ナーバスのベクトル

憂いと喜びのベクトルが今日もあちこち上下する

嫌いということ。

2006-05-08 19:12:06 | ベクトル→マイナス
嫌いだということを書いた自分が嫌いだ。
前回、“収納名人と言われる人たちの収納術が嫌いだ”と書いたが、いきなり嫌いという言葉を使ったことを反省している。
正確には、「100円ショップグッズを使った収納を、私はしない」だ。
収納名人の方々のライフスタイルは尊重してるし、その技やアイデアにはびつくりすることも多いが、ただ私はしない、ということだ。
実は前に“野球は嫌いだ”と書いたが、熱烈なトラ・ファンの方がこれを読み、私が野球嫌いなのを知ってその話題は避けるようにしていたとを教えてくれた。
その人は、私が野球嫌いであるということを、とっても尊重してくれているのに、私ときたらいい歳をして、嫌い!嫌い!のタレ流しをしたことをとっても反省している。
自分の好みやこだわりは、自分自身のものである。それを他者にアピールしたり、最重要事項のように放言したり、特別な個別化であるかのように宣うのは、自分、自分、自分しか見てない幼稚な行為であった。

20代の頃、ラーマ・クリシュナの本に「私はいつの日、救われる、それ、その、私が、消えた時」という一文があり目から鱗が落ちた。
私が、私も、私は、私やったら…と、自分のコトだけを中心に置くがために、思い通りにならないことが起こり、悶々としていた若い頃、この一文は光輝くメッセージだった。
で、できるだけ会話の中で「私」という主語を消していくという修行をした。友達が「だって、私わぁ~」とか「でも、私がぁ~」と言い出すたびに、「私はいつの日、救われる、それ、その、私が、消えた時」と言い返していた。せっかくの至極の言葉を友達への反撃に使っていたのだ。ラーマ・クリシュナ様、申し訳ございません。

さて、宗教とは対局にあるような科学の世界の大物・アインシュタインも同じようなことを言っている。
「人間の価値は、何よりもその人がどれくらい自分自身から解放されているかということで決まる」と。
この言葉に対して茂木健一郎は、「いかに自分だけの立場にとらわれないでいることができるか、異質で、ときには違和感さえ覚える他者を排除せずに、自分を耕す肥やしとして尊重できるかが、人間の価値だ」と続けている。

“嫌い”という言葉を発した時点で、そこからなにも広がらない。たぶん私は、野球にもサッカーにも、100円グッズ収納コンテストにも誘われないのだ。
私自身も、人が嫌いと言ったことは、それを避けるようにしている。うちのおバカ宴会を「合わない」と言った人はもう誘わないし、誰々が嫌いとよく言う人には、あまり人を紹介しない。
自分自身が自由でいることも難しいが、他者と共に自由でいることは、ラーマ・クリシュナやアインシュタインのレベルの大物でしかできないのかもしれない。
これからは、“嫌い”という言葉を発するのをやめて、できるだけ多くの飲み会に誘ってもらえる凡人になることにしよう。

「ラーマ・クリシュナとアインシュタインまで出してる割には、目的が軽薄やなぁ」
「その、飲みに行きたいと思う自分自身のとらわれの心を、まず解放させなあかんやろぉ」
「俺たち脳も、長い間こいつの思考に付き合ってきたけど、飲食への欲望を制御するのは疲れたわぁ」

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