おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その4。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-10 20:16:59 | 日光例幣使街道
                            メインストリート。

取り壊した屋根の跡が残る土蔵。宿場独特の間口が狭く奥行きのある敷地。


(13:13)「石橋」交差点手前にある「鈴木内科」が本陣跡。

裏手には重厚な土蔵などがあります。

鈴木石橋先生旧居」解説板。
 先生名は之徳、字は沢民、通称四郎兵衛
 累世豪農である、年少にして昌平黌に入り学成り国に帰り家を継ぐ傍ら子弟を教えて麗沢の舎と号す。蒲生君平は先生の門より出ず、天明の飢饉には私財を投じて窮民を賑恤す。晩年心を易学に潜め周易象儀その他の著書あり。
 文化12年1月25日病を得て没す。寿62才大正の初め正五位に浴せしは「惻隠余情」に記述さられし如く社会的功績によるものである。今尚遺稿、蔵書など多数現存す。

注:「賑恤(しんじゅつ)」=貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること。「賑給」ともいう。

  「蒲生君平」=明和5年〈1768年〉ー文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)。江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。

 なお、「蒲生君平」については、「日光道中」を歩いたとき、「蒲生君平旌碑」が宇都宮宿の手前、東武宇都宮線のガードをくぐった右手にありました。
        


 
                      「屋台の町 鹿沼」。白い花が咲く百日紅(サルスベリ)。

日光例幣使街道」碑。
                       地元では「日光西街道」あるいは「壬生街道」とせずに、このように呼称しているようです。

地元の工業高校生たちが制作した「常夜燈」。木工細工の盛んなところです。

「まちの駅・新鹿沼宿」。

 入口付近にある芭蕉と曾良の木彫作品。「芭蕉と曾良像  チェーンソーカービング
 
・・・鹿沼は「木のまち」です。この像の素材は鹿沼産の杉、市内のチェーンソーアーティスト小林哲二さんに、みちのく東北に思いをはせながら彫ってもらいました。東武新鹿沼駅、JR鹿沼駅、屋台のまち中央公園、光太寺にも小林さんが作った私(注:「芭蕉」をさす)の像があります。
 皆さんにも、句碑や笠塚を訪ね、お蕎麦やこんにゃく料理を食べながら彫刻屋台等の伝統文化や美しい自然を満喫する旅を楽しんでください。
 平成23年12月設置   鹿沼地区木材需要拡大協議会

注:チェーンソーカービングとは
 「チェンソーカービング」とは一言でいうと「チェンソーを駆使した彫刻」を指します。
 「チェンソー(チェーンソー・チェインソウ)」は木を切る道具であり、鎖状の刃をエンジンもしくは電気モーター、またはエアーの力で回転させて物を切断するための道具です。(動力式ノコギリ)
 チェンソーカービングの材料となるのは「木」や「氷」で私たちチェンソーアート・ジャパンでは主に木を使っています。その木(主に丸太)を数種類のチェンソーだけを使用し、彫刻作品を生みだしていきます。
 また、作品だけでなく、制作過程をエンターテイメントとして楽しんでいただいています。
 彫る姿そのものをチェンソーアート・ジャパンでは「チェンソーアート」と定義付けています。
 たいへん危険な作業でもあるため「世界で一番危険なアート」とも呼ばれています。
 「チェンソーアート」=「ワイルドなエンターテイメント」と言われます。
 「チェンソーカービング」は人によっては「チェンソーアート」とも言われ、それをおこなう人を「チェンソーアーティスト」または「チェンソーカーバー」と言います。・・・
(この項、HPより)

 ところで、「奥の細道」紀行文を通して、芭蕉と鹿沼宿との深い縁が知られています。「石橋町」交差点から東武線を越えたところにある「光太寺」には、「芭蕉の笠塚」があります。
 また、鹿沼宿での句としては、二句残されています。

 ・鐘撞かぬ里はなにをか春の暮れ
  入相の鐘を撞かないこの里では、里人は何を頼りに春の夕暮を迎えるのであろう。

 ・入相の鐘も聞こえず春の暮れ
  入相の鐘も聞こえぬまま春が暮れていく。

 ただし、「奥の細道」では記されていません。

 元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、室の八島を訪れた芭蕉は、葵生(けぶ)から壬生へ出て壬生街道に入り、楡木、鹿沼、文挟、板橋、今市を経由して4月1日正午ごろ日光・鉢石宿に到着しました。

室の八嶋に詣す。
同行曽良がいわく、「この神は木の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習(よみならわ)しはべるもこの謂れなり」。
はた、このしろといふ魚を禁ず。縁記(えんぎ)のむね世に伝ふこともはべりし。

卅日(みそか)、日光山の梺(ふもと)に泊まる。
あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。よろず正直をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜の草の枕もうとけて休みたまへ」といふ。
いかなる仏の濁世塵土に示現して、かかる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固の者なり。
剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気禀の清質もっとも尊ぶべし。

卯月(うづき)朔日(ついたち)、御山に詣拝す。
往昔(そのむかし)この御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改めたまふ。千歳未来をさとりたまふにや。
今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。
猶憚り多くて筆をさし置きぬ。
  あらたうと 青葉若葉の 日の光

 芭蕉に随行した曾良の「随行日記」によると、もう少し詳しく行程が知れます。
『曽良随行日記』
・・・室の八島へ行(乾の方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る(毛武と云ふ村あり)。此間三里といへども、弐里余。
 一 壬生より楡木へ二里。よぶより半道ばかり行て、吉次が塚、右の方廿間ばかり畠中に有。
 一 にれ木より鹿沼へ一里半。 
 一 昼過より曇。同晩、鹿沼(より火(文)ばさみヘ弐里八丁)に泊ル。(火ばさみより板橋ヘ廿八丁、板橋より今市ヘ弐里、今市より鉢石へ弐里。)
 一 四月朔日 前夜より小雨降。辰上尅、宿を出。止ては折々小雨す。終日曇、午の尅、日光へ着。雨止。

・・・室の八嶋へ行く(北西の方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る。(毛武<癸生>という村あり)。この間三里というが二里余り。
 一 壬生より楡木ヘ二里。壬生より半道(半里)ばかり行くと、金売吉次の塚、右の方二十間ばかり畑の中に有り。
 一 楡木より鹿沼へ一里半。
 一 昼過ぎより曇り。同晩、鹿沼(より文挟へ二里八丁)に泊る。(文挟より板橋へ廿八丁、板橋より今市へ二里、今市より鉢石へ二里。)
 一 四月一日 前夜より小雨降る。午前7時半頃、宿を出る。止んでは折々小雨降る。終日曇り。正午頃、日光へ着く。雨止む。

 鹿沼宿ではどこに宿泊したのかは定かではありません。「笠塚」のある「光太寺」だという説もありますが、無住のお寺に宿泊するとは思えません。

「仲町屋台公園」内にある「屋台展示収蔵庫」。

 みごとな白木彫刻の「仲町屋台」が展示されています。


     


 鹿沼市には、鹿沼の秋祭りに繰り出される今宮神社氏子町の屋台が27台あり、これ以外にも、楡木町(にれぎまち)に3台(うち1台は山車)、上大久保(かみおおおくぼ)に1台、口栗野神社大祭に繰り出される7台を含め、計38台の屋台が現存しています。
鹿沼の屋台は、江戸の屋台の系統を引く「踊り屋台」から発展したものと考えられ、その構造は、唐破風(からはふ)の屋根を載せた単層館型(たんそうやかたがた)で、四輪を内車式に付けたものです。屋台本来の機能は氏神へ奉納する芝居や踊りのための移動舞台ですが、現在では囃子方(はやしかた)が屋台の中に乗り、演奏する構造となっています。
 鹿沼の屋台の最大の特徴は、日光山社寺の豪華な彫刻の影響からか、全面が豪壮な彫刻によって飾られている点で、江戸時代に建造された13台と当時の彫刻を付ける1台、合わせて14台が市の有形文化財に指定されています。

 鹿沼屋台が記録に初めて見られるのは安永9年(1780年)。このころの屋台は、簡単な屋根付きの移動できる舞台で、「踊り屋台」と呼ばれていました。
 寛政(1787年~)に入ると付け祭りは盛大になり、各町は、踊りや狂言を競い合って、屋台を造り変えていきました。屋台の中に囃子方(はやしかた)が入るため、かつての「踊り屋台」に比べて踊り場が狭くなるとともに、一部彩色(さいしき)彫刻で飾られた黒漆塗(くろうるしぬり)の屋台となり、彫刻屋台の祖形ができあがったのです。
 文化・文政(1804~1829年)の江戸文化爛熟(らんじゅく)期、付け祭りは芸能を主体にますます盛大になり、華やかな舞台背景としての黒漆塗屋台は、華麗な彩色彫刻で飾られていきました。
 その後、文政・天保の改革によって「祭礼を質素に、在郷(ざいごう)芝居が禁止」されたため、各町の付け祭りに対する意気や力の競い合いは、いつしか屋台を質実豪壮な白木(しらき)彫刻で飾ることや、囃子を奉納する神社への繰り込みへと向けられ、幕末には白木造りの屋台が主となり、重量感のある豪壮な彫刻屋台になっていきました。
 鹿沼の古くからの彫刻屋台は、漆塗(うるしぬり)や彩色(さいしき)の有無によって、概ね次の種類に大別されます。
■彩色彫刻漆塗屋台(さいしきちょうこくうるしぬりやたい)(7台)
 車体は黒漆塗(くろうるしぬり)、錺(かざり)金具付きで、彩色された彫刻を付けた屋台。
■白木彫刻漆塗屋台(しらきちょうこくうるしぬりやたい)(1台)
 車体は黒漆塗、錺金具付きで、白木のままの彫刻を付けた屋台。
■白木彫刻白木造屋台(しらきちょうこくしらきづくりやたい)(19台)
 車体も彫刻も白木で造られた屋台。
(以上、「」HPより)

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