チビ子が定期検診に行きました
薬の経過がよく、手術まではいかず経過を見ることになりました
このチビ子は今や、シャムネコや超血統書付きの猫に匹敵するぐらいの猫となりました
あくまでかかった費用で,ですが
これほど惜しげもなくお金を出す妻は、(私より)猫達のことを可愛がっている気がするのは・・気のせいでしょうか。
今日うれしいことがありました
担当していた保護観察の子が良好処置により観察解除となり、挨拶に来てくれました
卒業していきました
これからの人生を前向きに進んでいってくれることを願うばかりです
この件だけでなく
子どもたちといろいろな場で接していると、思うことがあります
それは
「信用」と「信頼」です
似たような言葉ですが、私はこれを区別して考えています
子ども会でも、空手でも、保護司でも、PTAでも子供たちに接することが多いです
私は冷たいようですが、過去のことについて語る言葉について丸ごと信用はしません
今までの経験で、子供たちはうそをつくこと(もしくは話を脚色すること)が多かったからです
ですから、過去についてくどくどと責めることこそしませんでしたが、子供たちが語る「過去のこと」は信用しませんでした
子どもたちは育った環境によって、そういわざるおえないようになったり、また嘘(誇)を丸ごと信じてくれる大人に自分なりの真実(正義)をいってうまくいった成功体験にとらわれています
それをそのままにすることは、これからの彼らに成長にとって「不幸」なことと思っています
私は(言葉的に誤解されるかもしれませんが)絶対的な正義はないと思っています
あるのは、その立場における正義だけです(自分勝手な正しさ)
その立場での正義(正しさ)について私は疑念を持っています
それは今の国家間ののことを見てもわかるし、黒澤明監督の名作「羅生門」が語ってくれています
そのうえで現実志向となります、つまり・・
「タイムマシンは無い、今反省する言葉言ったとしても、過去に戻れないからやり直しはできない、それは言葉だけのもの。だから大事なの今からの君の行動だと思うよ」ということしかないです、保護司活動の時いつも言っています
「今からどうするか」それが大事だと思っています
そして
子どもたちに接して思うのは、子どもたちは大人に「今の自分をちゃんといさめてほしい」という願望を持っていると感じることです(ここにちゃんとした大人の役割がある)
子ども(思春期の)は潜在的に自分の過度な行動をやめさせてほしいと、大人達に願っている気がいつもしています
そして
自分の本当の姿を知ってくれて、導いてほしい(口や顔では超反抗しますが)という心のなかの思いです(ある意味、良心の声)
やみくもに「信用」はしませんが、私は子供たちの未来を「信頼」します
君はきっと素敵な大人になるよ・・という信頼です
将来の姿を信頼したうえで、その子の今と向き合いたい
やみくもに何でもかんでも信用はしないけど、これからの行動を信頼していこうと私は思っています
松濤道場訓はそれらの教えが詰まった言葉だなと思い、それを残してくれた先人たちに感謝するばかりです
1.人格完成に努めること
2.誠の道を守ること
3.努力の精神を養うこと
4.礼儀を重んじること
5.血気の勇を戒めること
この言葉を実践する姿を見れば、過去がどうであれ(過去のけじめは必要ですが)私は信頼していき、全力で応援していきます
教えるものとしてこの言葉があることに、心から感謝です