日本では神も仏もいない。死んだら終わりと言う人が大半ですが、真実を伝えます。

日本は神も仏もいない。死んだら終わりと言う人が大半ですが、真実を伝えます。

「歴史上、成功した人々は、才能においては一流ではなかった」大川隆法総裁

2018-11-16 14:39:02 | 日記
 

歴史上、成功した数多くの人々は、才能においては一流ではなかった人々です。

才能においては一流ではなかったけれども、忍耐を重ね、

努力・精進を忘れなかった人々が、次々と困難を乗り越えて

人類史に偉大な一歩を築いてきたのです。


『智慧の法』P.40


夫の死の悲しみを乗り越えて「あなた、天国でまた会いましょう」(体験談)

2018-11-16 14:38:07 | 日記

http://voicee.jp/201406019552

夫の死の悲しみを乗り越えて

「あなたが天国に旅立ってから、もうずいぶん経ちましたね。私も2人の息子たちも元気にすごしています。あなたも天国で、幸せに暮らしていますか?」

私は今、こうして笑顔で、天国にいる夫のことを想うことができます。

最愛の人を失い、一時は何も手につかなくなった私が、どのようにして悲しみを乗り越えていけたのかを、お話させていただきたいと思います。

余命宣告

「残念ながらご主人は、肺ガンの末期の状態です」

脇の下の腫(はれ)に気づき、念のために受けた検査。夫も同席するなかでの医師の告知に、私は愕然としました。

(何かの間違いに決まってる。毎年、人間ドックだって受けてるんだから!)

医師の説明では、ちょうど肋骨の陰に病巣があり、健康診断では見落とされていたということでした。さらに、リンパ節に転移したため、短期間で脳にまで遠隔転移。「運が悪かった」と言われました。

夫のいないところでは、「余命3カ月から半年」とも――。

まだ42歳の働き盛り。長男は中学受験を控え、次男は小学3年生です。

(どうしてなの? 私たち、何も悪いことはしてないのに。どうしてパパなの?)

頭の中が真っ白になりました。

押し寄せる後悔

夫のYとは、お見合い結婚でした。

「親孝行で優しそうな人だな……」。彼の誠実な人柄に惹かれました。お見合いの2カ月後には結納を交わし、翌年結婚。2人の男の子にも恵まれ、絵に描いたような幸せな結婚生活を送っていました。

それが一転、結婚13年目にして、突如苦しみのどん底に突き落とされたのです。

確かに、夫には喫煙の習慣がありましたし、発病した頃は仕事でもかなり無理を重ねていたようでした。自動車メーカーの輸出担当で海外出張も多い上、不況による人手不足で、帰宅が深夜1時、2時になることも珍しくなかったのです。

正直、「こんなになるまで、働く必要はあったの?」と会社を恨みました。

しかし何よりも、妻である自分を責めました。「毎日顔を見ていたのに、どうしてもっと早く異変に気づいてあげられなかったんだろう……」。悔やんでも悔やみ切れませんでした。

しのび寄る死の影

「絶対に治す方法があるはずだ」。私は連日、「ガン」と名の付く本を読みあさり、民間療法や健康食品も調べ尽くしました。しかし、必死の努力も空しく、病状は日に日に悪化。食欲も落ち、リンパ節が腫れて左腕が不自由になり、かつての元気な姿は見る影もなくなっていきました。

人前では決して不平や不満を口にしなかった夫が、ある時つぶやいた言葉が忘れられません。私に支えられながら病室を移動していた時、ふと鏡に映った自分の姿を見て一言、「みじめな自分……」と。

働き盛りで一線を退かなくてはならない悔しさ。幼い子供たちを遺していく不安。どれほど無念であったことでしょう。明らかに「死」に向かっている夫を前に、私はかける言葉を失っていきました。

一条の光

そんな、八方ふさがりの時です。母の友人で幸福の科学会員のTさんが、私たちの状況を聞き、金沢から『太陽の法』という幸福の科学の書籍を送ってくださったのです。

何か夫を励ます言葉が見つかるかもしれないと思い、読み始めました。

「人間は、はるかむかしから、永遠の生命をもって生きております」

「人間は、心です。魂です。ですから、死んであの世にもって還れるものは、あなたがた自身の心以外にはないのです」(『太陽の法』より)

(永遠の生命? あの世? もしあの世があるとしたら、万が一、パパが亡くなっても、あの世でまた会えるってこと?)

すぐに確信は持てなかったものの、「死は永遠の別れではない」と思うと、絶望していた心が少し和らぎました。

Tさんにお礼の電話をすると、とても優しくお話ししてくださいました。「仏はいつも見守ってくださっているからね。つらいときほど、側で支えてくださっているからね」。その言葉に、どんなに勇気づけられたことでしょう。

この執着がパパを苦しめているの?

ガンの告知を受けてから1年ほど経ったある秋の日、病院へ向かう電車の中で、1枚の広告が目に留まりました。映画「太陽の法」の広告でした。

「これTさんが言ってた映画だ。観てみたいな。でも、病院に通わないといけないし、無理よね……」

そう思った2日後、自宅に1通の手紙が届きました。夫の元同僚の方からで、開けると、なんと映画「太陽の法」のチケットが2枚入っていたのです。

これも何かのご縁と思い、次男を連れて観に行きました。

人類の歴史を描いた壮大なストーリーに、はじめから引き込まれました。なかでも、お釈迦様が悟りを開くシーンは、今でもはっきりと心に焼きついています。

「家族を思う人間的な心であったとしても、それが執着となれば苦しみの原因となる。なにものにも執われず、小川の水のようにさらさらと流れていく境地に入っていくことだ……」(映画「太陽の法」より)

まるで自分のことを言われているようでした。(「一日でも長く生きてほしい」という思い、これは私の執着なのかもしれない。この執着が、私だけでなく、パパも苦しめているのかな……)。涙をこらえることができませんでした。

その後も、「もっと生きてほしい」という思いはなくなりませんでしたが、同時に、 「どうか夫の魂を救ってください」と願う気持ちが大きくなっていきました。

同じ境遇の友

幸福の科学に救いがあると感じた私は、Tさんの紹介で、東京の支部を訪ねました。支部長さんとスタッフの女性が、親身になって話を聞いてくださり、病気平癒のお祈りをしてくださいました。

そして帰り際に、「せっかくなので何かお土産を」と、小冊子の「ザ・伝道」をくださったのです。

家に帰って読んでみると、Mさんという方の手記が載っていました。

(Mさんて、あのMさん? 幸福の科学の会員だったんだ)

Mさんは、一緒にPTAの役員をしたこともあるご近所さんです。Mさんも、3人のお子さんを抱えてご主人をガンで亡くされていたのですが、信仰によってその悲しみを乗り越えた体験が紹介されていたのです。

「こんな近くに同じ境遇の知り合いがいたなんて」と、深いご縁を感じました。

ついにその時が

私が希望を取り戻していく様子を見て、夫も幸福の科学の書籍を読み始めました。『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』『仏陀再誕』。筋力が落ちて、本が持てなくなると、御法話のCDを聴きました。

「あの世はある」と信じることだけが、私たち夫婦の唯一の救いだったのです。

その年の12月、自宅で療養していた時、夫がふと言いました。

「ママ、あの世で会おうね」

夫は自分の死期が近いことを悟っていたのでしょう。その2日後に、容態が急変――。

そして、年が明けた1月2日、家族が見守るなか、夫は安らかに息を引き取ったのです。舅が「人に自慢したくなるくらい、きれいな顔だ」と言うほど、美しい死に顔でした。

安らかに旅立ったことはせめてもの救いでしたが、いざ現実に夫の死に直面すると、生身を引き裂かれる思いでした。

「パパ、息して。息してよ!」。私はベッドのかたわらに泣き崩れました。

葬儀の間も泣き通しでしたが、火葬され、炉から出てきた遺骨を見た瞬間、「ああ、これでもう元に戻れない!」と。涙があふれて止まりません。私の足元には、小さな水たまりができました。

1人じゃないからね

やがて、冬休みも終わり、子供たちは学校へ、手伝いに来ていた両親も金沢へと帰っていきました。日中、家に1人になった私は、「これで思い切り泣ける」と、「わーっ」と声を上げて泣きました。

と、その瞬間、背中から、「ママ、ママ」と呼ぶ声がしたのです。(えっ?)と思ってふり返っても誰もいません。

(今のは確かにパパの声だ。心配して側にきてくれたんだ……)

四十九日が過ぎるまでは、故人の魂はこの世に留まるといいます。

「私がいつまでも泣いていたら、パパは安心してあの世に旅立てないかもしれない。パパのためにも、子供たちのためにも、がんばらなくちゃ」。自分で自分を励ましました。

しばらくして、「ザ・伝道」に載っていたMさんから、電話がありました。 葬儀にも参列してくださったMさんは、私の様子を心配して、支部に誘ってくださったのです。「幸福の科学の教えと、Tさんたちの優しさに救われた」と実感していた私は、その時、入会しました。

支部の皆さんはとても温かく、とくにMさんは、「1人じゃないからね。私は100%あなたの味方だからね」と、いつも側で支えてくださいました。

夫の愛に気づいて

多くの人の愛に支えられ、生きる力を取り戻していった私は、3カ月後には仕事を始めることができました。ありがたいことに、夫の上司が私たち家族の生活を案じ、同じ会社の事務の仕事を紹介してくださったのです。

15年間専業主婦だった自分が正社員になれるとは、夢にも思いませんでした。一時は恨んだ会社に、実はずっと支えられていたのだと気づかされました。

また、実際に不況下の中堅男性の仕事ぶりを目の当たりにして、夫がいかに厳しい環境で働いていたのかを知りました。常に120%を求められ、上司から厳しく叱責される。体調が悪くても無理を重ねてしまう。家族のために身を粉にして働いてくれていた夫の愛に気づき、深い感謝と尊敬の思いが湧いてきたのです。

奇跡が起きた日

夫への感謝を形に表したいと思った私は、その年の9月、支部で夫の「永代供養(えいたいくよう)」を申し込みました。そして同月、幸福の科学の総本山・正心館(栃木県宇都宮市)で「総本山・先祖供養大祭」に参加したのです。

今思えば、それが私の人生のターニング・ポイントだったと思います。

正心館に到着して礼拝堂に入ると、運良く前の方に1、2席空席がありました。席に案内されて間もなく、突然、「本日は、大川隆法総裁先生より御法話を賜ります」と、アナウンスが流れました。私は、仏の説法を直接拝聴するという奇跡の機会に巡り会えたのです。

総裁先生が御登壇されると、一瞬にして、礼拝堂全体がなんともいえない清かな空気に包まれました。(悟りたる方というのは、こんなにも清らかで尊いものなんだ……)。初めて拝見する総裁先生は、とても神々しく光り輝いていました。

御法話は、死後の導きのお話でした。

「あの世に還って初めて、生き通しの魂があるということを知った人は、ほんとうにびっくりします」「だから、できれば生きているうちに、知っていただきたいのです。何かこの世で縁を持っていただきたいのです。教えが書かれている本を一回読んだことがある、それだけでも悟りのよすがなのです」(法話「『総本山・先祖供養経』講義」より)

仏の慈悲深さに、私はただただ号泣しました。

「パパの魂も仏が救ってくださる……」。夫も隣で、仏と出会えたことを一緒に喜んでいるような気がしてなりませんでした。「パパのことは、もう仏にお任せしよう……」。

苦しみを通して得た魂の宝

それから1年経ち、2年経ち、「永遠の生命」の確信が深まるほどに、私の心の傷は癒されていきました。

夫との死別は、本当につらく苦しい体験でしたが、この経験を通して、私はたくさんの魂の宝を得ることができました。

他の人の悲しみや苦しみ、とくに愛する人を失うつらさは、実際に経験しなければ、本当の意味で理解することはできなかったでしょう。

また、私を支えてくださる多くの人の優しさにも、気づくことができました。そして、自分もまた、大切な人たちの力になりたいと思えるようになったのです。

あなたに会えてよかった

ある時、自分の人生をふり返っていて思いました。

「私は夫を亡くしたけど、TさんやMさんをはじめ、支えてくれる人がいる。子供たちもいる。両親もいる。健康で、仕事もある。私に欠けているものを数えたら片手で十分だけど、与えられているものを数えたら、両手両足を使っても足りない。私は本当に幸せ者だ」と。

夫と過ごした日々をふり返って、私は今、心から言うことができるのです。

「あなたと結婚できて、私は本当に幸せでした。私があの世に還ったとき、笑顔で再会できるように、あなたから合格点をいただけるように、私は残された人生を精一杯生きていきます。あなた、本当にありがとう。天国でまた会いましょう」


「強い個性」と「自己信頼」で戦う・大川隆法総裁

2018-11-16 14:37:38 | 日記

不況の時代には、どうか、

「発想で闘っていく」という姿勢を持ってください。

そのときに必要なのは、

周りの批判に負けない「強い個性」と「自己信頼」だと思います。

道は必ず拓けます。



『創造の法』 P.123

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怒ってばかりだった母との和解「意地悪してごめんね」(体験談)

2018-11-16 14:36:48 | 日記

http://voicee.jp/201401154573

 「さっさと、やりんさいや!」

私の実家は広島の郊外にある、大きな古い平屋で、裏手には、家族の食事用の作物をつくる田畑がありました。私は、小学校にあがる前から、いろいろと家の手伝いをさせられました。

掃除、洗たく、風呂焚き、畑から野菜をとってくること……。いつも、母から、たくさんの用事を言いつけられます。私には、それが苦痛でした。

「何回ゆうたら、わかるんね。ちゃんと片付けんさい、ゆうたじゃろう」

ささいなことでも、大声で怒られます。口答えや言い訳などしようものなら、もっと怒られます。私は、言い訳したい気持ちをぐっとこらえ、できるだけ早く、母に言われたように動くよう努力しました。

「言ってもわからんのんじゃったら、もう外に出ときんさい!」

ときには、夕食を抜かれたり、家の外に閉め出されることもありました。テストでいい点をとって、母の機嫌をとろうと、一生懸命、勉強しました。両親の仲も悪く、夫婦げんかはしょっちゅう。言い争う声を聞いていると、暗い気持ちになりました。


自由になりたい

小学校4年生のころのこと。よく家に遊びに行くようになった、友だちのお母さんは、とても優しい人でした。家事もお母さんがとりしきっているようです。私の家とは違う……ショックでした。

「もう、こんな家にいたくないな。そうだ、伯母さんの家に行こう」

私は、貯金箱から小遣いを取り出し、身の回りのものをリュックにつめました。母が出かけている間に、3歳下の妹をつれて、そっと家を出ました。

妹の手を引き、記憶だけをたよりに、かなりの距離を歩き、さらに三十分ほどバスに乗って、なんとか伯母の家にたどりつきました。

「どうしたん? あんたら、2人で来たん?」

私たちを見た伯母はびっくり。すぐ、私の家に電話すると、あわてた母が迎えに来ました。母は、なにも言わず、とても怖い顔をしていました。

自由になりたいなあ……何度もそう思いました。


憂うつな日々

中学、高校になってからも、やはり、母に振り回されていました。母の気持ちが荒れてくると、私も、父や妹も、母の怒りに巻き込まれるような感じでした。

家族はみんな、それとなく母の様子を気遣いながら、過ごしていました。私にとっては、なんとなく心の晴れない10代でした。

いつしか私は、人の言われるままに生きるようになっていました。「こうしたい」とか「こうなりたい」とか、将来の目標や理想のようなものは、私にはありませんでした。未来が明るいもののようには思えなかったのです。

高校卒業後は、担任の先生の勧めるままに、県内の短大に進みました。就職活動の時期も、自分からは何もせず、様子を見かねた先生が勧めてくれた地元の会社に、ようやく就職を決めました。

私は、会社で事務職として働きはじめました。幸い職場の人間関係はよく、私はまじめに仕事をこなしました。友だちにも恵まれ、それなりに楽しい時間を過ごしていました。

けれど、社会人となり、いろいろな人と接するなかで、私は、自分の気持ちをきちんと伝えることができないことに、しだいに苦しみを感じはじめました。心のなかでは嫌だと思っていても、断ることができません。

相手に不愉快な思いをさせたり、人間関係のトラブルが起きることが心配で、つい「はい」と言ってしまう……。

そんな自分が嫌いでした。「私は、こんな苦しい感じのままで、ずっと生きていくんかな」と、なんとも言えない空しい感じがしていました。


親子には深い縁がある

ある日、会社の更衣室で帰る準備をしていると、先輩が、なにげなく椅子のうえに置いた本『神霊界入門』(現在『大川隆法霊言全集』第26巻、第27巻に所収。小桜姫の霊言)に目が留まりました。なんとなく、神秘的な感じのする本で、興味をひかれました。

「その本、貸してもらえますか?」

先輩にお願いして、借りて帰りました。自宅でさっそく読みはじめると、すぐに本の内容にひきこまれていきました。あの世の世界や生まれ変わりのことなど、聞いたこともないような話ばかりでした。

夢中で読み進めていくと、ある一節で目が留まりました。

「親子の関係というものは非常に縁の深いものです。これは1回や2回の生まれ変わりでできたものではありません」

あの母と深い縁があるなんて、いままで考えたこともありません。考えれば考えるほど不思議な感じがして、「親子の縁」ということが、深く心に残りました。私は一晩で本を読み終わってしまいました。そ

れが、大川隆法先生の本との出会いでした。


心が満たされていく

「この本、ありがとうございました。とても面白かったです。もっと読んでみたいのですが……」
「本屋さんに行けば、他にも売っとるよ」

先輩と相談し、互いに違う本を買って、交換して読むことにしました。そして、次つぎと新しい本を読みふけりました。

「苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです」「愛なくして幸福はありません」――。読めば読むほど、心が軽くなっていきました。

大川隆法先生の本には、さまざまなものの見方や考え方が説かれています。私にとって苦しみとしか思えなかったことも、違う見方をすることができるのだとわかり、とても気持ちが楽になりました。

嫌いだと思っている自分自身のことも、変えてゆくことができる。自分の意志で人生も変えてゆくことができる──。そのことを知って、未来が明るく見えてきました。カラカラだった心が、真理の言葉で満たされていくようでした。

片時も大川隆法先生の書籍を離したくなくて、ちょっとした時間にも本を開きました。 先輩といっしょに、職場の他の人たちにも、幸福の科学の本を勧めました。

私は、幸福の科学の機関誌も読むようになりました。あるとき、「情熱からの出発」(『悟りの極致とは何か』第2章に所収)という講演会の内容が載っていました。

「光の力が結集しなければ、とうてい、全人類、全日本人を幸福にするだけのエネルギーには足りないのです」

私も、この教えを広めていくお手伝いがしたい。光の力となって、もっと多くの人を幸福にしていきたい――。そんな気持ちがわいてきて、私は、幸福の科学に入会することにしたのです。


問題集を解かにゃいけん

幸福の科学に出会う前の私は、いつも、母の顔色をうかがいながら過ごしていました。私の人生にとって、母の存在は苦しみの種。心のなかで母のことを責め、できれば逃げ出したいと思っていました。しかし、仏法真理を学ぶうちに、「このままではいけない」という思いが強くなってきました。

仏法真理によれば、人生は一冊の問題集であり、この問題集は、各人が努力して解いていかなければならないのだと言います。そして、悩みの中心こそ、人生の問題集が何であるかを教えてくれているものなのだと言うのです。

私は、いろいろな本のなかから、問題を解くヒントをさがしました。すると、「与える愛」の教えが、私の心にひびいてきました。

「愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。……みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です」(『太陽の法』第3章)

苦しかったのは、私が、お母さんにみかえりを求めていたからかもしれないと思いました。問題集を解いていくには、きっと、愛を与えていくことが大切なんだ――。私は、母に対して、与える愛を実践していこうと決意しました。まずは、感謝の言葉を口に出すことから……。

それまでは、母への反発心から、「料理がおいしい」という言葉さえ、ろくに口にしたことがなかった私。ささやかな一言でも、勇気がいりました。

「今日の料理、ほんまにおいしいね」
「……してもらって、うれしかったよ。ありがとう」

ちょっとした折に、感謝を口に出します。しかし、頑張っているわりには、母の反応がありません。つれない態度に、「もうやめようか」と思うことも少なくありませんでした。

けれど、そのたびに、「みかえりを求めちゃいけん。私から、与えていくことが大事なんだ」と自分を励まし、努力を続けました。


母の涙

それからしばらくして、私が、いつものように読書をしていると、突然、母が部屋にやってきました。

「そんなに本ばっかり読んじゃいけん!」

そう大きな声で言うなり、すぐ出て行ってしまいました。私はあっけにとられながらも、なぜか、母の目にいっぱいたまっていた涙が、心に焼きついて離れません。母がそんなふうに泣いている姿など、見たことがありません。

「お母さん、私を気遣って、泣いとったんじゃろうか」

気がつけば、すぐ思い浮かぶ母の姿は、怒っている顔や、厳しい表情ばかり。はっとしました。

「私は、かたよった見方をしてきたんじゃないじゃろうか……」

子供のころの母の姿が、次つぎと思い浮かんできました。毎日の食事やお弁当づくり。母親参観のとき。運動会。家族旅行……。あらためて思い返すと、母にしてもらったことが、たくさんよみがえってきます。涙があふれてきました。

「こんなに愛してもらっとったのに。私が心を閉じて、お母さんの愛情を受け入れんかっただけだったんじゃね。お母さん、ごめんなさい」

あとからあとから涙があふれます。はじめて、心から素直に母に謝りました。それからは、いっそう心を込めて、母への感謝を、言葉や行動で表しました。

ゆっくりと話を聴き、母が興味を持ちそうな幸福の科学の本を勧めました。2、3日すると、母に渡した本が、食卓の私の席に置いてありました。

「これ、もう、読み終わったの?」
「ああ、読んだよ」

何冊も、そんな調子でした。私にはなにも言いませんが、母も考えるところがある様子でした。それから数カ月して、母は自ら幸福の科学に入会したのです。私は、ひとつ母に恩返しできたような気がして、とてもほっとしました。

母との対話のなかで

その後、私は結婚して実家を離れました。なんとなく母のことが気がかりで、しばしば電話しては、話を聴き、なぐさめたり、励ましたり。けれども、母は感情的になると、以前のように、言葉がきつくなってきます。

「仏法真理を学んどるはずなのに」と思うと、責める心が出て、心が揺れました。しかし、仏法真理では、相手を責めるのではなく、理解することが大事だと教わっています。私は、母のことをもっとよく知ろうと思いました。

子供のころのことを尋ねてみると、母は少しずつ話してくれました。母の実家は裕福な家で、祖母は厳格な人だったこと。ある日、家の戸締りをしなかったとひどく叱られ、いらない子のように言われて、とても傷ついたこと……。はじめて聴く話ばかりでした。

話を聴くうちに、母にとっての母親とは厳しいものだったのだとわかりました。そして、自分の叱られた経験から、「自分の子供には同じ思いをさせないように、しっかりした子に育てんといけん」と、一生懸命だったのだとわかりました。

私を叱った厳しさのなかに、母なりの愛情が込められていたのです。そのことに気づいてからは、母のきつい言葉も、徐々に心にひっかからなくなっていきました。やがて、私も娘を授かり、子育てをしていくなかで、いっそう母の気持ちを理解できるようになっていきました。

つらかったという気持ちは、もう、水に流そう……私の心から、わだかまりが消えていき、母と電話で話すのが楽しみになっていきました。


母の宝物

母も、幸福の科学の教えを学んで、自分を変えようと努力していました。毎日、お祈りや反省の時間をとり、自分を振り返っているようでした。

話していても、感情的にならないよう努力しているのが伝わってきます。母は少しずつ家族や周囲の人に対しても、人あたりのよい、まるい人になっていきました。

こうして、母が幸福の科学に入って、数年が過ぎたころのこと。私は、娘のSといっしょに実家に帰っていました。娘と遊んでいると、不意に、そばにいた母が言いました。

「H、大好きだよ。Hは、私の宝物だよ。ちっちゃいとき、すごい意地悪してごめんね」

とても優しい声でした。胸がいっぱいになりました。

「ありがとう……」

そう言うのがやっとです。母の顔を見ることもできません。母も、それ以上、なにも言わずに、静かにそばにいてくれました。私は、娘をあやしながら、母の愛を感じて、幸せな気持ちにひたっていました。このときから、いっそう深いところで、母と心が通いあえるようになりました。


私のいちばんの味方

いま、母は、私のいちばんの味方です。なんでも本音で話すことができ、ときには相談にものってくれる心強い存在です。

実家に帰れば、毎晩遅くまで、母と語りあいます。ほんとうに楽しくて、時を忘れてしまうほど。娘のSも、おばあちゃんが大好き。母も、私たちが帰ってくるのを楽しみにしているようです。

母は、幸福の科学の活動にも熱心に取り組んでいるようです。「多くの人に幸せになってもらいたい」と語る母の姿に、私は、母の愛情深さをあらためて感じます。

お母さんの娘に生まれることができて、本当によかった。しみじみとそう思います。いまでは、父と母、妹、そして子供たちも、幸福の科学の会員となりました。

互いに怒りをぶつけあって、心の休まらない家庭で暮らしていた私たち。それが、いま、こうして同じ仏のほうを向き、信じあい愛しあい、強く結びつきあっている──。あたりまえの家族の風景が、私にとっては、限りなく大切なものに思えます。

もし、幸福の科学にめぐりあうことができなければ、きっと、こんな日は来なかったに違いありません。あらためて、仏法真理の素晴らしさを実感し、仏への感謝があふれてきます。

この幸福をかみしめながら、これからも、大好きな母と、家族とともに、多くの方の幸せのために生きていきたいと思っています。


「与える愛の実践」でスランプを脱出できた!(体験談)

2018-11-16 14:36:28 | 日記

http://voicee.jp/201401083789

数年前、大学を卒業した私は、さらに服飾デザインの勉強がしたくて、故郷の九州を離れ、大阪の専門学校に通い始めました。はじめはコンテストで優秀賞を受賞するなど意気揚々でした。しかし、次第にデザインする楽しみ自体がなくなっていったのです。

ぷっつりと制作への意欲が失せ、スランプに陥ってしまいました。学校にも行かず、パチンコに明け暮れる日々。仕送りを使い果たすと、一日中アパートに引きこもってゴロゴロする生活が何カ月も続きました。

みじめな自分

俺はいったい何やってんだ――。やりたいことが分からなくなり、本当にみじめでした。仕送りをしてくれている親のことを思うと罪悪感もこみ上げてきます。ある日、部屋の中で、ボーッと宙を見つめていると、「あるもの」が目にとまりました。幸福の科学の根本経典『仏説・正心法語』です。

高校を卒業する際、兄から勧められて入会していたものの、支部にも数回行ったきりでした。私はふっと『正心法語』に手を伸ばしました。

「大宇宙に 光あり 光は 仏の 生命なり――」

一句一句、口ずさんでいると、ふわっと体が温かくなってきました。

「あったかいなあ……」

なぜか涙があふれてきました。私は兄から『太陽の法』を勧められて読んだ時、宇宙の起源や次元構造などの壮大な話に惹かれ、入信しました。しかし、心の教えを深く学んだり、実践してみたことはありません。

「こんな状態の自分が立ち直れるのは、幸福の科学しかないんじゃないか。真剣に教えを学んでみようか――」

思い切って最寄の支部を訪ねていくと、支部長がアドバイスをして下さいました。

「毎日一つでいいですから、『与える愛』の実践をしてみて下さい」

小さな与える愛から

小さなことからでしたが、人に会ったら笑顔で挨拶をしたり、ことあるごとに「ありがとう」の言葉を出すようにしました。真理を学びながら学校もアルバイトも再開。人に関心を向けていくなかで、友人の悩みを聞く機会も増えていきました。

思わず、学びたての真理を熱く語っている自分がありました。「心が落ち着くよ」と友人を幸福の科学の精舎にお連れしたこともあります。

そんな伝道の日々を送るうち、友人や家族が一人、二人と喜びの中で入会していきました。出口を求めて悶々としていた自分が、人を幸福への道にお導きすることができた――この伝道の経験は私に一つの自信を与えてくれました。

「伝道や仕事を通じ、多くの人を幸福にしたい。これが自分の生きるべき道だ!」

その後、服飾ブランド店に就職。これまでお世話になった人たちに恩返しをするつもりで、懸命に働きました。店長にも抜擢され、業績が全店舗中トップに。無気力な日々を送っていた自分がここまで変われたのは、まさに信仰のおかげです。

経典『発展思考』に、人生の指針としている一節があります。「理想と愛を持っている人は、多くの人びとのためになりたいと思っているために、その仕事が大きくならざるを得ないのです」――これからも限りない発展を目指し、何事にも果敢に挑戦していきます。


心の汚れが取れ、身も心も軽くなり、本当の自分に生まれ変わることができた。(体験談)

2018-11-16 14:35:53 | 日記

2012年の3月、日本のHappy Scienceの学生メンバーが、フィリピンへ布教活動に来ていたのがきっかけで僕はメンバーになりました。

マニラの街で、一生懸命、布教活動をする彼らをたまたま見かけ、以前から日本に興味があった僕は、自分から彼らに声をかけました。

そして、「近くにあるHappy Scienceの支部に来ないか?」と誘われたので、行ってみることにしたのです。

支部では、スピリチュアルに関するさまざまな話を聞かせてくれて、これまで自分が知らなかった世界がどんどん開けていく気がして、胸の高鳴りがとまりませんでした。

僕はその場ですぐにメンバーになり、それから大川隆法総裁の英語版書籍『太陽の法』『黄金の法』『創造の法』など、時間の許す限り、読めるだけの本を読み進めていきました。

その内容は、「宇宙の法則」や、「人間がこの世に生まれてくる意味」など、これまでに出会ったことのない、とても奥深いものでした。

「この教えをもっと深く学びたい――」。そう思った僕は、2013年、日本を訪問。

「Happy Science」の研修施設、聖地・四国正心館で3週間の雲水修行をしました。

研修や瞑想などを通して、静かに自分の心と向き合い、「人や自分を不幸にする間違った心を持っていないか」、「今後どのように生きれば、神仏に恥じないまっとうな人生を生きられるのか」などを考え続けました。

そして、雲水修行を終える頃には、心の汚れが取れ、身も心も軽くなり、本当の自分に生まれ変わることができたのです。

今後はフィリピンはもちろん、各国にこの教えを伝え、世界を一つにする活動をしていきたいです。


ダウン症の次男の子育てで気づいた、小さな成長を喜ぶ心(体験談)

2018-11-16 14:35:26 | 日記

http://voicee.jp/2015032010857


不安性の私

私は、人から「趣味は何ですか?」と聞かれると、「子育てです。」と答えます。

子育ては大変なことも多いけれど、母親でいられることは本当に幸せなこと――。

そう思えるようになったのは、K(小2)とH(2歳)の2人の子どものおかげです。

結婚7年目にしてようやく授かった長男・Kが生まれたときは、何もかもが不安でした。

湿疹が出るとオロオロし、洗濯済みのおしめの枚数が少なくなると、「すぐ洗わんと」と焦りが募ります。眠っているKのもとに何度も足を運んでは、「ああ、息をしている。よかった」と確認しないではいられないものでした。

遠足の日の出来事

Kが小学生になり、遠足の日を迎えた朝のことです。

支度が遅れ、集合時間に遅れそうな時間に家を出たKが、なぜか泣きながら帰ってきました。

「K、どうしたと?」

「ランドセルいらんやろか?」

昨日、担任の先生から、「雨が降りそうだったら、授業をする。」と言われたらしいのです。でもその日は、雲ひとつない快晴でした。

「晴れとるから、ランドセルなんかいらんよ」

「でも雨、降ったらどうすると……」

「降らんから、大丈夫よ」

私は、小学校に連絡を入れ、不安がるKを、途中まで送っていきました。

その晩、この出来事を主人に話しました。

「何でそんなことで不安に思うんやろな」

「そういえばこの間も、ご飯を食べ終わったのに、何もせんでジーッとしてた。私が『片付けんね』って言ったら片付け始めて……。ちゃんと自分ができるかどうかも心配みたいだし、何か言われないと不安みたいなんよ。何か関係あるんかねえ?」

幸福の科学の法友に相談したところ、私が先回りをして何でも指示するので、それを待つ癖がついたのかもしれないとアドバイスをもらいました。

「やっぱり、私に問題があるんかなあ……」

いろいろ考えてみても、何が原因なのかは分かりません。私の心の問題がはっきりと見えてきたのは、次男・Hがきっかけでした。

ダウン症の次男

生まれてきたHは、生後、すぐに「ダウン症」の疑いがあると言われました。

1カ月後、検査の末、「ダウン症」だと診断されたときには、涙が止まりませんでした。

私は、幸福の科学の仏法真理で「肉体はどうであれ、魂はみな健全」と学んでいたので、「この子もしっかり育てていかなきゃ。きっと大丈夫――」と何度も自分に言い聞かせました。

Hは哺乳の際に吸引する力が弱く、体重がなかなか増えません。少しずつ増えた体重も、夏になると痩せてしまったり、便が3、4日でないこともあり、心配のし通しです。

そんな私をよそに、Kは、弟ができたことが本当に嬉しいようでした。

「ねえ、お母さん、Hちゃんは宇宙一かわいいねえ。ダウン症だから、かわいいんかなー?」

「ああ、そっか……。そんな見方もあるのか」と、Kの言葉に、心が軽くなった気がしました。

小さな成長を発見して喜ぶ心

Hは毎週一回、発達に課題のある子どもたちの集いに参加しています。

あるとき、Hよりも後に生まれたダウン症の女の子が入ってきました。その子は体も大きく、今にもハイハイしそうです。

「え!? こんなに成長の早い子もいるんだ……」

体の小さいHが、弱々しく見えました。

会うごとに、自分から動こうとしたり、物を取ろうとするその子の成長を見て、心の中は穏やかではいられません。

「Hはまだ、一人できちんと座れないのに……」

何とも言えない不安と焦りに襲われました。

それからしばらくしたある日の夕方。

「お母さん。作文の宿題みてー」

Kがそう言ってきました。

作文のテーマは、「家族の自慢」です。

「何書くの?」

「うーん。Hちゃんのこと書く。Hちゃんの自慢はいっぱいあるもんね」

『おとうとは、さいきん手をつかないですわれるようになりました。』

内心、「Hはもう10カ月だもん……。普通の子だったらとっくにできるから、担任の先生が読んだら『あれ?』って思うだろうなあ」と思いながら、作文を書くKを見ていました。

『まだゼロさいなんですよ! じまんです。』

私は、ハッとしました。

Kは、昨日のHよりも今日のHはすごいと、素直に思っていました。「ダウン症だから」という同情もなく、ただ目の前にいる弟の小さな成長を発見して、喜んでいたのです。

このとき、自分がHの成長を、他の子と比較して見ていたことに初めて気づきました。

健常児と比べても仕方ない――。でも同じダウン症の子と比べて、できないことが目にとまると、心が揺れていたのです。

その晩、私は御本尊の前で、これまでの子育てを振り返ってみました。思い返してみると、Hだけでなく、Kに対しても、他のお子さんと比べて、「できる」「できない」で一喜一憂してきた自分がいました。

「私の不安が、Kにも伝染していたんだ……」

細かいことに口を出したり、手を貸したり、おせっかいを焼いてきたのも、他のお子さんよりも、Kが「できない」と見られたくないという親の見栄からだったのです。

「K、H、ごめんね。KはK、HはHなんだよね。他の誰とも変えられない――」

そんな当たり前のことが、胸の内に広がり、子どもたちへの愛しさでいっぱいになりました。

他の誰とも比べる必要はない

Hも2歳になる頃には、しっかり座れるようになり、物をもてるようになってきました。

食事のときにスプーンを口元に持っていくとアーンと口をあけ、食べます。

ある日、Kが言いました。

「ねえ、お母さん。Hちゃんにやらせてみて。こぼしてもいいやん」

「え?」

「Hちゃん、自分で食べられるっちゃない」

(あ、私また、手を出しすぎていたんだ!)

Kの言うとおり、やらせてみないと、Hはいつまでたってもできないままです。

初めは、ご飯を口に入れた途端、スプーンを投げてしまいました。

「落としても、服や絨毯を汚してもいい。やらせてみよう!」

半月もすると、スプーンを投げたりせずに、上手にパクッと食べられるようになりました。

Kに対しても、「○○をしなさい」と言う代わりに「次に何したらいいと思う?」とか「何時に寝ると?」と自主性を育むようにしました。

先日、登校前にKが言いました。

「お母さん。今日からね、学校に行くとき、外までお見送りせんでもいいよ」

(ああ。私が口を出さなくても、この子も自分の力で成長しているんだなあ……)

人間はゼロからスタートし、他のだれとも比較できない独自の人生を歩んでいる。――そのことを、私はKの素直な目から、そしてHの小さいながらも一生懸命に成長する姿から、教えてもらいました。

当たり前のことの中の喜びが、幸せを運んできてくれたのです。何よりそうしたゆっくりとした成長であっても、仏様は温かいまなざしで待ってくださっていると思うと、心の中の不安が消え、ありがたい気持ちがあふれてきます。

K、H、私をお母さんに選んでくれてありがとう。これからも、一緒に成長していこうね。


「人間としての信用を培う」大川隆法総裁

2018-11-16 14:35:02 | 日記

「人間としての信用をつくるのに、

いちばん大事なスタート点は何か」というところに話を持っていくと、

それはやはり、

「善悪を知る心を養えているか」ということだと思います。



『夢は叶う』 P.87

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自己中心的だった私がみんなと心を一つにできた!(体験談)

2018-11-16 14:34:33 | 日記

http://voicee.jp/2015020610723

絶交の手紙を突然親友から受け取った

中学2年のある日の放課後のことです。帰宅しようと思って教室に戻ると、私の机の上に1通の手紙が置いてありました。

手紙を見ると、私の親友で同じ吹奏楽部に所属しているLちゃんの名前が書かれていました。

中身を読んで私は愕然としました。

「世界はYちゃんを中心に回ってるんじゃないんだよ。もう、Yちゃんの性格にはついていけない。友達やめたい」

それは明らかに絶交の手紙でした。

いったい何があったのかもわからず、とにかく私はすぐに隣のクラスのLちゃんのもとに駆けつけました。

しかし、Lちゃんは「何も話すことはないよ。手紙に書いてあることがすべてだから」と冷たく言い放ち、クラスの友達と一緒に帰っていきました。

突然の出来事に、私は込み上げてくる涙を抑えることができませんでした。でも、しばらく経つと、悲しかった気持ちが、自分を否定されたことへの悔しさに変わっていきました。

「どうしてあんなこと言われなきゃいけないの? Lちゃんだけが友達じゃないし、別にいいや」

それ以来、Lちゃんとは一言も口をきかないまま、私は中学を卒業しました。

吹奏楽部で服装や頭髪、練習態度の指導係に

私は、高校でも吹奏楽部に入部しました。そして、2年生の6月、部の「統制役」となり、部員の服装や頭髪、練習態度を指導することになりました。

半年後に迫ったクリスマスコンサートに向けて必死だった私は、「もっと真面目にやってよ!」「だらしない服装で、やる気あるのっ!」といったぐあいに、相手の状況にお構いなしで、一方的に命令することが多くなりました。

次第に、部員達との間に溝が深まっていくのを感じました。練習が終わると、私と目も合わせず、無言で帰っていくのです。

その理由がわからず、「私はこんなに頑張ってるのに」「みんな、ちゃんとやってよ」という気持ちになっていました。

そんなある日、追い討ちをかけるように、男子にこう言われたのです。

「おまえ、口うるさいだけで、全然みんなの役に立ってないよな!」

コンサートを目前に控え、部の雰囲気は最悪の状況でした。

自分のことしか考えてなかったことに気付いた

途方に暮れた私は、以前からよく相談をしていた、母が通っているテニススクールのコーチに、気持ちを打ち明けてみました。その方は、幸福の科学の信者でもありました。

その人は、自分の言いたいことばかり押し付けていたら人はついてこないと言い、今の私にきっと必要なことが書いてあるからと、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』という本をわたしてくれました。

家に帰って早速読み始めると、次のような箇所が目に留まりました。

「『どうしてこんな結果しか出ないのか』など、与えられないことばかりを考えている人は、きらわれて当然です」

ドキッとしました。私は、自分の思う通りに動いてくれない部員に不満を持ち、責めてばかりいました。

そこで私は、中学の時Lちゃんに言われた言葉を思い出しました。

「Yちゃんは、自分の話は聞いて欲しがるのに、私の話は全然聞いてくれないんだね」

Lちゃんのときも、今も、同じ間違いをしていることに気が付き、私は初めて、Lちゃんに対して申し訳ない気持ちで一杯になりました。

これから部のみんなとどう接していけばいいだろう、と不安に思いながら、答えを求めて読み進めると、こう書いてありました。

「自分のために生きようとすれば、他の人は助けてくれません。ところが、他の人のために生きようとすれば、他の人が助けてくれるのです」

これからはみんなのために頑張っていこうと強く決意しました。

それから私は意識して、部員一人ひとりに声を掛け、話を聞くようにしました。

2週間程経つと、「最近のYちゃん、話しやすくなったね」と、以前は目も合わせてくれなかった部員が打ち解けてくれるようになりました。お互い心が通い始め、部内にまとまりが出てきたのです。

コンサート前日の夜。私は、みんなの顔を思い浮かべ、一人ひとりに感謝していきました。

心が一つになったコンサート

いよいよ本番当日。会場には何百人ものお客さんが入っています。部員のみんなも緊張している様子です。

「大丈夫。今の私達の、最高の演奏をしようね!」

1曲目から、部員の心が一つになっていました。練習の時は、あんなにバラバラだったのが嘘のようでした。

すべての曲目を終えると、会場は割れんばかりの大きな拍手で包まれました。

「こんなにうまくいくなんて!Y、ありがとう!」

思いがけない感謝の言葉でした。

みんなの嬉しそうな笑顔を見て、私は感激で胸が熱くなりました。

自分のことだけ考えていた時は、周囲の反発ばかり招いていました。でも、自己中心的な性格を反省し、部員のために考え、行動すると、急にみんながまとまり始め、大きな舞台で成功できたのです。

今後も、常に周囲の人を思いやれる人となれるように、努力していきたいと思います。


心の発展は無限。53歳にして人生観が転換!孤独な職人から副工場長へ(体験談)

2018-11-16 14:34:12 | 日記

http://voicee.jp/201407049992

勤務先の倒産

「今月で店をたたむことになった。Hさんにも辞めてもらわないと……」

10年以上前のことです。勤めていた老舗(しにせ)和菓子屋が倒産しました。

「またか……」。実は、以前勤めていた店も経営不振で廃業しており、私にとっては2度目の経験だったのです。その時私は61歳。普通に考えたら、再就職は非常に難しい状況です。

しかし、私は信じていました。「あきらめなければ、必ず道は開ける」と。その強い思いを支えてくれたのが、幸福の科学の信仰でした。

15歳で和菓子の道へ

今でこそ、「和菓子作りが天職」と信じる私ですが、職人の道に入ったのは自分の意志ではありませんでした。

私が生まれたのは、第二次世界大戦が始まる2年前の1937年。生後2カ月で母を亡くし、父と祖母の3人で東京の本郷に暮らしていました。

祖母といっても、祖父の後妻に入った人で、血のつながりはありません。私はいつも、母のいない寂しさを抱えていました。

小学2年生になる時、群馬の叔父の家に移り、ほどなくして終戦。同じ頃、祖母は他界し、父は東京に働きに出て、私は一人、居候として肩身の狭い生活を余儀なくされたのです。

一日も早く独立したいと思った私は、中学卒業後、銀座の和菓子屋で住み込みの仕事に就きました。屋根裏部屋で寝起きし、早朝から深夜まで、雑用や力仕事をこなす日々。

銀座という土地柄、深夜に料亭から注文が入ることも多く、12時過ぎに配達に出ることも珍しくありませんでした。

孤独な職人時代

20歳になる頃、ようやく仕事場に入ることを許されました。といっても、まずは洗い場です。上下関係がはっきり分かれている厳しい世界でした。

道具が汚れていると、げんこつが飛んできたり、餡のでき栄えが悪いと、容赦なく投げ捨てられたりもしました。

職人の技も、当時は盗んで覚えるのが当たり前。残った餡で、夜中に丸めたり包んだりする練習をしたものです。

そうして、10年20年と腕を磨いていった私ですが、心はいつも孤独でした。生い立ちへの引け目から、自分に自信が持てず、修業に打ち込むほどに、他人に心を閉ざすようになっていったのです。

28歳の時に結婚しましたが、数年で離婚。母の記憶がない分、お嫁さんを大事にしようと決めていたのですが、現実は思うようにはいかないものです。その挫折体験が、人間不信に拍車をかけました。

53歳にして人生観が転換

そんなある日のこと、一つの新聞広告が目に留まりました。大川隆法先生の講演会の広告でした。心惹かれるものを感じ、当日、一人で会場へと向かいました。

「これは本物だ……」。説法の力強い言魂に心打たれた私は、ほどなくして入会。支部の皆さんと一緒に、本格的に教えを学び始めたのです。

とくに感銘を受けたのは、「人間は永遠の生命を持って転生輪廻している存在であり、人生には目的と使命がある」という霊的人生観です。

53歳にして、人生観が180度転換しました。

亡き母への思い

心の修行を深めたいと思った私は、家庭御本尊を自宅にご安置して、朝晩、経文を読誦するようになりました。

御本尊をいただいて1年くらい経ったある日のこと。いつものようにお祈りをしていたところ、ふと、亡き母のことが思い出されました。

「十分に面倒をみてやれなくて、すまなかったね」。そんな母の思いが、心の中に流れ込んできたのです。まるで黄金色の光に包まれているような感覚でした。

「自分は母に愛されたことがないと苦しんできたが、母は、自分を宝だと思って生んでくれたのだ。自分は愛されて生まれてきたのだ……」と、涙があふれて止まりませんでした。

子供の頃からずっと、心のどこかに引っかかっていた、「自分は価値のない人間だ」という思いが消えた瞬間でした。

「母が私を愛してくれているように、仏はすべての者を愛してくださっている。この世に価値のない人間なんていないのだ――」

仏への感謝、そして今まで出会ったすべての人への感謝でいっぱいになりました。

天命の発見

自ずと、仕事に対する姿勢も変わっていきました。以前は、ただ見栄えよく作ればいいと思っていたのが、「買ってくださる方が、このお菓子で、少しでも幸せになりますように」と、一つ一つ心を込めて作るようになりました。

「和菓子を通して世の中に幸福を広めることが、自分の天命だ――」

仕事仲間への接し方も変わりました。以前は、後輩の指導でも、相手を突き放し、失敗すると分かっていても、わざと教えないこともありました。

しかし、相手も仏の子であると思うと、相手を思いやる気持ちが湧いてきます。 「餡の量を減らしたほうがいい」「こっちの材料を使ったほうがいい」など、丁寧に教えるようになりました。

また、若い人やパートさんのアイデアも、頭ごなしに否定せず、よいと思ったことは、積極的にほめるようにしたのです。

いつしか、孤独な職人は姿を消し、「分からないことがあったら、Hさんに聞けばいいよ」と、皆さんに頼っていただけるようになっていました。

会社再建――副工場長へ

何より和菓子が好きな私は、定年後も嘱託社員として働きつづける道を選びました。しかし、その矢先に店が倒産――。

年齢を考えると、そのまま引退することもできましたが、私は、「必ず道は開ける」という心の声を信じつづけました。

そして数カ月後。店の再建の知らせが入ったのです。新社長の面接を受け、私はなんと副工場長として再雇用されることになりました。

製菓から箱詰め、発送作業と、連日深夜までフル稼働する生活は、60過ぎの体には堪えましたが、苦労のかいあって、年々経営は安定していきました。しかし、私にはさらなる試練が待っていたのです。

お返しの人生

「Hさん、おかげで店も安定して新しい人も増えてきた。そろそろ、副工場長を若い人に譲って、嘱託に戻ってくれないか」

65歳の時のことです。いままで指示を出していた自分が、一転、一番下で指示を受ける立場に。そのギャップに戸惑い、「いっそ引退しようか……」という思いが何度も心をよぎりました。

その迷いを断ち切るきっかけとなったのは、その頃、支部で拝聴した大川隆法先生の御法話でした。

「65歳が一つのラインです。若い人にも力があることを認め、若い人を立てる考え方をすることです。引き際の美学というものを知らなければいけません」(「『ティータイム』入門」より)

この言葉が決めてとなり、私はプライドを捨て、恩返しの気持ちで、後進の指導に当たる決心がついたのです。

店にテレビの取材がきた時には、「職人代表」の立場で、インタビューを受ける機会もいただき、そのお役も無事に務めることができました。

心の発展は無限

人間はいくつになっても、どれだけ心を高めることができるかという、心の発展は無限だと思うのです。

来世、来々世と、無限の未来が待っていると思えば、何歳からでも夢を描き、努力を始めることができます。

私自身、「生涯、努力精進」の気持ちを忘れず、体の動く限り、多くの人を幸せにする和菓子を作りつづけていきたいと思います。


暴れ狂うDV夫が変わった!おだやかな顔になった!!(体験談)

2018-11-16 14:33:39 | 日記

幸福の科学  voice  より転載

家庭の平安を取り戻すまで

飛び交う罵声、壊される壁。家庭が荒れ、私は20年以上に渡って、心安まらない日々をすごしていました。

我が家が平安を取り戻すまでのストーリーをお話しします。

気性の激しい主人

主人と私は中学時代からの幼なじみです。主人は当時から、地元で有名な「暴れん坊」。社会人になってからも、外でお酒を飲むと、決まって他のお客と喧嘩を始める人でした。

「なんやお前! 表出ろや!」

主人は力自慢で負け知らず。最後に地面に沈むのは、いつも相手の方でした。

(またや。ええかげんにしてほしいわ)

喧嘩のたびにうんざりしましたが、そのうち落ち着くだろうと思い、主人が27歳、私が28歳の時に結婚したのです。

結婚――暴言を吐く夫

結婚後は、2人で食肉卸の会社を始めました。子供も次々と3人授かり、子育てに仕事に、朝から晩まで働き詰めの日々。やがて従業員を雇うようになると――。

「そんなことも覚えられんのかボケ!」

容赦なく怒鳴りつける主人。「そんな言い方せんでも」と、私も思わず口をはさみます。

「うるせぇっ、 おまえは黙っとれ!」

激する主人。顔つきも変わり、切りつけるような言葉を次々と浴びせます。

夫の怒りで家庭は地獄に

主人の怒りは家でも爆発。仕事が思うように進まなかった日は特に、おかずの品や箸の置き方にまで因縁をつけてきます。

「おかずがないやんか!」

「こんなに並べてあるやろ」

「肉がないやろ、肉が! 分からんのか!」

あまりの理不尽さに、私も怒鳴られる一方ではいられません。

「そんなことで怒鳴らんといて!」

「なんやお前!」。バキッ!

携帯を折って床に叩きつける主人。主人は物に当たるため、わが家の壁やテーブルは、穴だらけでした。

幸福の科学に入会

そんなある日のこと。集金の合間に書店に立ち寄ると、1冊の本の題が白く光って見えました。それが、幸福の科学の『仏陀再誕』という本でした。私は思わずその本を買って帰り、主人や子供が寝静まってから読み始めました。

その時の感動は忘れられません。そこには、人が生きる意味や、正しい心のあり方などが、心に染み入る言葉で語られていたのです。

主人にも読んでもらおうと思いました。しかし主人は、「アホか! 宗教なんて弱い人間がすがるもんや!」と一蹴。私は仕方なく、1人で幸福の科学に入会したのです。

「悪霊を追い出さなあかん!」

幸福の科学の「仏法真理(ぶっぽうしんり)」を学ぶうち、人間の魂は永遠の生命を持つことや、間違った心で生きた人が死後、「悪霊」となって地上の人間に取り憑き、人々を不幸にしている事実を知りました。悪霊に憑依された人は、人が変わったように怒ったり、他人を攻撃する特徴があるそうです。

「それ、まるでパパやん! 悪霊の影響やったんか……」

さらに、悪霊に憑依される原因は本人の心にあり、「波長同通の法則」といって、怒りや憎しみ、猜疑心などを持っていると、同じ心の悪霊を引き寄せてしまうというのです。

そのため、お祓いなどで悪霊を取っても、仏法真理に沿って自分の心を変えない限り、悪霊は戻ってきてしまうというわけです。

「家の中から悪霊を追い出さんと――。パパも仏法真理を学んでくれたらなぁ」

まず、私が変わろう

主人に変わってほしいと思いましたが、仏法真理では、「まず自分が変わることが大切」と教わります。

「パパのいいところって何やろ?」。そう考えてみると、主人は1日中、家族のために働いてくれています。普段は子供を釣りやテーマパークに連れて行ってくれる、家族思いの優しい人です。帰宅した主人に心を込めて伝えました。

「パパ、いつも働いてくれてありがとな」

主人は、さかんに照れながらも嬉しそうでした。私は主人の好きな肉料理を毎回作るなど、主人の喜ぶことを実行しました。すると、いつもなら爆発する場面でも、落ち着いていることが多くなったのです。

荒れつづける夫

そんな努力を続けて2年ほど経った頃。「ママは最近、俺の気持ちが分かるようになったやないか」と言ってくれるようになり、主人が幸福の科学に入会したのです。

(よかった! これでわが家も安泰や)

――しかし、現実は甘くはありませんでした。

「こんなもん食えるか!」

虫の居所が悪いと、お膳に並べた料理をぶちまける主人。クモの子を散らしたように自分たちの部屋へ逃げ込む子供たち。それが度重なると、私も我慢の限界です。

「ほんなら食べんでええわっ」。私も流しに料理を叩きつけます。怒り狂った主人が壁に鉄拳を打ち込むと、中の耐火ボードまで破壊されました。まさに生き地獄――。

泣きながら車で走った夜の街

そんな時、私は車で家を飛び出し、夜道を運転しながら大声で泣きました。カーステレオからは大川先生のご法話が聴こえてきます。

「大事なことは、心に曇りをつくらないこと、毒を食わないことです」「他人の心は変えられなくても、自分の心を変えることはできます。しかし、自分の心が変わることによって、そこから発散される善念、善なるエネルギー、光が、実は他人を変えていくのです」(『理想国家日本の条件』より)

ご法話を聴いていると、不思議と心が鎮まっていきます。

(そうや。私まで心を乱しとったら、それこそ悪霊の思う壺や。負けられん! どんな時も仏の教えを守っていこう)

主人と喧嘩しては家を飛び出し、ご法話を聴いて気を取り直して家に帰る。そんな生活が数年続きました。

まさかの子宮破裂!

「い、痛い……!」

それは突然の出来事でした。ある日、下腹部に激痛が走り、大量に出血。私はその場に崩れました。朦朧とするなか、なんとか車を運転して病院へ行くと――。

「Tさん、原因は分からないけど、子宮が破裂しています。絶対安静。入院です」

医者はそう言いますが、仕事は休めません。重たい体を引きずりながら家に帰り、仕事を続けました。主人の言葉の毒を溜め込んでいるから、病気になったのだと思いました。

心が病気を作っていた

そんなある日、幸福の科学の書籍の中に、こんな言葉を見つけました。

「ご主人が怒ったとしても、それはほんの三秒や五秒です。このことを、奥さんは一日二十四時間、忘れないわけです」(『人生の発見』より)

ハッとしました。まさしく私のことです。

確かに、主人は1日中怒鳴っているわけではありません。私が怒鳴られた場面を反芻し、恨みを募らせていたのです。

そう気づいたら、主人を恨む心が、ふっと解けたような気がしました。心の持ち方が幸不幸を分けることを、身を持って知ったのです。

研修で激変した夫

私は、主人にも心を変えるきっかけを得てほしいと思い、総本山・日光精舎の「八正道研修」(※1)に参加することを勧めました。

嫌々出かけた主人でしたが、帰ってきた時は見違えるほど清々しい表情をしていました。そして、「人のいいところを3つ見つける」など、研修での決意を書いたカードを、見せてくれたのです。

「研修受けて気づいたんや。俺は人に対する感謝が足りん。だから、感謝することを忘れんよう、紙に書いて持っとくわ。もし俺が忘れてたら、言ってくれよ、ママ」

その日から主人は、従業員に注意する時も言葉を選んだり、怒りをぐっと我慢したりと、自分を変える努力を始めたのです。

※1 自分の心や言葉や行いを、8つの項目に沿って反省し、自分を見つめていく研修。

祈りの力で悪霊を飛ばす

しかし、しばらくすると主人はまた、以前の姿に戻ってしまいました。

主人が暴れると、私と子供たちは2階に上がり、声をひそめて「悪霊撃退の祈り」(※2)をあげます。

「主よ 我に 悪霊撃退の力を お与えください……」

すると突然、階下から叫び声がします。

「祈るなー! 気持ち悪いー!」

お祈りの声が聞こえるはずはありません。祈りの力を受け、悪霊が苦しんでいるのだと思いました。

お祈りを終えて下に行くと、主人はすっかりおとなしくなっています。

「パパ、さっき何であんなに怒ったん?」

「うん、何でかなぁ? よう分からん」

(憑くと憑かんとでは、こんなに変わるんや!)

※2 三帰誓願者に授与される『祈願文①』に所収されている祈り。読む者の信仰心の強さに応じて、悪霊の影響を断ち切る力が与えられる。

焼け落ちた工場

そうして、一進一退の闘いをくり返すなか、私は40歳を過ぎて4人目の子供を出産しました。末っ子の可愛いさに喜ぶ反面、体はとても疲れやすくなりました。いつもなら聞き流せるような言葉でも、疲れた身には突き刺さります。

(この人は何も気遣ってくれん。もう限界や。離婚した方が楽や)

仕事は事務員に任せ、私は家事と育児に専念。主人がどんなに怒っても、取り合いませんでした。

私が離婚を決意して数カ月ほどたった頃。夜に突然、家の電話が鳴りました。

「大変や! あんたの工場、燃えとるで!」

家と工場の間は、車で5分ほどの距離です。駆けつけた時、工場はゴーゴーとうなる真っ赤な炎に包まれ、私たちの目の前で、無残にも焼け崩れていきました――。

消火が終わり、焼け跡に足を踏み入れると、点々と光っている物があります。不思議なことに、幸福の科学の根本経典である『仏説・正心法語』や宝具だけは、全くの無傷で残されていたのです。それだけは邪悪なものも手出しができなかったかのようでした。

焼け跡を見つめる主人の顔は、「憑き物が取れた」ように、しっかりと前を見つめていました。

「お客様に迷惑かけんよう、最善を尽くそうな、ママ」

悪霊にそそのかされていたのは私

夜が明けると、火事を知った知り合いが、次々と駆けつけてくれました。

「ほんま大変やったなぁ。大丈夫か?」

お金や食べ物を差し入れてくださったお得意さん。冷蔵庫を貸してくれた同業者。多くの人の厚意に助けられ、近くの工場を借りて、仕事を続けることができたのです。

私は火事の前に、主人を見限ったことを悔やみました。そんな気持ちになった私こそ、悪霊にそそのかされていたに違いありません。

パパ、辛かったんやね……

私は主人のことを理解するため、主人が育った環境に思いを巡らせてみました。主人の両親は、気性が激しい方々だったと聞いています。

主人が赤ちゃんの頃、夫婦喧嘩で父親がふり下ろしたビール瓶が頭を直撃し、大怪我をしたこともあったとか。言葉もきついのが当たり前。幼い主人は何を感じてきたのでしょう……。

「今はあんなに強がっているけど、辛かったやろなぁ。かわいそうやったなぁ」

主人の気持ちを考えつづけていくうちに、自然と主人を恨む気持ちが薄らいでいきました。むしろ、主人の心の傷や苦労の多い人生を、丸ごと抱きしめてあげたいと思うようになったのです。

すると、主人にも変化が現れました。

「ママいつもありがとう。感謝しとるわ」。そんな言葉をかけてくれます。

夫婦は本当に合わせ鏡で、愛と信頼があると、悪霊は入ってこれないのだと実感しました。

念願の新工場建設

その後、主人は自分から研修に参加するようになりました。研修での気づきを、ノートにたくさん綴ってきます。

「相手を理解できずに、猛烈に批判し、他の人を不愉快な気持ちにしてしまう自分が、今、すごくダメであると痛切に思います」

「我が強いから、相手を認めることができないんだろうなー。自分だって賞賛されたら嬉しいくせに。常に賞賛する努力をしないといけないなー」

主人は研修を通して、どんどん変わっていきました。それに呼応するように仕事の面でも道が拓かれていき、たくさんの方々の協力を得て、ついに念願の新工場を建設できたのです。

そこで、地域の皆様への恩返しの思いを込めて、新工場の一間を幸福の科学の布教所とさせていただきました。

遠ざかっていった悪霊

それからの主人は、昼休みに布教所でお祈りをしたり、心をふり返ったりするようになりました。

「祈りはええなぁ。心が落ち着く。イライラする自分がちっぽけに思えるわ」

主人が自分の心を調えるにつれ、悪霊の影響も影をひそめていきました。周りの方にも「すいぶんおだやかな顔になったな」と驚かれるほどです。

結婚してから、かれこれ20年以上、地獄のような日々を乗り越えてこられたのは、仏法真理のおかげであると確信しています。

私たち家族を救い、導いてくれた幸福の科学の信仰を、たくさんの方々にお伝えしていきたいと思います。



大川隆法総裁「神仏に近づく第一歩」

2018-11-16 14:31:55 | 日記

私は、みなさんに、「単純に明るく生きることが出発点である」ということを、

そして、「『明るく生きよう。明るく見、明るく振る舞い、明るく考えよう』と思うこと自体が、

信仰への道であり、仏そのものを自らの内に引き入れる行為であるのだ」

ということを知っていただきたいのです。



『発展思考』P.90
http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M264172&c=10209&d=203d

※Amazon
http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M264173&c=10209&d=203d


「ユートピア創造論」② 大川隆法総裁「消極的な幸福」と「動的な幸福」とは・・・・・

2018-11-16 14:31:15 | 日記

 幸福には、「満足」の面を強調した静的な幸福、

つまり、「足ることを知る」という意味での消極的な幸福もあれば、

「進歩・向上」の面を強調した動的な幸福、つまり、

「発展・成長を喜ぶ」という意味での積極的な幸福もあります。



そして、この二つは、いわばブレーキとアクセルのように、

人生という名の自動車の運転に影響を与えているのではないでしょうか。



続くー

大川隆法「ユートピア創造論」より抜粋

 

 

 


1店舗から始めたコンビニ経営が30店舗に!(体験談)

2018-11-16 14:29:02 | 日記

http://voicee.jp/201404199078   より転載

私は大川隆法先生が説かれる経営論に感動し、「人を幸せにする経営」を実践したいと、いつも強く思い続けてきました。

幸福の科学で、自分の心を調え、組織経営論も成功させる仏法真理を学び続け、2005年に1店舗目のコンビニを開業。当初はアルバイトスタッフのモチベーションが低く、人間関係の葛藤を抱えて疲労困憊の日々。自分の思いが試されていると思いました。

私は一人ひとりのスタッフに、「お客様を心から喜ばせたい」という愛の教えを、心を込めて語っていきました。すると次第に、皆が生き生きと仕事に取り組みはじめ、改善提案も出すようになり、笑顔が増え、店の雰囲気が一変。なんと売上は2倍に!

その実績の内容が認められ、今は30店舗の経営を任されています。「愛・知・反省・発展」の四正道を経営に生かし、社会に貢献していきます!


膀胱がんを克服!原因は「心の毒」だった!?(体験談)

2018-11-16 14:28:05 | 日記

進行ガンの宣告

「こんなになるまで放っておく人、見たことないよ」

数年前、私は医師から膀胱(ぼうこう)ガンの宣告を受けました。1年ほど前から血尿のようなものが出ていたのですが、痛みもないので放っておいたのです。

それがある時、職場でトイレに行くと、ワインのような色の尿が……。さすがに青くなり、病院に駆け込んだのです。

ガンはピンポン玉大のものが一つ、ビー玉大のものが二つあり、膀胱の三分の一の表面にニキビ状のガンがびっしりできているとのことでした。

「すぐにでも入院して、膀胱全摘以外にないですね。人工膀胱になります。生活は不便になりますが……」

突然、ガンを宣告され、心の整理がつかない私を前に、医師は淡々と今後の処置について説明していきます。

(ちょっと待ってよ……。まいったな)

ガンになった原因

「ガンというものは、ほとんどの場合、精神的なストレス、悩みや苦しみが原因になっています。(中略)心が病むと肉体も病んでくるのです」(『繁栄の法』より)

すでに幸福の科学の教えを学んでいた私には、ガンになった原因が、自分の心のあり方にあることは分かりました。しかし簡単に受け入れられるものではありません。

日頃の自分の姿が浮かびました。友人や知人に幸福の科学をおすすめしながら、「心を調和して生きることが、大事なんだよ」と諭している自分……。

(人には分かった風なことを言って、自分の心のコントロールはどうなんだ)

病院を出て家路につきながら、そんなことを考えていましたが、ふとびっくりしたことがありました。進行ガンの宣告を受けたのに、昔からあれほどあった「死の恐怖」がありません。

(何かおかしいぞ。信仰を持っているからといって、体裁を気にして恐怖心を隠してるんじゃ……)

家族にガン宣言

その日の夕飯後、妻と当時大学生だった息子と娘に、病気のことをわざと明るく報告しました。

「はい! 今から発表します。私はガンになりました」

と、見渡せば、顔を曇らせる妻、黙っている子供たち。

家族の前でも本心を取り繕っている自分が、なんだか滑稽でもありました。

(まずいぞ。自分の心の闇や嘘を赤裸々にしなくちゃいけないんじゃないか……)

それから間もなく、私は幸福の科学の本やCDをたくさん持って入院しました。そして、検査や人工膀胱のレクチャーを受ける合間に、病室のベッドで、真理の書を開きながら心を見つめていったのです。



心の毒の発見

心の作用でガン細胞をつくってしまったのですから、よほど心に毒を溜め込んでいったに違いありません。

当時、私は郵便局の局長を務めていたのですが、心が揺れるシーンとなると、やはり職場のことばかりが出てきます。

書類の処理が要領を得ない部下へのイライラ。何回も同じことを言わせる部下を見下すような思い。お客様へのサービス精神に欠ける部下にカッとなりそうになってしまうこと。

(なんでできない!)( バカヤロー、何度言ったら分かるんだっ)

面と向かっては言わないまでも、心の中では罵声を浴びせていました。

それは明らかに、部下を生かす思いというよりも、仏法真理で戒められている「瞋(じん)=怒り」の心です。

さらには、そういった自分の思い通りにならない出来事があると、何十分でも何時間でも、その事に不満を持って思い続ける癖があることも発見しました。それは、心の中でずっとグチを言い続けている「 癡(ち)=愚か」の心です。

私は要領もよく、人からは社交的と言われていましたが、外見からは分からない心の中は、人を責める思いや言葉が渦巻いていたのです。

心の中の謝罪

入院前、職場で病気のことを報告すると、「ゆっくりしてきてください」と、どことなくホッとしているように見えた局員たち。

(皆、こんな寛容じゃない上司の俺と仕事してつらかったのかな、本当に申し訳ないことをしてきたのかもしれない)。私は部下の一人一人に、心の中で詫びていきました。

次に私は、自分のそんな傲慢さがどこから来ているのか、人生を振り返っていきました。

私は父が会社経営をしながら議員をしている家の6男として生まれました。小学生になると子供のいない親戚に養子にいき、養父母からそれは大切に育てられました。

そして大学卒業後は、知人の紹介で郵便局に就職。29歳の時、縁あって大手航空会社の客室アテンダントだった妻と結婚し、家も新築。35歳で特定郵便局の局長に抜擢。その郵便局は、全国有数の商工団地にあったため、毎年抜群の営業成績をあげることができ、日頃の付き合いから政財界とのパイプも太くなっていきました。まさに順風満帆の人生。

私は、知らず知らずのうちに「慢心(まんしん)」していたのです。

多くの人に生かされて

日頃、部下に業務の手本を見せる時も、「どうだ」とばかりに接客したり、窓口業務についたり……。私の慢心ぶりが部下の鼻につかないはずはありません。

「『自分はよくやったな』とだけ思っている人は、忘れているものが多いのではないでしょうか。確かに努力はしたかもしれない。しかし、『その努力を反映する場を与えてくださった人びとがいた』ということを忘れてはならないのです」(『人生の王道を語る』より)

幼い頃よりお世話になった人の顔を思い出していくと、限りがありませんでした。大量の人に連綿と世話になりながら、今の自分がある。そのことを思うと、長い間忘れていた心を思い出しました。 それは「謙虚さ」です。

20代の頃の、素直で初々しかった自分が、まぶしく思い出されました。

「死」の覚悟

その合間にも、他の臓器への転移を調べる検査が何度となく行われ、私は「死」を覚悟し、腹をくくりました。

兄たちが原爆や病気で亡くなっていることも影響してか、物心ついたころから「死」の恐怖を抱いていた私でした。

しかし信仰を持ってからは、あの世の実在を確信。医師からガンを宣告された時、死の恐怖がなかった自分に驚きましたが、信仰によって護られていたのだと気づいたのです。

「これまでのことはすべて、自分で蒔いた種だ。仏に全託し、たとえどんな結果になっても受け入れよう」

今の自分にできることを

幸福の科学の支部では、支部長が「病気平癒祈願(びょうきへいゆきがん)」をしてくださっていると聞きました。

同じ信仰を持つ仲間がいて、いつも私のために祈ってくださっていること。順境の時も逆境の時も見守ってくださっている仏がおられること。

(信仰とはなんと心強きものか)。病気になって初めて、そんなしみじみとした思いがこみ上げます。

「オレは今まで人から与えられてばかりで、『奪う愛』の塊だった。だからこれからの人生は無私なる愛を実践して生きていこう」

死ぬのは怖くありませんでしたが、この世の生を閉じる時、周りの人にもっと優しくしてあげればよかった、と悔いが残るのはつらいと思いました。病身であっても、今の自分にできることからやっていこう、と心に誓ったのです。

「与える愛」の実践

病室は4人部屋だったのですが、病室特有の暗い雰囲気に負けじと、自分から話しかけたり、家族に頼んでトランプや花札、知恵の輪を持ってきてもらい、患者同士で遊んだりしました。

また、高齢の方とは、一緒に風呂に入るようにして、体を支えてあげたり、下着の脱ぎ着を手伝ってあげたりしました。そのうち、別の病棟から患者さんが遊びにくるようになり、退院祝い会をやったりと、明るいサロンのような雰囲気になっていきました。

吹き出てきた「感謝」

そんな日々の中で、びっくりするようなことが起きました。

時折、腹から胸に向かって、まるで壊れた水道管から水が吹き出るように感謝が湧き上がってくるのです。

それは病院の廊下を歩いている時や食事の時など、前後の脈絡もなく突然やってきました。そして決まって、「いい人生だったなあ」という言葉が口をついて出、涙がぼろぼろと止まらないのです。

一度その場面に居合わせた妻も、「なにも明日死ぬわけじゃないんだから」と困惑するぐらいでした。

それは自分の人生も、死も、すべて受け入れることができた瞬間だったと思います。そして何かが吹っ切れた気がしました。自分の心の根っこに純粋な感謝があり、私はホッとしていました。

(迷ったらここに戻ればいい――)

「信仰」の奇跡が臨んで

そして手術が迫ったある日。医師がふとこんなことを言い出したのです。

「こんな状態の人にやったことないけど、膀胱を取らずに、悪いところを内視鏡で焼いてみますか?」

膀胱にびっしりできたガンを切除するのは至難のこととは思いましたが、私は先生にお任せすることにしました。ガンが深いため、手術中に膀胱に穴が空く恐れがあるとも言われました。

ところが実際には、手術は成功したのです。

「こんなにひどくなってるのに、ガンが表面にしかない。尿管にも広がってない」と医師も驚きを隠せない様子です。「Fさんがお持ちの信仰のお陰もあるんじゃないでしょうか……」と不思議そうな顔をしていました。

心の財産

ガン発覚から2カ月後、私は職場に復帰しました。

「分からんことがあったら、俺に遠慮せずいつでも聞きにこいよ」

入院前、あんなに皆に伝えてあったのに、聞きに来た部下は誰もいません。以前の私なら心が動揺したでしょう。しかしその時は、私が不在でも滞りなく業務をこなしていた部下たちの成長を祝福し、皆に感謝することができたのです。

手術から数年が経ち、ガンの定期検診の必要もないほどに、健康を取り戻すことができました。退職した今は、地元の会社の役員や、幸福の科学のボランティアをしながら、充実の日々を送っています。

年を重ねるほど、心は、凝り固まった「有(う)」の状態になりがちです。

人間そう簡単に変われるものではありませんが、私にとってこの数年間は、「 地獄の方向を向きがちな心の針を、天国的な方向に振り向ける」ことを常に自らに課し、実践し続けてきた歳月でありました。

まだまだ未熟ですが、習慣づけた心の操縦法は、私の心の財産です。

「新しい生命(いのち)」をいただいて

ガンを宣告された時、もし無信仰の私だったら、死の恐怖におびえながら、医学書を買いに走って、油汗を流しながら読み、何としても肉体生命を延ばす方向で悶々と苦悩したでしょう。

病気がきっかけで、自らの間違った思いに気づくことができました。教えによって、心の傾向にまで踏みこんだ反省ができ、心身の健康を取り戻せたことは、まさに「信仰の奇跡」であったと思います。

支えてくださった幸福の科学の皆さんと、新しい生命(いのち)をくださった仏に、心からの感謝を捧げ、これからの報恩の人生を歩んでまいりたいと思います。