おやじのつぶやき

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東浅草小(旧待乳山小)。見返り柳。(震災復興52小公園。番外編。その2。)

2013-10-31 22:00:45 | 震災復興小公園

 ※「日本堤公園」側からの「東浅草小」校舎。

 震災復興校舎で現在も小学校の校舎として使用されている二つの学校を紹介します。

①東浅草小学校
 (またまた「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/matutiyamael.html」さんより引用させていただきます。なお、このブログは、台東区の歴史・文化・産業など網羅されていて、たいへん興味深く、示唆に富んだ内容になっています。)‎

☆明治6年5月 浅草聖天町、待乳山中腹に第5中学区三番公立小学校として敷地37坪の中に誕生。前身は明治五年に今戸六七番地の潮江院内に設立された習成舎の分校であった。
「明治五年 第五大区十一小区浅草聖天町、待乳山山上ニ共立学校習成舎ヲ開キ、同六年二月府立トシテ名ヲ命ス」(東京府志料)。習成舎には待乳山山腹に分校があったが、学制施行にともなって公立小学校に改称されている。この小学校が第五中学三番小学校待乳山学校である
 習成舎は相当規模も大きく寄宿舎も設け、授業内容のかなり程度が高く第五大区唯一の区学校であった。習成舎は明治二年に、浅草の有志が清島町誓願寺内に設け漢籍、英字、習字を教授していた。これを引き継いで明治十二年に下谷西町3-21に習成小学校が創立された。校地は筑紫柳川藩藩主、立花家の敷地を無償で供出されて出来たものだった。
 明治19年に小学校の統廃合が行われたが、下谷小学校が坂本3丁目から車坂町33に移転する際にこの習成小学校は下谷小学校に統合された。廃校となった習成小学校跡地は、明治33年に西町女子小学校として独立し、さらに西町小学校となるのである。

☆明治12年 吉野町正法寺境内にあった開明学校を分校とし、男子は本校、女子はこの分校で授業を行った。児童数は164名
☆明治16年10月 亀岡町1丁目1番地(現在の都立台東商業高校付近)に移転し、新校舎落成。敷地105坪、木造2階建て1棟、平屋1棟、建坪84.5坪
☆明治19年11月 待乳山尋常小学校と改称。児童数240名。小学校令発布、小学校は高等.尋常の二科とし、児童は6歳から14歳まで8ケ年を学令とした
☆明治23年4月 高等科併置
☆明治24年12月 地方(ぢがた)今戸町に移転(現在地)敷地342坪、校舎16.7坪で費用は5200円であった。
☆明治25年 校章を制定。待乳山の「待」の字を真ん中にして、旭日の光の模様を型どり、校運の隆昌を祈念したものだった。
・・・(中略)
☆大正12年9月 関東大震災発生、倒壊はまぬがれたが類焼する。10月青空バラック校舎で授業再開。登校児童は4分の1の約400名であった
☆昭和3年5月 鉄筋コンクリート3階建て現校舎落成。建坪1149坪、建築費38万6300円。全教室スチームを通すモダンな造りであった。校旗を作り、以後5月31日を開校記念日とした。
☆昭和4年3月 校歌制定

☆昭和16年 国民学校令施行、4月1日より東京市待乳山国民学校と改称。児童数1204名
☆昭和19年8月 第3学年以上の児童、384名を宮城県赤湯に集団疎開させる。
☆昭和20年3月 東京大空襲で通学区域全焼。学校は羅災者を収容。
☆昭和22年3月 浅草区と下谷区が合併して台東区が発足。4月、台東区立待乳山小学校と改称。
☆平成13年4月 田中小学校と統合し、待乳山小学校の場所で「東浅草小学校」となる。

 以上のようになります。
 「待乳山聖天」は、山谷堀が隅田川に注ぐ辺りにあります。この小学校は、その「山谷堀」の上流、「吉原大門」交差点から少し入ったところ。現在の位置と「待乳山聖天」とは1キロ以上離れていますが、設立当時はすぐ近くにあったことが分かります。
公園脇からの遠望。
正面玄関。校舎の外壁は新しく塗り替えられたようだが、ここは、かつてのまま?
これまで見てきた二つの校舎に比べると、復興校舎様式のもう一つ、インターナショナルスタイル(国際建築様式)のもの。
しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えない。これから先も現役であってほしい。

1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)コの字型の校舎は現在もそのまま。左方、「日本堤通り」をはさんで少しくねった道が「吉原」への道。手前の道路際に「見返り柳」。

「見返り柳」。「吉原大門交差点」にあるガソリンスタンドの前。
「見返り柳の碑」。
説明板。

 見返り柳 台東区千束4-10-8
 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、
 きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
 見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている 平成8年9月 台東区教育委員会

交差点付近にあるクラシックなたたずまいの天麩羅屋さんの店構え。「土手の伊勢屋」。明治22年創業。今の店主は、5代目。昭和2年再建の建物は隣の「桜なべ・中江」と共に国の有形文化財に指定されている。

この奥に遊郭が広がっていた。
山谷堀跡。現在は旧今戸橋まで緑道公園になっている。学校付近、三ノ輪に向かう旧「山谷堀」に今もあるコンクリート製の堤防の一部?
撤去された「今戸橋」の親柱。隅田公園入口付近。
1970年代のようす。(「同」より)まだ山谷堀があったころ。上方の橋が「今戸橋」。すぐ脇が「待乳山」。この当時は悪臭の漂うどぶ川に近かったようです(隅田川の同様)。


学校近くからのスカイツリー。

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