おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

初めての台湾。その2。

2018-05-02 20:45:32 | つかのまの旅人
                  赤煉瓦が映える「中華民国(國)総(總)統府」。

 日本統治時代の1919年に完成した建物(設計:長野宇平治)で、台湾総督府として利用されていた。
第二次世界大戦末期のアメリカ軍による空襲によって内部が全焼し、中にいた職員の多くが死傷、建物も大きく破損した。世界大戦終結後に台湾へ進駐した中華民国政府が接収し、修復を行ったため1948年に元に戻った。その後蒋介石総統生誕60周年を記念し「介寿館(介寿とは蒋介石の長寿を祝うという意味)」と名を改めた。
 翌1949年、国民党が国共内戦の際、中国より追われる形で台湾に中華民国の首都機能を移転。以降、中華民国の総統府として利用されるようになった。現在、文化資産保存法により国定古蹟として登録されている。
 上空からの写真では日本の「日」に見える。
(以上、「Wikipedia」より)
注:長野宇平治
 辰野金吾の弟子として知られ、数々の銀行建築を残しました。「日本銀行本店本館」(1896/明治29年)が現存し、国の重文として登録されています。

 この建物は、もと「台湾総督府(日清戦争の結果、清国から割譲された台湾を統治するために設置された日本の出先官庁)」の建物。
 台湾総督府は、明治28年(1895年)4月17日に調印された下関条約によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することとなった。同年6月17日、台北において始政式が行われ、台湾総督府による台湾統治が正式に開始された。
 ただし台湾総督は内閣総理大臣の、さらにのちには内務大臣や拓務大臣などの指揮監督を受けることになっており、宮中席次でも朝鮮総督が第6位なのに対して台湾総督は親任官として第11位と、陸海軍大将や枢密顧問官よりも地位が低かった。
初代総督は樺山資紀で当初は陸海軍の将官が総督を務めた。児玉源太郎総督の下で明治31年(1898年)に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。
 昭和20年(1945年)10月25日の中国側への降伏調印式において事実上その職権を停止。以後業務を台湾地区日本官兵善後連絡部へ引き継いだ。昭和24年(1949年)6月1日に新憲法に基づく国家行政組織法が施行され、これにより台湾総督府は法制上も消滅した。
 初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督には行政権と司法権、そして台湾駐屯の陸海軍の指揮権はもとより、六三法によって特別立法権までもが付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものだった。
こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀・桂太郎・乃木希典・児玉源太郎・佐久間左馬太・安東貞美・明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。
 そうした中で、第4代総督の児玉の頃から変化があらわれはじめる。長期にわたり総督として腰を据え、体系的な政策を必要に応じて展開、いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針で台湾を包括的に支配することに成果を上げ、統治に安定がもたらされたのである。第6代総督の安東と第7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、その任期こそ1年5か月にも満たない短いものだったが、遺言により台湾に墓地が築かれた唯一の総督でもある。
 その明石が総督のとき、総督の下にあった台湾軍の指揮権を台湾軍司令官に移譲したため、以後台湾では文官でも総督になることが可能になった。
 台湾の統治方式が抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。
 二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものだったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入することになった。この貧乏くじを引いたのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総督にしたのは当時の新聞が「異例中の異例人事」と評するほどの驚愕人事だった。
 小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷川清海軍大将がこれに決まった。この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢だったが、台湾の軍事拠点化を推進するという建前もあって現役のまま総督に就任、ここに武官総督が復活することになった。
 太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった昭和19年(1944年)暮、人材の不足や台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将に台湾総督を「兼任」させられると、前期総督と同等の強大な権限を持つに至った。一方で台湾人にも帝国議会の選挙権や被選挙権が与えられるなど、日本人との台湾人の関係対等化も進んだものの、翌年の終戦によって、台湾総督府も閉鎖機関に指定され、解体されることになり、昭和20年(1945年)10月25日、台北公会堂で安藤は陳儀中華民国台湾省行政長官との間に降伏文書を交わし、半世紀にわたった台湾総督府の歴史に幕を引いた。
(以上、「同」参照)

 翌日、翌々日とお祝いの行事が続き、台湾の方々とも親しく交流できました。
 23日にはじめて台北市内を案内してもらいました。

「総統府」前の大通り。

「台北賓館」。
 日本統治時代の明治32年(1899年)に起工し、明治34年(1901年)に完成した。もともとは台湾総督の官邸として建てられた。設計は当初福田東吾と野村一郎が担当し、後に森山松之助も設計に携わった。
建物はバロック風の二階建てで、庭園は日本風である。
 日本統治時代においては、台湾総督の暮らす住居と執務の場である官邸であった。また、迎賓館としても使用していたため、内装は豪華絢爛で、皇太子時代の昭和天皇をはじめ、数々の要人が宿泊した。
 もっとも、住居としての使い勝手は、必ずしも良くなかったことから、この官邸を使用することは次第になくなり、田健治郎(第8代台湾総督)の時に、総督の日常生活を行う住居として数寄屋造りの別館が新設され、総督の公邸として使用された。
 第二次世界大戦の終結後、建物は中華民国に引き渡され、以降迎賓館として使われるようになった。
 日華平和条約はこの台北賓館で1952年4月28日に調印された。(「同」)

「景福門」。

 

「中正紀念堂」。
 初代総統である蒋介石の顕彰施設。
 中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名である。
 蒋介石生誕90年に当たる1976年10月31日に起工式が催され、1980年3月31日に完成した。蒋介石逝去5周忌の4月4日に併せて落成式が盛大に行われ、海外の3000名余りの華僑・華人が参加し、翌4月5日に一般公開された。
 民進党政権下での「台湾正名運動」の影響で、2007年には「台湾民主紀念館」に改名され、入り口の門に書かれた「大中至正」の文字が「自由広場」に架け替えられ、儀仗隊交代式が中止していた時期がある。国民党が政権復帰した2009年に、再び元の「中正紀念堂」に戻る(ただし、「自由広場」はそのままである)。

蒋介石座像と儀仗隊。
                                    微動だにしない儀仗隊。
中国大陸を望んでいる。

 敷地面積は25万平方メートルに上り、日本統治時代の山砲隊、歩兵第一連隊の軍用地跡地である。敷地中には本堂のほかに国家戯劇院や国家音楽庁、公園広場、休息所や回廊、庭園、池(光華池・雲漢池)なども併設されている。本堂を始めとするこれらの施設は市民達の憩いの場となっている他、公園広場は政治的な集会の場として使用されることも多く、特に1987年の戒厳令解除後には学生運動やストライキの集合地点としてしばしば使用された。


                               

 敷地の東側に位置する紀念本堂の面積は約1万5千m2で、建物の高さは70mにも及び、西にある中国大陸を臨むように設計されている。本堂正面には高さ30メートルの大中至正門と他2つの門があり、その内部はメインフロアと地階に分けられている。メインフロアの奥には巨大な蒋介石の銅像が設置されており、銅像の上部には蒋介石の基本政治理念であった「倫理、民主、科学」という三民主義の本質が、像の土台には蒋介石の言葉がそれぞれ記されている。日中は像の両脇で儀仗隊が警護しており、1時間ごとに交代の儀式が行われる。なお、フロアの天井の最上部には国章である「青天白日」の徽章が描かれている。
 午前6時30分に儀仗隊が中正紀念堂に進駐し、午前9時より警護及び毎時交代儀式が行われている。儀仗隊交代式は台湾観光の名物となっている。なお、儀仗隊の交代儀式は、水曜日は午前10時から午後6時まで、それ以外の日は午前10時から午後4時まで、1時間ごとに行われている。
 蒋介石を追悼する場であると同時に、中国文化・精神と中華民国の思想(イデオロギー)を示す場でもあるため、建物の各部分が様々なテーマに基づいて設計されている。

左右にスローガン。 

「青天白日」の徽章。

 1時間毎に行われる儀仗隊の交代儀式は台湾観光の名物らしい。
 

 交代終了、まるでろう人形のような気配には驚き。
 



                     

北側から。

通りは南国の趣き。

    

 そのあと、「国家文創礼品館(原台湾手工業推広中心)」で民芸品を見学しながらお土産を。通りに出るとなにやら抗議? 集会が。
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