おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

四日市宿。戦災。大入道。三滝橋。満殿の湯。・・・(「桑名」駅から「内部」駅まで。その7。)

2015-08-10 23:26:55 | 旧東海道

 現在の四日市には、本陣、脇本陣、問屋場など宿場に必ず設けられていた施設跡の表示がないようです。先達の方々の記録などを参考にしましたが、今一つはっきりしません。結局、ほとんど見逃してしまいました。
 できたら、東海道の旅人のために簡単なものでもいいですから、解説板などを設置してもらいたいと思います。「宮(熱田)」宿も「七里の渡し」付近以外は、「本陣」跡など東海道に関するの表示はほとんどありませんでした。一方、他の宿場町、街道筋ではけっこう親切な表示が多かった、と。
 「四日市」も町並みの変化(特に戦後の変化)が激しかったのでしょう。今回初めて四日市の街を歩きましたが、これまでは、東海道の「宿場」町というイメージはまったくなく、コンビナートの町、かつては公害の町、という印象しかありません。宿場町としての遺構がないのも、戦後、湾岸工業都市として大発展してきたことの証しでもあります。

 特に他の都市と同様、第二次大戦末期、米軍による激しい空襲で壊滅的状況になったことが大きいでしょう。

 「海軍第二燃料廠」をはじめ多くの工場群を擁した四日市は、アメリカ軍の重要攻撃目標とされた。
 1945年(昭和20年)6月18日午前0時45分、アメリカ軍B-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11,000発・567.3トンを投下。人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化した。以後、8月8日まで合計9回の空襲を受け、海軍燃料廠をはじめとする工場群は壊滅的被害を受けました。
全空襲による人的被害は、被災者49,198人、死者808人、負傷者1,733人にのぼった。(以上、「Wukipedia」参照)


「鵜の森公園」にある平和の誓い 四日市空襲殉難碑。 
      
殉難碑撰文
 昭和十六年十二月八日に勃発した太平洋戦爭は、ポツダム宣言受諾によって、同二十年八月十五日遂に我が国の敗戦に終った。
 この間、アメリカ空軍重爆撃機B29による日本本土への空襲は日ましに激化し 戦禍はとどまるところを知らなかつた。海軍燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市市も、前後六回にわたる苛烈な爆撃により壊滅的被害を受けた。
 わけても最初の爆撃を受けた六月十八日の災禍は悽愴の一語に尽きる。即ち午前零時四十五分頃から約一時間にわたり、B29三十五機の、三万発におよぶ油脂焼夷弾等の絨毯爆撃により市街地は灼熱のるつぼと化し、退路を断たれた多くの市民は、阿鼻叫喚の巷を彷徨した。炎の犠牲となるもの、壕に閉され窒息死するもの、身をかえりみず消火に一命を賭するもの、あわせて八百余名にのぼった。 恐怖の一夜が明けると、一望焦土と化した焼跡に、ただ呆然とたたずむもの、未だ硝煙のくすぶる中を、肉親を求めて右往左往するもの、まさに戦爭のうんだ悲劇である。
 終戦後三十五年を経た今日、各方面の浄財によって、ここに新しく四日市空襲殉難碑を建立しその霊の安らかなることを願い、後世悲惨なる戦爭の絶滅を期し、世界永久の平和を祈念するものである。

四日市空襲被災記録

被爆年月日昭和二十年六月十八日、同二十二日、同二十六日、同七月九日、同二十四日、同二十八日
戦災死者八百余名 重軽傷者一、七三三人 被災人口四九、一九八人 被災戸数一〇、四七八戸

昭和五十五年六月  四日市空襲殉難碑建立委員会

HPより)

 戦後70年。「東海道五十三次」を歩いていると、沼津、浜松、岡崎など、宿場町など多くの都市が空襲の大きな被害を受け、その後、官民の必死の努力によって見事復興を成し遂げている実態を肌で感じます。また戦後の区画整理、道路整備・拡幅、都市計画などによって、戦前、まして江戸時代の遺構がほとんど存在しない町も多くあることに気づかされます。

 今また、違憲の「安保法制法案」の衆院強行採決によって、きな臭い雰囲気が生じています。アベ自公政権は、抑止力としての働きを強調、強弁していますが、万が一、アメリカの戦争に荷担することになれば、敵・味方双方の市民に悲惨な被害を生じることは歴然としています。
 特にアメリカ軍などと一体になって(積極的に)後方支援、先制攻撃等を行うことで、殺し・殺される関係が生じ、自衛隊員(あるいは輸送した武器によって)が無辜の市民を殺害したり、それによって、世界各地で生活する日本人が報復を受けることにつながる可能性が大いにあります。多くの市民の生命と暮らしを破壊することにもつながっていく。そうなれば、世界に誇る、戦後の日本が築き上げてきた長い平和の歴史がいっぺんに踏みにじられることになります。
 そんな危険を覆い隠して(ろくな説明もせずに)、やみくもに中国などを敵視し、対米従属一辺倒の自公政権を許すことはできません。この「(米軍主導の)戦争(に主体的にかかわろうとする)法案」廃案に向けてささやかな行動でも、と思う今日この頃。

 レポートの続き。7月20日午後4時40分。

さっそく奇妙な人形がお出迎え。

 これは、「四日市祭」の大入道のモニュメント。

四日市祭の「大入道」

 三重県四日市市で毎年10月に行なわれる諏訪神社の祭礼四日市祭は、大入道山車(三重県有形民俗文化財)で知られる。これは諏訪神社の氏子町の一つである桶之町(現在の中納屋町)が、文化年間に製作したものとされ、都市祭礼の風流のひとつとして、町名の“桶”に“大化”の字を当てて「化け物尽くし」の仮装行列を奉納していたものが進化したものと考えられているが、以下のような民話も伝えられている。
 桶之町の醤油屋の蔵に老いた狸が住み着き、農作物を荒らしたり、大入道に化けて人を脅かしたりといった悪さをしていた。困り果てた人々は、狸を追い払おうとして大入道の人形を作って対抗したが、狸はその人形よりさらに大きく化けた。そこで人々は、大入道の人形の首が伸縮する仕掛けを作り、人形と狸での大入道対決の際、首を長く伸ばして見せた。狸はこれに降参し、逃げ去って行ったという。高さ2.2メートルの山車の上に乗る大入道は、身の丈3.9メートル、伸縮し前へ曲がる首の長さは2.2メートル、舌を出したり目玉が変わる巨大なからくり人形である。これを模して首の伸縮する大入道の紙人形も地元の土産品となっている。また毎年8月に開催される市民祭の大四日市まつりにも曳き出されるなど、四日市市のシンボルキャラクターになっている。 

(以上、「Wikipedia」参照)

 「ろくろく首」のように首が伸びたり縮んだりします。

大入道(おにゅうどう)【中部地区】  

 江戸時代後期の文化2年(1805年)に製作されたといわれる。身の丈4.5m、伸び縮みする首の長さ2.7m、高さ1.8mの山車に立ち、全高は9m。からくり人形では日本一の大きさといわれている。
 山車や人形の中に入った人形師6人が太鼓や銅鑼の音に合わせて操る。
 旧・桶之町の町衆がオケに「大化」の文字をあて、オバケの仮装行列を四日市祭に奉納したのが始まりと考えられ、妖怪や鬼を思わせる彫刻が山車にも施されている。また、町に出没するタヌキの悪事に困りはてた人びとが、すごみのきく大きな大入道を作り、タヌキを退散させたという民話も伝わっている。

(県指定有形民俗文化財)

   (HPより) 

しばらく行くと「三滝橋」。

 
    「東海道五十三次之内 四日市 三重川 / 歌川 広重

 画面は三重川となっているが、交通の激しい東海道での風景としては考えにくい。旅人や草木などから強い風が吹いている様子がわかる。沼沢の地の板橋や、捨小舟を添えて、芦の葉のなびく野中の一本道で野分に合羽をとられまいとする男、笠を飛ばされ必死に追う男を滑稽に配し、旅の辛さ、人生の辛さを描こうとしたのだろう。高度成長期を経た現在の四日市からはこんな風景は想像できない。

(「知足美術館」HPより)

 この絵は、現在の三滝橋付近を描いたとされています。

「大正期の四日市」(「同」より)

 この先から四日市宿の問屋場や高札所、さらには本陣、脇本陣などの施設が置かれていた地域になります。

 四日市宿は、東海道五十三次の43番目の宿場。幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました。宮(熱田)宿との間には、「宮~桑名」間の「七里の渡し」とは別に、「宮」と「四日市」を結ぶ「十里の渡し」という海上航路がありました。 この航路は桑名~四日市間の3里8町(約12.6㎞)を歩かずにすむため、旅人には利用されていたようで、その航路利権をめぐって桑名宿と争いがあったそうです。

 宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。けっこう大きな宿場でした。

本陣の一つ(といわれる)「黒川本陣」跡。

 この手前には、「問屋場」跡などもあるようですが、定かではありません。

宿内を振り返る。「清水本陣」はもう少し南側だったらしい。

広い通りを渡ると、交差点の角に道標。   

旧町名 南町
 東海道と港へ通じる東西道路の交差する四つ辻の南に位置した市場であることから弘治・永禄年間(1555~1570)に南市場と称された。江戸時代には宿場町として栄え、寛文3年(1663)には町名が南町と改められた。問屋場や脇本陣・飛脚などとともに多くの旅籠が集中し、旅籠町とも呼ばれた。その後、東西に新開地として広がった。

   いったん寸断されてしまいます。迂回道が掲示されている。


1890年ころ。←が「三滝橋」。○がこの辺り。「東海道」が顕著な道として残っている。


参宮急行電鉄伊勢線が諏訪駅から国鉄四日市駅に向かっていた。旧宿場内の市街地が西に拡充され、道路が縦横に張り巡らされた。


国道1号線が拡幅延長、また近鉄の路線が大きく変更され、廃線跡はJR四日市駅までの大通りの北に位置する。


現在。

四日市市内の路線図変遷。

来た道を振り返る。「東海道」はこのまま諏訪神社方向に向かっていた。

    
                                「みやまえ商店街」が旧道にあたる。

「商店街」南側。東海道は広い通りを利を越えて南に続く。

四日市市内の路線図の新旧比較(「Wikipedia」より)。 
   

 時刻は、5時20分を回ったところ。かなりくたびれたので、今回はここで終了。近鉄四日市駅近くのビジネスホテルに向かいました。
 「四日市アーバンホテル」。朝食付きで税込み4,300円。さらに、歩いて15分くらいのところにある、「アーバンホテル」の系列・「満殿の湯」の無料入浴券(貸しタオル付き・ドリンク付き)がサービスとしてあります。たくさん汗もかいたのでちょうどよかった! 着替えを持ってさっそく出かけました。
 
            

 いろんな種類の温泉が楽しめます。けっこう親子連れや若い方などけっこう混んでいましたが、なにしろ大きい施設なのでゆっくりとお風呂を味わえます。

    

 一通り、「大露天風呂」から「ジャグジー」などさまざまな種類のお風呂に入って、満足! 満足! お風呂から上がって食事処へ。サービスの生ビールを飲んで、さらに大ジョッキセット、酎ハイと食べ物を注文。これが都内の飲み屋さんとは段違いに安くてボリューム満点。(そうそう町の通りにある自販機の飲み物も100円が多い)。ホテル代4,300円+αで十分に楽しめました。すっかり外は真っ暗。ほろ酔い気分でホテルに戻ってバタン!

注:温泉の写真は、「満殿の湯」HPより。

 このホテルはおすすめです。

 21日は亀山宿までですが、はたしてどうなるか?
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