おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

さいたま副都心駅から馬室原(まむろはら)一里塚まで。その1。(旧中山道をゆく。第3日目)

2016-01-09 18:42:37 | 旧中山道
 2015年の暮れも押し詰まったさなか、家人は家の大掃除で忙しそう。担当の年賀状書きも終わり、さっと、旧中山道へ。第3日目。

 12月26日(土)。快晴。午前9時20分から午後3時30分まで。

 (09:20)「さいたま副都心駅」を出発。目標は、高崎線「北本」駅の先にある「馬室原一里塚」まで。

広い道路の頭上には「旧中山道」という立派な表示。

 すぐに「大宮氷川神社」の「一の鳥居」とケヤキ並木の参道が右手に。古中山道はそこを通っていたが、その後、北側に進む現在の中山道になりました。



 「大宮宿」は、江戸・日本橋から4番目の宿場。土曜日のせいか、車は多いが、人通りは少なめ。右手の街道沿いに「塩地蔵」の碑。

この碑の前の小道を入る。

 その昔、父と二人の娘が旅をしていたのですが、あるとき旅の途中で父親が病気になったそうです。すると、お地蔵様から塩断ちをするようにとお告げがありました。 娘たちが塩断ちをして、お地蔵様に祈ったところ、父親の病気が全快したため、お礼に塩をたくさん奉納したということです。今でも山盛りの塩が奉納されているそうです。

そこから来た道を振り返る。

 ところどころに取り残されたような古い家屋。
    

 さらに進んでいくと、「第四銀行大宮支店」の店舗が目に付きました。その名称にパチリ。


「第四銀行」
 新潟県におけるリーディングバンクとして、県内に強固な経営基盤を有し、県及び新潟市の指定金融機関とされている。新潟市中央区の本店のほか、地域拠点として長岡市に長岡営業部、上越市に高田営業部を設けている。
 1872年(明治5年)に制定された国立銀行条例に基づいて設立された金融機関のうち、俗に言う「ナンバー銀行」の商号のまま現存する法人としては最古の銀行である。2013年(平成25年)に「創業140周年」を迎えた。
 同時期に設立された第一、第二、第五の各銀行は「第一銀行」が「みずほ銀行」、「第二銀行」が「横浜銀行」、第五銀行が「三井住友銀行」となって現在に至っている。第三は開業中止のため当時欠番だった。

 ところで、その建物の南側には「涙橋」の碑があるようですが、見逃しました。
 江戸時代に、刑場に護送される罪人を、その橋まで見送ることができたということです。 涙・・・涙のお別れだったようです。
涙橋は、鴻沼へ流れる水路に架けられた「中之橋」が正式名だそうです。(この項、「さいたま市立図書館」HP参照。)

「涙橋」との出会いは、これで4回目。「日光街道」の千住(小塚原)、「東海道」の品川(鈴ヶ森)、磐田(遠州鈴ヶ森)と、ここ。
 刑場は、「高台橋」の脇にあった「下原刑場(しもはら けいじょう)」。「下原」は一帯が原っぱであったことにちなむものです。この刑場は、現在の「さいたま新都心」駅の東側一帯にあたります。

高島屋を過ぎた辺り。繁華街。

 なお、現「高島屋」の場所には、紀州鷹場本陣(北澤本陣)が場所にあり、それに因んだ社が屋上にあるそうです。

 ところで、《大宮宿》

 人口:1508人(男679人 女829人)家数319軒
 本陣:1 脇本陣:9 旅籠:25 日本橋から約7里16町(29.2km)
 吉敷町から土手町まで9町30間の町並み。
 
 (9:45)「中央通り」が本陣や脇本陣、旅籠が軒を連ねていた宿場の中心街でした。 左側すずらん通り角の「キムラヤ」が当初の「本陣」を勤めたといわれる「臼倉本陣」跡です。



 店の裏手には消えかけて判読不能の解説板と、当時からの井戸水であるつくばいがあります。


 この他、脇本陣、問屋場、高札場など、江戸時代の史跡の案内表示がないため、場所を確認することはできません。
 その先しばらく進むと「大宮宿」も終わり、東北本線と東武野田線のガードをくぐります。


「官幣大社」の石柱付近から「大宮宿」を望む。

ガードには「中仙道」の表示が。

ガードを越えたところから。

この付近の地名は「土手町」。浮世絵に描かれたような風情はありません。かつては富士山が望めたのでしょうか

          
          『木曾街道 大宮宿 冨士遠景』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷(さと)。左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬(き-ぐわ)を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く孫であろう幼子である。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている。商いの旅などであれば頓着の無いことが多いようではあるが、土手の上にまで幾人も見られる旅人の往く手には丹沢山地と富士の眺望がひらけている。この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔(東大成の庚申塔)あたりの、かつての様子である。もっとも、土手と田畑の高低差は実際これほどではなく、誇張して描かれている。

    
 「武州川越くらづくり本舗」。               「スイートポテト べにあかくん」。



 実は、中山道。「県道164号線」と重なって進むようですが、道路の拡幅工事が進められ、道路は広くなり、沿道周辺は近郊都市としての機能が進んでいます。
 まだ所々、拡幅工事が進まず、狭い場所も残っていますが、多くは道幅も広くなり、沿道には新しい家屋や大型総合ショッピングセンターや大きな飲食チェーン店(それぞれ大きな駐車場)、さらに住宅地が広がっています。沿道にあったと思われる樹木などの緑も少なくなり、また史跡、建物など街道筋を偲ばせるものはほとんど見当たりません。そこは「旧東海道」歩きとは大違いです。
 そのため、写真もほとんど撮らないまま、車の激しく行き交う舗装道路・歩道を次の宿場に向かうことになります。「鴻巣」辺りまではこんな感じ? わざわざ歩かず、車で通過したいような心持ちになってきます。


       (10:40)「新幹線」と「国道17号線」の下をくぐります。右手奥に埼玉新都市交通伊奈線「加茂宮」駅。

つい、こんな看板を撮ってしまう。「カウンター婆ア 女猫」。

 (11:05)JR線高崎線「宮原」駅を過ぎ、しばらく進むと、右手に「加茂神社」。



 栄泉の描く「木曾街道69次」の「上尾宿」の画は「加茂神社」付近。「加茂神社」は上尾宿よりも3㎞ほど手前の「宮原」にあります。

            
         『木曾街道 上尾宿 加茂之社』天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路である。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれた。秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいている。その中の一部に絵の版元「いせり(伊勢利)の宣伝が見えるのは、絵師一流の洒落っ気である。社の前では男2人女2人の農民が唐箕を使って籾(もみ)の精選に励んでいる。その奥には立場茶屋(天神橋の立場)があり、今しがた茶屋を発った侍と供の2人連れ、一服しようと立ち寄る商人1人が見える。もっとも、実際の立場は、近くはあっても神社と隣接していたわけではなかった。また、街道筋の境内前に出張って唐箕を使うなど、ずいぶんおかしな光景には違いない。つまり、絵師は3つの画題を一画面に詰め込んだのであり、絵画的工夫の結果としてこの図がある。
 
コメント
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