おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

馬室原一里塚から熊谷宿まで。その5。(旧中山道をゆく。第4日目。補足編)

2016-01-14 20:56:31 | 旧中山道
 というわけで、またまたやって来ました、荒川土手に。今回は高崎線「行田」駅で下車。西口をまっすぐ進むと、先日も目にした「ライオンズマンション行田壱号館」の脇で、荒川の土手にぶつかります。そこから再開、ということに。

 1月8日(金)快晴。

 行田駅には昼少し前に到着。腹ごしらえをして、と思いましたが、西口には、お店は一軒もなし。エッ! 自販機でお茶を購入して、ま、天気もいいし、小一時間で「熊谷駅」に着くだろうから、その途中でもいいか、とこれまた安易な気分で出発。実は、「熊谷駅」付近まで食べ物屋さんらしきものは一軒もありませんでした。・・・

 土手下には、「一里塚」跡があります。その手前の草むらには、ぽつんと「馬頭観音」。たしかに旧街道筋だという実感が。



(12:15)そのまま草地を下って行くと、小さな祠が「一里塚」跡。日本橋から15里目のもの。

    

一里塚跡(久下新田)
 江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
 柳樽には
 くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 

 たしかにそんな気分に。
 そういえば、この句、東海道歩きでも見たことがありました。忘れもしない、去年8月。
 「石薬師の一里塚」の解説文中に、

 《くたびれた やつが見つける 一里塚(江戸時代の川柳)》 と。
 
 炎天下、照り返しの強い舗装道路、人っ子一人通らない道をひたすら歩いて来て、いささか草臥れてしまった時に出会いました。

この一里塚は日本橋から102里目でした。

 今回は、別の意味で一安心。さて、「中山道」を続けます。
振り返って望む。

ここは左の道を進みます。

 住宅と大きく広がる田畑。冬とは思えない、何やら春めいた陽気。
    

道は次第に土手を下って行きます。振り返って望む。

分かれ道のところにある「久下堤の碑」。
 明治45年(1912)に建立。この付近の堤防は、もともと旧荒川(元荒川)を締め切る堤防として築かれたもの。江戸時代初頭から存在する堤防です(近年になって大改修されてはいますが)。碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されています。
 「後の世までも 修堤記録 輪型の碑」。

土手下から上流方向を見上げる。

 久下地区の集落に入って行きます。左手の熊谷市役所久下出張所にある絵入り解説板。荒川の河川敷にあり、荒川の近代改修によって分断され、その後廃村になった旧・新川村(しんかわむら)の当時のようすが記されています。

 新川村は人口は約550人、家数94戸、舟の数49艘(明治20年)でした。「新川」とは江戸時代初頭におこなわれた荒川の瀬替え(流路を西へ変更)によって、新たに開削された荒川を指しています。
 当時の村では、男は養蚕、農業のあいまに舟や筏に乗って新川と江戸(東京)を往復。女は蚕仕事がない時は、糸を紡ぎ機を織った。村内には鵜づかい漁ををする者もいました。
 「新川」河岸は荒川の河岸場としては最上流に位置していますが、明治時代の初期でも、かなりの規模があったようです。
 江戸時代には新川河岸は、忍藩の御用河岸として、年貢米の積み出しも行われていました。また、新川河岸には、筏に組まれて荒川を下って来た木材を、一時的に保管する係留場もあり、筏の組み替え作業なども行なわれたうた、といいます。絵図を見ると、賑わいを見せていたことがわかります。




 荒川の右岸、左岸の河川敷には、旧・新川村(しんかわ)の墓地が残ていて、今もご先祖の供養に訪れる人が多いという。また、河川敷には墓地以外にも、新川村上分(かみぶん)の屋敷森と土砂に半分埋まった三島神社の鳥居が無言で残っているそうです。

 現在、地元では「幻の村」として散策コースが整備され、失われたかつての暮らしの痕跡が垣間見られるようです。

    
        左手に広がる河川敷あたりか? 畑は耕され、遠くには屋敷林なども。



 1880年代の「新川村」のようす。河岸には集落や船着場もあります。右上をかすめているのが、「中山道」(久下の長土手)。荒川に沿ってもう少し東北方向に家並みが広がっていました。現在残っている「三島神社」そのはずれにあたります。



2010年代のようす。すっかり河川敷内に。屋敷林など集落があった当時の面影も残されているようです。

 「久下出張所」前の通り。大きな屋敷が並びます。
    

「源助大根」が道端に。

振り返って家並みを望む。

「久下橋」に通じる橋脚をくぐります。

屋号の入った蔵。

 しばらく進むと車道から離れ、旧中山道は荒川土手に向かいます。その右手先には、「権八地蔵」、「道標」などがあります。
分岐点から振り返る。

        
            (12:40)「権八地蔵」。
 元禄11年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八が罪を犯し、お地蔵様に向かって「誰にも言うな」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。

 その前の久下権八公園には、「熊谷堤碑」。篆額は伊藤博文、とのことです。
(元は明治12年建立)

「中山道」の道標。    「右 熊谷道 左 松山道」。

この付近、わずかですが、旧道は失われているようです。 



 1880年代のようす。船着場があります。現在の久下橋よりも上流の地点。「旧久下橋」が出来る前の対岸への渡し場だったのでしょうか。左上に「東竹院」の名が見えます。
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