  ~作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3424

下野の三毳山の楢の若木のような
美しいあの娘は一体誰の妻になるのだろうか

 注:「のす」は「なす」の上代東国方言で、「のような」。「ま妙(ぐは)し」は「美しい」。「笥」は食器(お椀)のことで、「笥を持つ」で妻になることを意味する。

 (13:33)「両毛線」の踏切「第二佐野街道踏切」に近づきます。左手前方遠くに左側を削り取られたような山が見えてきます。「岩船山」です。


                         
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