原作とは友彦の絵の意味が変わっていたがこれは大きい。元々描いていた絵の質が違っていたもんね。トミーの絵は未分化な無機的に部品として消耗される自分達を世界の生き物達と同化させて確めようとする物であったようだけど、やがて衰えてしまっていた。友彦の絵は未熟だったものが、歳月を経て、様々な形で敗れ、肉体を削ってもなお、少し優しいタッチで確かに向上している。創作する希望まですり減るのはあんまりじゃないか、というドラマ版の作家のスタンスだと思う。失われたモノが、確かに人に哀しみを能うるモノと知らしめるという意味では原作の筆致も決してただ冷酷なモノであったワケではなかったとは思う。
美和との和解の描写も色々話を差し替えつつ、再現しかねる難破船が無いことも踏まえ念入りだった。代わりに解説も兼ねて他の提供者や誤通知の描写等も入りつつ美和との対話を経ての「美しいものを~」まで描かれていた。やっぱり設定の消化が大変な話だから、受け取り難いってのはある。話の大筋も痛みを受け入れることを前提としているからさ。1話の時点では恭子が怒りのエネルギーをもってして違う方向に行く気配もあったが、そうはならなかったようだしね。恭子は個人に帰結する人物だから、異常な世界の個人としての思いにギュギュッとエネルギーが集約してどんな形でか、弾けるのかと期待したんだけど、書き手が真面目な人だから、そんなの間違ってるっ! と真実の反乱と敗北の話という形で作中のオリジナルの負の消化は済んでしまった気がする。怒りも一つの衝動ではあるが、何が美しいと思うかというのも衝動。そういった意味では和解を見届けるということで思いが昇華したと、そういうことなのかな?
美和との和解の描写も色々話を差し替えつつ、再現しかねる難破船が無いことも踏まえ念入りだった。代わりに解説も兼ねて他の提供者や誤通知の描写等も入りつつ美和との対話を経ての「美しいものを~」まで描かれていた。やっぱり設定の消化が大変な話だから、受け取り難いってのはある。話の大筋も痛みを受け入れることを前提としているからさ。1話の時点では恭子が怒りのエネルギーをもってして違う方向に行く気配もあったが、そうはならなかったようだしね。恭子は個人に帰結する人物だから、異常な世界の個人としての思いにギュギュッとエネルギーが集約してどんな形でか、弾けるのかと期待したんだけど、書き手が真面目な人だから、そんなの間違ってるっ! と真実の反乱と敗北の話という形で作中のオリジナルの負の消化は済んでしまった気がする。怒りも一つの衝動ではあるが、何が美しいと思うかというのも衝動。そういった意味では和解を見届けるということで思いが昇華したと、そういうことなのかな?