おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

朝顔の松。風花。大井川橋。富士山。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その4。)

2015-02-19 22:06:58 | 旧東海道

 北西の空の雲行きが、ますます怪しくなってきました。西風もますます強く、花びらが散っているかのように、雪が舞ってきます。

注:「風花(かざはな、かざばな)」

 晴天時に雪が風に舞うようにちらちらと降ること。あるいは山などに降り積もった雪が風によって飛ばされ、小雪がちらつく現象のこと。からっ風で有名な静岡県や群馬県でよく見られる。
 冬型の気圧配置が強まり、大陸から日本列島に寒気が押し寄せてくると日本海側で雪が降るが、その雪雲の一部が日本列島の中央にある山脈を越え、太平洋側に流れ込んできたときに風花が見られる。(「Wikipedia」より)

「川越遺跡」の町並みを振り返る。

 左手に広がるのが「朝顔の松」にちなむ公園です。

              「朝顔の松」碑。

 風の強さと寒さでさっさと通過しようとしましたが、せめて説明板だけでも、と撮りました。長文なので、立って読んでいると凍えそう。家に戻って、じっくりと拝見。

朝顔の松の由来

 昔、ここに一本の大きな松がありました。江戸時代、大井川には橋が掛けられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に、足止めされました。
 ここには次のような物語があります。安芸の国(広島県)の娘深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。
 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。
 しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
 ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。
 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎの旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。
 あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。
 その時、はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。
 この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1メートル56センチ、高さ20メートル)でしたが惜しくも昭和十年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。書かれている題辞は「風松久髣舜歌曲枯髄猶留瞽女魂」で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。
 この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている。松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。
 この物語「朝顔日記は」、江戸後期(1811年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、今でも上演されています。

                   島田市

 上にもあるお堂「あさがほ堂」が説明板の左にあります。

 土手に上がって、対岸を望む。

 対岸は、はるか遠く。「金谷宿」は江戸時代には「遠江国」に属していました。
 北側の雲は雪雲そのもの。立っているのがやっとのほどの強風、どうしようか、一瞬、戸惑いました。渡る橋は北側の「大井川橋」。あそこまでけっこう距離はありそう。猛烈で冷たく雪の舞う西風の中、土手の上を進むしかありません。

                     

 辺りを見回す余裕もなく、帽子が飛ばないよう必死に押さえながら、やっと橋のたもとに。

「大井川橋」。

 大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋です。・・・当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋です。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会推奨土木遺産として認定されました。
          静岡県

 道路橋の南側に「歩行者・自転車」専用の歩道橋があります。1㎞という橋の長さですから、15,6分はかかりそう。

   
    対岸はかすんで見えるのみ。             振り返れば、少し明るくなった島田宿方向。

 やっと半分くらい? 天気も晴れてきて、でも西風のすごさは並大抵のものではありません。

             

     
         下流方向。携帯電話も(油断すると、人間まで)飛ばされそうで、おちおち写真も撮れません。

 向こうからは女子高校生二人連れ。自転車で。なりふり構わずという感じで、必死に自転車をこいで通り過ぎて行きました。

やっと対岸の金谷へ。所要時間:16分。

 しばらく土手を進み、ほっとして橋の方向を振り返ると、何と! 橋の向こうに富士山が。


     

 ウソみたいに晴れ渡ってきて、風もいくらか穏やかに。土手の上を自転車に乗ってやって来た地元の方、自転車を停めて、富士山を指し、「今日はよく見えますね、すばらしいですね。」と去っていきます。こちらも土手の上で、すてきな景観をしばらく眺めていました。

     

 ここまでやって来た甲斐がありました。土手を下れば、富士山ともお別れです。


     「東海道五十三次之内 嶋田 大井川駿岸 / 歌川 広重」

 嶋田宿を立つと、東海道第一の大河である大井川がある。水が出ると、旅人は嶋田で足留めになる。図は大名行列の川渡りを上方から描いたもののように見えるが、よく見ると武士・町民の姿もある。大名の先頭はようやく中洲にたどり着いたところで、清流の青の色彩に対し、河原の黄の対比で河の大きさを表現していることがわかる。

大正期の嶋田「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より 
(「知足美術館」HPより)  

 ※ この写真の撮影地点は、木橋が度々流され、「川越し」(船渡し)していたところのようです。まだ恒久的な橋は建設されておらず、また「大井川橋」そのものも、上流の旧国道1号線(現県道381号)に架けました(昭和3年開通)。

現在の、ほぼ同じ地点から。現在の河川敷は、川の中に。                  

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