おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その4。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-20 20:01:35 | 日光千人同心街道
                          (12:37)「田中正造終焉の地」との立て看板。 手前の大きな「庭田家」のやしきが終焉の家。
 なお、この看板は立派な記念碑が出来る前に立っていたもののようです。

正造終焉の家、佐野市指定史跡に             
 正造が息を引き取った佐野市下羽田町の庭田家が、「田中正造終焉の家」として佐野市の指定史跡に決定しました。
 正造が亡くなってちょうど100年となる9月4日付けで指定となりました。
 1913年、8月2日、河川調査から谷中村へ帰る途中、支援者だった庭田清四郎(現当主・庭田隆次さんの曽祖父)宅で病に倒れました。妻カツや木下尚江をはじめ、大勢から献身的な介抱を受けましたが、同年9月4日、同家の8畳間で亡くなりました。
                           
 『田中正造終焉の家』 佐野市下羽田町19-2
   ※ 個人宅のため、見学は要連絡(0283-23-1439)
   お問い合わせ 佐野市生涯学習課 文化財保護係 0283-61-1174
(注:2013年の記事)

田中正造翁終焉の地」碑。
 真の文明ハ(は)山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さゞるべし
 田中正造翁は運動の途中倒れ、1913(大正2)年9月4日栃木県佐野市下羽田(旧足利郡吾妻村)の庭田清四郎家で満71才の生涯を閉じた。翁は、近代日本の公害の原点・足銅山鉱毒事件」で苦しんだ被害民の救済・人権回復に半生を捧げた。
 明治政府は、被害地人民の生命と生活をかえりみず最後は谷中村を廃村にし、残留した被害民の家屋まで強制破壊した。
 翁は「亡国日本」を救う運動の中でつちかった「人権・自治・環境・自然との共生・憲法政治の確立・平和・軍備全廃」思想を百年前に主張している。翁こそ、環境人権破壊に抗する人びとの味方として永遠に記憶に留められる人物である。
 庭田家ではその後、現当主隆次氏まで4代にわたって、田中翁が病臥し死去した部屋をそのまま保存し訪れる人びとに翁の思想と行動を伝え続けている。
 庭田家の近くの雲龍寺(群馬県館林市下早川田)は鉱毒被害民運動の拠点だった。当時の住職黒崎禅翁師も被害民と共に闘い川俣事件で逮捕された。
 雲龍寺には翁の分骨地墓と「救現堂」「足尾鉱毒事件被告之碑」がある。
 庭田邸と雲龍寺には「田中正造翁終焉の地」として、「百年の悔いを子孫に伝うるなかれ」という翁の戒めを私たちに常に発信し続けている歴史的精神的遺産である。

 2017年8月吉日 記念碑建立実行委員会

                     

佐野が生んだ偉人  その行動と思想」HPより
9.谷中村跡 〔所在地図〕
◆足尾鉱毒事件により地図から抹殺された悲劇の村
 明治10年(1877年)以降、足尾銅山から排出された鉱毒のため洪水のたびに、渡良瀬川の流域の村々では、作物が枯れ、豊富な魚介類が死滅するという被害が出ていた。明治33年(1900)に被害民が大規模な抗議行動(第4回東京大挙押出し)を起こした川俣事件、明治33年(1901年)の田中正造の天皇直訴事件等で、社会の耳目を集め国会でも大きな問題になった。
 明治政府は鉱毒事件の解決のため、毒の水をためる調節池(渡良瀬遊水地)の建設を行うことを計画した。その犠牲になったのが谷中村の住民である。谷中村では村ぐるみで「藤岡村との吸収合併」「土地の不当買収」「住民の強制立ち退き」に反対したが、施政権のある当局には勝てず明治39年(1906)、谷中村は藤岡町に合併され法律上、消滅した。結果的に土地は不当に安い値段で当局に買い上げられ、被害民たちは近隣の村々に、遠くは北海道の荒涼地へ移転していった。
 その後も387戸、2,500余人の住民のうち16世帯約100名は、谷中村の遊水池化に反対し買収に応ぜず提内に留まっていた。これに対し、西園寺公望内閣は明治40年に土地収用法の適用認定を公告、谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、谷中村を地図上から、更には公の資料から全て抹殺しようと謀り、明治40(1907)年6月29日より7月5日までの7日間にわたって谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行した。
 強制破壊後も谷中村残留民は、仮小屋を作り悲惨な生活を強いられながら抵抗を続けたが木下尚江らの勧告もあって大正6年(1917)、強制破壊から10年におよぶ反対運動を断念、全ての戦いが終わり谷中村は名実ともに消滅した。
               


(12:41)道は「県道7号線」を横断し、「才川」に沿って進みます。

                                

 旧道は、しばらく進んで、右に曲がり、直進。そのまま県道と東武線を越えて行きますが、なかなか通りの向こう側に渡れません。しかたなく県道をそのまま歩きます。

(13:07)東武線「田島」駅。旧道は線路の向こう側を行く。

(13:23)「秋山川」のところで旧道と合流。

???土蔵造りの建物をリフォーム。

「天明宿」(佐野)への道。


(13:37)重厚な建物の旧家。

                               

「佐野ラーメン」のお店。かつての建物を生かす。

そんなお店が目に付きます。


(13:44)こちらは「郷土銘菓舗 金福」。

凝った意匠の屋根。

一方ではこんな洒落たおうちも。

 通りの左には田中正造の本葬を行った「惣宗寺(佐野厄除け大師)」がありますが、翁の墓の前には石川啄木の歌碑があるそうです。
 夕川に 葦は枯れたり 血にまとう 民の叫びの など悲しきや

(13:47)「例幣使街道」との合流地点「本町」交差点に着きます。

「例幣使街道」西方を望む。

庵看板(屋根付きの看板)のあるお店を見ながら佐野駅へ。

JR「西八王子」駅から東武線・JR線「佐野」駅まで。今回で完歩。

 「国道16号線」をはじめ、幹線道路が多く、けっこう車の通りが激しい中での歩きでしたが、なかなか変化に富んだ、見所の多い道筋でした。
 特に後半、田中正造にまつわる遺跡にはかなり興味をひかれました。機会があれば、「旧谷中村」を訪れてみたいと思います。

《今年歩いた街道》
①日光御成街道(本郷~幸手)
②青梅街道(新宿三丁目~「奥多摩湖」)
③日光例幣使街道(倉賀野~下今市)
④日光千人同心街道(西八王子~佐野)
⑤川越街道(板橋~川越)
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